第37話 子守唄
雨の路地裏での再会から数日後。
青海野の裏路地にひっそりと佇む、薄暗い純喫茶。
色褪せたベルベットのソファー席で、磯嶋成樹と羽元もみじは向かい合って座っていた。客は他に誰もおらず、古いレコードのノイズ混じりのジャズだけが静かに流れている。
「呼び出して悪かったな、姉ちゃん。コーヒーでよかったか?」
成樹は煙草に火をつけながら、低い声で切り出した。
「ええ、構わないわ。それで……警察官のあなたが、資金洗浄の犯罪者である私に何の用かしら」
もみじは冷めたコーヒーカップの縁を指先でなぞりながら、探るような視線を向けた。
「単刀直入に言う。俺と組め」
成樹が煙を吐き出しながら告げると、もみじは小さく鼻で笑った。
「冗談でしょう?警察と裏社会の人間が手を組むなんて」
「冗談じゃねえ。俺はな、警察っていう組織の理不尽な縦社会や低待遇に、とうの昔に限界を感じてるんだよ」
成樹はギリッと奥歯を噛み締め、灰皿に煙草を押し付けた。
「いくら検挙率を上げても、上の連中に手柄を吸い取られるだけだ。正義感なんかじゃ飯は食えないし、上には行けない。俺は……もっと上の権力と金が欲しい。そのために、姉ちゃんの裏社会でのしぶとさや資金洗浄のスキルが必要なんだ」
成樹は身を乗り出し、野心にギラつく瞳でもみじを見据えた。
「姉ちゃんを警察のガサ入れから見逃してやる代わりに、俺を裏社会で引き上げるためのパートナーになってくれ」
その提案を聞き、もみじは表情を変えずに成樹を見つめ返した。
(警察の内部情報が手に入る上に、この弟を私の裏仕事の防波堤として利用できる。願ってもない話だわ)
もみじの心の中で、狡猾な計算が瞬時に弾き出された。
「……ふふ、いいわ。そういうことなら協力してあげる。血の繋がったたった一人の姉弟だもの、助け合うのは当然よね」
もみじは花が咲くような笑みを浮かべ、成樹に向かって手を差し出した。
「ああ。よろしく頼むぜ、姉ちゃん」
成樹もまた、人懐っこい笑顔を作ってその手を握り返した。
しかし、固く握り合った二人の内心は、どこまでも冷酷だった。
(使えるものは実の姉でも使ってやる。俺がのし上がるための「踏み台」になれ)
(可愛い弟。せいぜい私のために馬車馬のように働いて、警察の情報を横流ししなさい)
表向きは再会した姉弟の協力関係。だがその本心は、互いを己の欲望を満たす「搾取の対象」としか見ていない、あまりにも歪なパートナー契約だった。
+++
現在、十一月。
青海野の山間部に位置する、警察の極秘セーフハウス。
薄暗い地下室で、湯我原澪はコーヒーの入ったマグカップを片手に、壁一面に並んだモニターを無言で見つめていた。
偽装死を果たしてから半年以上が経過している。
澪の脳裏に、ふと過去の記憶が蘇った。あれはまだ、自分が成樹とバディを組んでいた頃のことだ。
――数年前の冬。
張り込み中の覆面パトカーの車内で、澪と成樹は並んで座っていた。
深夜の冷え込みが厳しく、成樹は缶コーヒーで手を温めながら、小さく息を吐いた。
『澪さん、俺さ……幼い頃に両親がいなくなって、姉ちゃんと離れ離れになったんだよね』
『そうだったの……。お姉さんとは、今も会えていないの?』
『ああ。でも時々、思い出すんだ。昔、姉ちゃんがよく歌ってくれた、マイナーな子守唄があってさ』
成樹は少し寂しそうに微笑み、どこか物悲しい、独特なメロディの子守唄を口ずさんだ。
『夢のなかだけ 手をつなごうね ♪ 泣くな ぼうやよ さぁ目を閉じて ♪』
『いい歌ね、成樹くん。いつか、お姉さんに会えるといいわね』
『はは、ありがとうございます。もし会えたら、澪さんにも紹介しますよ』
あの頃の成樹の笑顔に、嘘はなかったように見えた。澪にとって、彼は信頼できる最高のバディだったのだ。
(それなのに……あなたは警察を辞めてしまった。私の偽装死でそこまで追いつめて悪かったわ、成樹くん……)
澪は過去の温かい記憶を振り払うように、小さく首を横に振って視線をモニターに戻した。
+++
モニターの一つには、青海野新都心にあるオープンカフェのテラス席の映像が映し出されていた。
画面の中央には、羽元もみじが座っている。彼女は上品なコートを羽織り、テーブルに置いたノートパソコンのキーボードを軽快に叩いていた。
表向きはフリーランスの経営コンサルタントとしての仕事だが、実態は裏カジノの資金洗浄の帳簿改ざん作業だ。
もみじのすぐ後ろの席には、新聞を広げてコーヒーを飲んでいるスーツ姿の男が座っている。
彼は佐久本管理官が手配した特命チームの捜査員であり、新聞の隙間に仕込んだ小型カメラと高感度の指向性マイクで、もみじの行動をすべてセーフハウスへと送信していた。
「湯我原くん、状況はどうだ」
背後から歩み寄ってきた佐久本管理官が声をかける。
「現在、もみじはカフェで仕事中です。匠は『調査会社からの情報をもとに、黒幕を探しに行く』と言ってもみじを一人にし、現在別行動をとっています」
澪が淡々と報告すると、佐久本は重々しく頷いた。
「匠ともみじにより黒幕の所へ連れて行ってくれるまでもう少しというところだな」
「ええ。ただ、彼女の警戒心は異常なほど高い。ですが、必ずどこかで綻びが出るはずです」
澪がモニターを凝視している、その時だった。
カフェのテラス席でパソコンに向かっていたもみじが、ふとタイピングの手を止めた。
彼女は首の後ろに手を当てて軽く伸びをすると、息抜きのためか、小さな声で独り言のようにあるメロディを口ずさみ始めた。
『夢のなかだけ 手をつなごうね♪ 泣くな ぼうやよ さぁ目を閉じて♪』
指向性マイクが拾ったその微かな歌声が、セーフハウスのスピーカーからノイズ混じりに流れ出る。
そのメロディを聞いた瞬間、澪の全身を凄まじい衝撃が駆け抜けた。
「……!」
澪は弾かれたように身を乗り出し、スピーカーに耳を近づけた。
物悲しく、独特な節回しのマイナーな子守唄。
(間違いない……!これ、成樹くんが張り込みの時に歌っていた、あの『姉ちゃんの子守唄』と同じメロディだわ!)
モニターを凝視する双眸が、驚愕に限界まで見開かれた。
記憶の中の成樹の歌声と、今モニター越しに聞こえてくるもみじの歌声が、寸分の狂いもなく完全に一致したことにより、澪は脳内にある過去の情報領域へ、高速でアクセスを始めた。




