第35話 私刑の決意
九月中旬。
湯我原匠は、ゆがわら開発株式会社の社長室で、手元のスマートフォンを強く握りしめていた。
画面には、裏社会の調査を専門とする探偵事務所の連絡先が表示されている。匠は周囲に誰もいないことを確認すると、通話ボタンを押した。
「……僕だ。至急、探し出してほしい人間がいる」
匠の冷徹な声が、防音性の高い社長室に響く。
「名前は磯嶋成樹。羽元もみじの実の弟だ。以前は警察官だったようだが、今は青海野の裏社会に潜っているはずだ」
電話の向こうで、探偵が依頼を承諾する声が聞こえる。
「金に糸目はつけない。どんな手段を使っても構わないから、奴の現在の潜伏先と行動パターンを徹底的に洗い出せ」
匠は電話を切り、革張りの社長椅子に深く背中を預けた。
(あの男が澪を殺し、親父の遺産二十億円の鍵であるペンダントを奪い去った可能性がある。相続税のタイムリミットまで、もう半年を切っている。一刻も早く成樹を見つけ出し、あのペンダントを奪い返さなければ、僕も会社も完全に破滅する)
匠の額には嫌な汗が滲んでいたが、その瞳には強欲さと復讐心がギラギラと燃え盛っていた。
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季節は進み、十月。
青海野の街にも冷たい秋風が吹き始める頃、匠が依頼していた調査会社から一通の分厚い封筒が届いた。
リビングのダイニングテーブルにその封筒を置き、匠はもみじと共に中身を取り出した。そこには、数枚の写真と詳細な素行調査報告書が同封されていた。
「これは……」
写真を見た瞬間、もみじが口元を両手で覆い、小さく息を呑んだ。
写真に写っていたのは、無精髭を生やし、退廃的な雰囲気を纏った若い男だった。青海野グランドカジノリゾート特区へ続く埋立地の裏路地や、歓楽街のネオンの下で、柄の悪い男たちを従えて歩く姿が鮮明に捉えられている。
「彼が、君の弟の磯嶋成樹だな」
「ええ……間違いないわ」
もみじは震える手で写真を一枚手に取り、その場にへたり込むようにして椅子に座った。
「調査結果によれば、彼は現在も青海野県の裏社会にどっぷりと浸かっているようだ。特に、地下で営業している非合法な裏カジノの周辺で頻繁に目撃されているらしい」
匠が報告書を読み上げると、もみじの目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「そんな……あの子、何も変わっていなかったのね……」
もみじは写真を強く握りしめ、嗚咽を漏らした。
「私が罪をかぶってまで守ろうとしたのに……いつか更生して、まともな道を歩んでくれると信じていたのに……全部、無駄だったのね……!」
絶望に打ちひしがれる悲劇の姉を完璧に演じながら、もみじの内心は全く別の感情に支配されていた。
(ご希望の通り、匠をそっちへ向かわすわよ成樹。せっかくの資産家を処分するのはおしいけど、澪殺害の件をこれ以上探られたら困るから観念しなさい、匠)
もみじは心の中で、成樹が匠を処分する展開を心待ちにしていた。
一方、匠はもみじの肩を無言で抱き寄せながら、テーブルに置かれた成樹の写真を憎悪に満ちた目で見下ろしていた。
(この裏社会のクズめ……。もみじが罪をかぶって守ったはずなのに、のうのうと更生せずに裏社会でのさばり、僕のペンダントを奪いやがって許さない。絶対に許さないぞ)
もみじが罪をかぶって守ったはずの成樹は更生しておらず、今も裏社会でのさばっていたことを知った匠の胸には、激しい怒りが渦巻いていた。
「もう泣かなくていい、もみじ。君は十分に苦しんだ」
匠はもみじを慰めるように優しく声をかけながら、静かに立ち上がった。
そして、ワインセラーから青海野黒紫葡萄の赤ワインを取り出し、グラスに注ぐ。深い赤黒い液体が、照明を反射して血のように妖しく光る。
「成樹は、警察に突き出しても真実を語るとは思えない。法律で裁くには、彼は裏社会の闇に深入りしすぎている」
匠はグラスを傾けながら、低く、確かな殺意を込めて告げた。
「僕の手で終わらせる」
「……匠さん?」
「澪の無念を晴らし、君を縛り付ける鎖を断ち切るためだ。成樹は、僕がこの手で裁く」
私刑の宣言に、もみじは顔を青ざめさせて立ち上がった。
「駄目よ!そんなことをしたら、匠さんが犯罪者になってしまう!私のために、あなたが手を汚す必要なんてないわ!」
「君のためだけじゃない。これは、兄としての僕の義務だ」
匠はもみじの制止を遮り、グラスのワインをゆっくりと飲み干した。
(すべてを奪い返す。二十億円のペンダントも、僕の未来も)
空になったグラスをテーブルに置き、匠は成樹の写真を静かに伏せた。
互いを騙し、利用し合う二人の狂気は、成樹という新たな標的へ向けて、静かに、そして確実に動き始めていた。




