第38話 相棒の裏切り
十一月。
青海野県の山間部に位置する、警察の極秘セーフハウス。
外部から完全に遮断された地下空間には、無機質な電子音だけが静かに響いていた。
壁一面に並んだモニターの青白い光に照らされながら、湯我原澪は手元の資料に視線を落としていた。
デスクの上には、いくつかの証拠品が乱雑に置かれている。その中の一つ、使い込まれた黒い革の手帳と、少し傷のついた金属製のボールペンに、澪の涼しげな瞳が静かに注がれた。
(成樹くん……あなたが警察署のデスクに忘れていった私物)
それは、かつて澪が磯嶋成樹とバディを組んでいた頃の思い出の品だった。
張り込みの夜、眠気覚ましにと澪が差し入れたボールペン。二人で追った裏社会の資金洗浄事件の捜査記録がびっしりと書き込まれた手帳。そこには、正義を信じて共に戦ったはずの、確かな「信頼関係」の痕跡が残されていた。
「湯我原くん。鑑識に回していた非公式の鑑定結果が出たぞ」
背後から重々しい足音を響かせ、佐久本管理官が近づいてきた。その手には、厳封された一通の茶封筒が握られている。
「……そうですか。開けてください」
澪はボールペンから視線を外し、感情を一切排した声で応じた。
佐久本は封を切ると、中から数枚のレポートを取り出した。
「君の指示通り、羽元もみじを尾行していた特命班が回収したタバコの吸い殻と、磯嶋のデスクに残されていたこのボールペンから採取したDNAを照合した。結果は……」
佐久本は重苦しい息を吐き出し、レポートを澪の前に差し出した。
「磯嶋成樹と羽元もみじ。この二人は、間違いなく実の姉弟だ」
「やはり……」
澪はレポートに記された複雑なDNAの波形データを無言で見つめた。
もみじの経歴や戸籍を徹底的に洗った際、成樹に繋がる公的な記録は一切存在しなかった。幼少期に両親の離別によって別々の家庭に養子に出され、本籍地も姓も全く異なっていたため、書類上では結びつく要素が複雑すぎて追えていなかったのだ。
「幼少期に引き離され、片方は恵まれた家庭で警察官に。もう片方は過酷な環境で裏社会の資金洗浄役に。……皮肉な運命ですね」
澪は淡々と事実を口にした。
「だが、なぜ磯嶋は自分の姉がエクリプス・シンジケートのマネーロンダラーであることを隠していた?まさか、姉を庇うために……」
佐久本の疑問に、澪は静かに首を横に振った。
「いいえ、管理官。成樹くんはそんな感傷で動く人間ではありません」
澪はキーボードを叩き、メインモニターにエクリプス・シンジケートの通信ログと、青海野県警からの情報漏洩ルートを重ね合わせた相関図を表示させた。
「特命班が傍受した組織の暗号通信の解析が、ようやく完了しました。四月……私が毒殺されかけたあの日、ターゲットである私の詳細なスケジュールと、バーでの接触タイミングを組織側に流した内通者の端末が特定できたんです」
モニターに映し出された赤いラインが、組織の窓口から、県警本部の一つの端末へと真っ直ぐに繋がった。
「その端末の識別番号は……」
澪は一瞬だけ目を伏せ、そして冷徹に事実を告げた。
「磯嶋成樹。私に殺害指示を出し、もみじに毒殺の手引きをしたのは、私のバディだった成樹くん自身です」
「なんだと……!」
常に沈着冷静な佐久本が、驚愕に目を見開いた。
「姉であるもみじを利用し、私を組織に売り渡したんです。彼が警察を辞めたのは、『相棒を守れなかった悔恨』などではありません」
澪の声は、氷のように冷たく澄み切っていた。
「私の命を手土産にして、組織の幹部ポストを手に入れるためだったんですよ」
(成樹くん。あなたは正義に絶望したんじゃない。ただの強欲な裏切り者だったのね)
地下のセーフハウスに、重苦しい沈黙が降りた。
かつて共に正義を語り合った相棒が、自分を死地へと追いやった真の黒幕であったという残酷な真実。デスクに残された手帳やボールペンが、今や途方もない欺瞞の象徴として澪の目に映っていた。
佐久本は銀縁メガネの奥の鋭い眼光を細め、澪の横顔をじっと見つめた。
彼自身も過去に、内部告発を試みた優秀な部下を組織の裏切りによって失った経験がある。身内の裏切りがいかに心を抉るか、痛いほど理解していた。
「湯我原くん……。過去のバディの裏切りを知り、心中察する」
佐久本は低く、しかし厳しい声で釘を刺した。
「だが、我々の任務は県警内部の腐敗分子と巨大組織を一網打尽にすることだ。決して、私情に流されるな。少しでも迷いが生じれば、君自身の命に関わるぞ」
佐久本の忠告を聞き、澪はゆっくりと振り返った。
その澄み切った瞳には、悲しみや絶望といった感情は微塵も存在しなかった。あるのは、すべてを焼き尽くすような冷徹な復讐の炎だけだ。
「私情など、最初からありませんよ、管理官」
澪は感情の読めない微笑みを浮かべた。
「私を殺そうとした実の兄。私に毒を盛った裏社会の姉。そして、私を売り飛ばしたかつての相棒。……誰一人として、逃がすつもりはありません。全員、私の前に両手を挙げて跪かせます」
澪はデスクの上のボールペンを手に取ると、証拠保管箱へと無造作に放り投げた。
カラリ、と冷たい音が響く。
「殉職した私と、警察を辞めたあなた。まだまだ因縁が続くようね。相棒」
澪の言葉は、これから始まる冷酷無比な執行劇の幕開けを、静かに、そして確実に告げていた。




