第34話 日記のあぶり出し
リビングに響くのは、もみじの悲痛な嗚咽だけだった。
しかし、湯我原匠の目は、手の中にある黒い革張りの日記帳に釘付けになっていた。
『私は騙された。人命を奪うという取り返しがつかないことを、やってしまった』
この震えた筆跡で書かれた二行。澪が命を奪われた四ヶ月前のページだ。間違いなくもみじの字であり、彼女自身も自分がやったと泣き崩れている。
だが、匠の冷徹な直感が警鐘を鳴らした。
(……おかしい。何かが引っ掛かる)
強欲で嘘つきな本性を持ち、決して他者を信用しない匠は、物事を額面通りに受け取ることを極端に嫌う。匠はソファーでうずくまるもみじから視線を外し、日記のページを数日前へとパラパラと遡った。
すると、澪が亡くなった前日の日付に、『明日の夜から北海道(遠方)旅行』という予定が書かれているのに目が留まった。さらにカバーの裏側から、新千歳空港行きの航空券の半券を見つけ出す。
(澪が殺された時刻、この女は青海野にいなかった……?物理的に毒を盛ることは不可能だ)
匠はさらにページを捲り、太いマジックで真っ黒に塗りつぶされた不自然なページを発見した。ローテーブルに散乱した荷物から鉛筆を拾い上げ、次の白紙のページを芯を寝かせて慎重にこする。
前のページの強い筆圧によってできた凹凸が、黒鉛によって文字として浮かび上がってきた。
『これ以上、Nの暴走は止められない』
『血の繋がったたった一人の家族だから、私が全部かぶるしかない』
解読した文字を読んだ瞬間、匠の口角が歪な弧を描いた。
(やはりこの女は愚かだ。下らない偽装工作で僕の目を誤魔化せるはずがない。僕の卓越した観察眼で、隠された真実を暴き出してやったぞ)
自らの優秀さと洞察力に酔いしれるような、強烈な優越感が匠の胸を満たしていく。他人が用意した言葉は信じないが、「自らの推理でたどり着いた物証」だからこそ、匠はそれを一切疑わずに完全な真実だと思い込んだのだ。
「この航空券の半券はなんだ。君は北海道にいたはずだ。物理的に澪に毒を盛ることは不可能だ」
匠が冷たく言い放つと、もみじの肩がビクッと大きく跳ねた。
「……違うわ!私が、私がやったのよ……!」
「嘘をつくな!ならどうしてこんなアリバイがあるんだ!そして、この『N』とは誰だ!君は誰を庇っている!」
匠はあぶり出された文字が書かれたページと航空券を、もみじの目の前に突きつけた。
もみじは弾かれたように顔を上げ、限界まで見開かれた瞳を絶望の色に染めていった。
「やめて……それ以上は言わないで……!」
「君が庇っている人間が、澪を殺したんだな?答えろ、もみじ!」
匠の容赦ない怒号がリビングに響き渡る。
もみじは力なく首を振り、糸が切れたようにソファーへ崩れ落ちた。その目から、大粒の涙がとめどなく溢れ出す。
「……そうよ。澪さんを殺したのは、私じゃない。……私の、実の弟なの」
「弟……」
「名前は、成樹……磯嶋成樹。私にとっては、たった一人の血の繋がった家族なのよ」
もみじは涙で顔を濡らしながら、悲痛な声で語り始めた。
「ある日、裏社会と関わりのある成樹が澪さんの指輪を持ってきたの。いつかこんな日が来ると思っていた。だから、あの子を警察に捕まらせないために、私が罪をかぶろうとしたの……!この指輪も私が隠したわ!」
弟の罪を隠蔽し、自らが生涯殺人犯として罪を背負うつもりでいたという、悲劇の姉の痛切な嘘の告白。
しかし、ソファーに顔を伏せて声を上げて泣きじゃくるもみじは、乱れた髪の隙間から、冷徹な視線で匠の顔色を伺っていた。
(完璧ね。見事に思い通りに食いついたわ、匠さん。あなたが最初から私の弟を疑っていたら、私は『自分を守るための嘘だ』と弾かれていたはず)
もしもみじがストレートに「弟がやった」と告発しても、人間不信の匠は絶対に信じなかっただろう。だからこそ、もみじはあえて「自分が犯人だ」と一度自白したのだ。
匠自身に矛盾を発見させ、「匠自身の推理で真実にたどり着いた」と錯覚させることで、成樹への悪意を完全に向けさせる高度な誘導だった。
(これであなたの憎しみの矛先は、完全に成樹へと向いた。せいぜい、私の可愛い弟と潰し合って頂戴)
もみじの心の中には、弟すらも自分の身を守るための手駒として利用する、狡猾なリアリストの嘲笑が渦巻いていた。
「人の命を奪った人間に、庇う価値などない!」
匠は冷たい視線で、泣き崩れるもみじを見下ろしていた。
匠の中で、探すべき相手が完全に変わった。澪の命を奪い、あの二十億円のパスワードが刻まれたペンダントを奪い去った真犯人は、彼女の弟である磯嶋成樹という男だ。
(待っていろ、磯嶋成樹。必ず僕の手で追い詰め、すべてを奪い返してやる)
窓の外では、青海野の夜景が何事もなかったかのように輝き続けている。
完全に誘導された匠の殺意と、悲劇の姉を演じ切るもみじの嘘の真実。
二人の騙し合いは、ここに最も歪な結実を迎えていた。




