第36話 3年前の姉弟の再会
三年前。
青海野新都心の外れにある、雑居ビルの地下。
鉄扉の向こう側で違法に営業されていた会員制裏カジノに、警視庁の捜査員たちが雪崩れ込んだ。
「警察だ!全員動くな!」
怒号が飛び交い、ルーレットのテーブルがひっくり返される。カジノの客たちが悲鳴を上げて逃げ惑う中、当時巡査部長であった磯嶋成樹は、先陣を切って店内の奥へと踏み込んでいた。
成樹の鋭い視線が、混乱に乗じて裏口へと続く細い通路に消えようとする一つの影を捉えた。
上品な装いに身を包んだ女だ。事前の情報によれば、このカジノの資金洗浄を請け負っている重要なターゲットである。
「待て!」
成樹は同僚たちを置いて、単身で女の跡を追った。
非常階段を駆け上がり、ビルの裏手にある薄暗い路地裏へと飛び出す。冷たい雨が降りしきる中、ヒールの音を響かせて逃げる女の背中が街灯の光に浮かび上がった。
「止まれと言っているだろう!」
成樹は足の速さを活かし、一気に距離を詰める。路地裏の行き止まりに差し掛かったところで、女の腕を力任せに掴み、レンガの壁へと激しく押し付けた。
「きゃっ……!」
女が短い悲鳴を上げ、手から高級なハンドバッグが滑り落ちる。
「大人しくしろ。違法賭博の現行犯で逮捕だ!」
成樹は女を壁に押し付けたまま、手錠を取り出そうとした。
しかし、女は諦めなかった。ヒールで成樹のすねを蹴り上げ、腕を振り解こうと激しく抵抗する。
「離して……!」
その揉み合いの中で、女のコートの袖が大きく捲れ上がった。
街灯の頼りない光が、女の白い腕を照らし出す。
そこには、まるで獣に引き裂かれたような、「湾曲した三本線の古傷」がはっきりと刻み込まれていた。
それを見た瞬間、成樹の動きがピタリと止まった。
「……なっ」
手錠を握る成樹の手から、一気に力が抜けていく。
その傷跡には、見覚えがあった。
幼い頃、成樹を庇って、実の姉が負った深い傷。
成樹は信じられないものを見るように、息を呑んで女の顔を見つめた。
「まさか……もみじ姉ちゃん、なのか?」
絞り出すような成樹の声に、抵抗していた女――羽元もみじもまた、驚きに目を見張った。
「え……?」
もみじは壁に背を預けたまま、目の前に立つ若い警察官の顔をまじまじと見つめ返した。少し伸びた髪に、面影のある目元。
「成樹……?本当に、成樹なの?」
「ああ……そうだ。俺だ」
雨音だけが響く路地裏で、幼少期に引き離された実の姉弟は、互いの正体に気付き、追う者と追われる者という最悪の形で再会を果たした。
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「どうして……どうして姉ちゃんが、こんな裏社会の仕事なんてやってるんだよ」
成樹は手錠をポケットにしまい、混乱した頭を抱えるようにして問い詰めた。
(どうして、ですって?)
成樹の言葉を聞いた瞬間、もみじの脳裏に、封印していた過去の記憶がドス黒いヘドロのように溢れ出した。
幼少期に両親の離婚や死別により離れ離れになり、それぞれ全く別の家庭に養子に出されていた。成樹の養子先は経済的に恵まれており、不自由のない生活を送っていた。
しかし、もみじが引き取られた先は、過酷で貧しい家庭だった。ネグレクトや日常的な虐待を受け、地獄のような日々を過ごした。生きるためには、裏社会で泥水をすすって這い上がるしかなかったのだ。
(あんたは温かい家でぬくぬくと育って、正義の味方の警察官。私は裏社会の底辺で、汚れ仕事を請け負う犯罪者。……ふざけないで。なんであんただけが、そんな綺麗な世界で生きていられるのよ!)
もみじの胸の奥で、恵まれた環境へ行った弟への根深い嫉妬と強烈な恨みがドロドロと渦巻いた。
しかし、もみじは本質的に狡猾で計算高いリアリストである。窮地に陥った際の立ち回りと演技力において、彼女の右に出る者はいない。
(ここで捕まるわけにはいかない。この弟を利用するのよ)
もみじは込み上げる憎悪を完璧に隠し込み、大粒の涙をポロポロとこぼし始めた。
「成樹……立派になったのね。警察官として頑張っているなんて、お姉ちゃん、本当に嬉しいわ」
もみじは震える手で成樹の頬に触れ、悲劇の姉を完璧に演じ切った。
「私がこんなことをしているのは……引き取られた先で酷い目に遭って、生きていくためにはこうするしかなかったの。許して……私が悪かったわ。さあ、私に手錠をかけて」
もみじが両手を差し出すと、成樹はギリッと奥歯を噛み締めた。
「……くそっ」
成樹は差し出された姉の手を振り払い、レンガの壁を強く殴りつけた。
「なんで俺が、たった一人の身内を逮捕しなきゃならねえんだよ」
成樹の胸中にもまた、複雑な感情が渦巻いていた。
彼は若手ホープとして検挙率トップクラスを誇っていたが、内心では警察組織の理不尽な縦社会や低待遇に深く絶望していた。「正義では飯は食えない」という冷めた感情が、彼の心を少しずつ闇へと引きずり込んでいたのだ。
ここで実の姉を逮捕したところで、自分の評価が少し上がるだけ。相変わらず安い給料で、命を削りながら上層部の顔色を窺う日々に変わりはない。
ならば、裏社会でしぶとく生き抜いてきたこの姉の繋がりは、いつか自分がのし上がるための「強力な足がかり」になるのではないか。
成樹の瞳に、野心と打算の光が宿った。
「姉ちゃん……今日は、誰も裏口から逃げなかった。俺は何も見ていない」
成樹の言葉に、もみじはハッとして顔を上げた。
「成樹、いいの……?」
「その代わり、連絡先を教えろ。後で俺から連絡する」
成樹は自身のスマートフォンを取り出し、画面をもみじに向けた。
もみじは涙を拭うふりをしながら、自身の連絡先を打ち込んだ。
(チョロいものね。警察官の弟が、私の「都合のいい盾」になったわ)
「ありがとう、成樹。ごめんなさいね……」
「早く行け。他の奴らが来る前に」
成樹が路地の出口を顎でしゃくると、もみじは足早に暗闇の中へと消えていった。
雨に濡れた路地裏に一人残された成樹は、スマートフォンに登録された「羽元もみじ」という名前をじっと見つめた。
(使えるものは、実の姉でも使ってやる。俺は絶対に、成り上がってやるんだ)
互いを血の繋がった家族と認識しながらも、本心では「自分のための手駒」としか見ていない。
嘘と欲望にまみれた歪な姉弟の結びつきは、この冷たい雨の夜に、誰にも知られることなくひっそりと結ばれたのであった。




