第33話 自白の演技
九月。青海野の街を包む空気が少しずつ冷気を帯び始めた頃、二人の歪んだ同棲生活は、あらかじめ仕組まれた破局の時を迎えようとしていた。
「帰ってきたら、前に二人で買った青海野黒紫葡萄の特醸ワインを開けましょう。それまでお預けよ」
「わかった。最高のおつまみを用意して待っているよ」
玄関先で交わされた、恋人同士の甘く名残惜しい別れ。
二泊三日の地方出張へと向かう羽元もみじがドアの向こうへ消え、電子錠が施錠された瞬間、湯我原匠の顔から甘い微笑みが完全に消え失せた。
(嘘ばかりだ。お前は僕の目を盗んで一体どこで何をしている?今日こそ、お前のメッキを剥がしてやる)
匠はすぐさまゴム手袋をはめ、冷徹な追跡者の顔となって、もみじの私物の捜索を開始した。
一方、マンションを出てハイヤーに乗り込んだもみじもまた、後部座席で冷ややかな笑みを浮かべていた。
(さあ、匠さん。私がクローゼットの奥に隠した、あの厳重な結び目のボックスを開けなさい。あなたがどうしても見つけたい『答え』が、そこで待っているわ)
もみじの予測通り、匠は執念深い捜索の末に、レザー製収納ボックスの底から一つのアンティーク調の木箱を発見した。
その中に入っていたのは、青海野特有の遊色効果を持つオパールの指輪。内側に『MIO』と刻まれた、四ヶ月前に殺害された妹・澪の愛用品だった。
(見つけたぞ、もみじ。やはりお前が、妹を殺したんだな……!)
指輪を握りしめる匠の胸に、かつてないほどの激しい怒りと憎悪が燃え上がっていた。
自分が仕掛けた罠の通りに相手が動いているとも知らずに、匠は「もみじを完全に追い詰めた」と狂喜と確信に満ちていた。
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二日後。
「ただいま、匠さん。出張中、ずっと楽しみにしていたの」
帰宅したもみじは、少し疲れたような、それでも恋人に会えた喜びを隠しきれない完璧な笑顔を作ってリビングへと入った。
「おかえり、もみじ。用意するよ」
匠はキッチンへ向かい、クリスタルガラスのワイングラスを二つローテーブルに並べた。しかし、約束していたはずのワインボトルはない。
もみじが不思議そうに首を傾げたその時、匠はポケットからあの『オパールの指輪』を取り出し、二つのグラスの間にコトリと音を立てて置いた。
(……来たわね。予定通り食いついた)
もみじは内心で快哉を叫びながらも、瞬時に「絶望に突き落とされた女」へと表情を切り替えた。
スッと血の気を引かせ、唇を微かに震わせ、大きく見開かれた瞳で指輪と匠の顔を交互に彷徨わせる。
「……匠さん、これは?」
上擦った声を絞り出すもみじに対し、匠は冷酷な視線を突き刺した。
「僕は、湯我原匠。青海野で不動産開発の会社を経営している若手実業家。ここまでは君も知っている通りだ。だが……僕には、四ヶ月前に亡くなった妹がいた。名前は、澪という」
その名前を聞いた瞬間、もみじは肩をビクッと大きく跳ねさせた。
「どうして君の荷物の奥底に、殺されたはずの澪の指輪があったんだ?もみじ、君が澪を殺したのか!?」
匠の怒声がリビングに響き渡る。
「それは……何かの間違いよ!私、そんなもの知らないわ!」
もみじは必死に首を振り、怯えるように身を縮めた。
(もっと怒りなさい、匠さん。あなたが怒れば怒るほど、真実を掴んだ時の怒りの矛先シフトがコントロールしやすくなるのだから)
もみじは両手で顔を覆い、指の隙間から大粒の涙をポロポロと零れ落とし始めた。完璧な演技の涙だ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!私が……私が殺してしまったの……!」
もみじはソファーに崩れ落ちるようにして泣き崩れた。
「私がコンサルタントとして関わっていた企業の不正取引を嗅ぎつけられてしまって……上層部から脅されたのよ。渡された薬は少し体調を壊す程度のもので、死ぬとは思わなかったの……!」
震える声で紡がれる、身勝手な言い訳と涙の自供。
もみじは顔を伏せながら、冷徹な思考を巡らせていた。
(私は上層部に脅されて罪を犯してしまった、弱い女。このシナリオ通りなら、あなたは私を憎みながらも、哀れに思わずにはいられないはず。そして、私が『真犯人』ではないことへの布石は十分に打てた)
しかし、泣き崩れるもみじを見下ろす匠の内心もまた、冷酷な計算で満ちていた。
(よくそんなふざけた言い訳ができるな。だが、お前がどれだけ涙を流そうが、僕には通用しない。お前が妹を殺した実行犯であることは間違いないんだ。この女の嘘と悪意を、残らず暴き出してやる。ペンダントのありかを吐かせるために)
互いに自分のシナリオ通りに進んでいると確信し、相手を「手のひらの上で踊っている哀れな存在」だと嘲笑う。誰もが誰かを騙している、歪な心理戦が繰り広げられていた。
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「よくそんな言い訳ができるな!澪はお前が盛った薬で死んだんだぞ!」
激昂した匠は、スマートフォンを取り出し、冷酷な声で言い放った。
「なら、その苦しみを警察で洗いざらい吐き出せばいい。今すぐお前を警察に突き出してやる」
「待って!お願い、それだけは……!」
すがるように手を伸ばすもみじを冷たく振り払い、匠はギリッと奥歯を噛み締めた。
「警察を呼ぶ前に、一つだけ教えてもらおう。妹のペンダントはどうした!せめてそれだけでも返してくれ!」
その言葉を聞いた瞬間、もみじの涙に濡れた瞳の奥に、わずかな違和感が走った。
(ペンダント……?指輪の他に、そんなものがあったの?そうだ!あの時、あの女の首から引きちぎろうとしたけど無理で諦めたんだったわ)
「ペンダント……?そんなものは知らないわ!」
もみじは奪っていなかったため、強く否定した。
「嘘をつくな!澪の指輪を隠し持っていたお前が、知らないはずがないだろう!」
匠の怒号には、妹を殺された怒りというよりも、何か別の『焦燥感』が混じっているように聞こえた。
匠は血走った目をリビングに走らせ、もみじが出張から持ち帰ったばかりの大きめのハンドバッグに狙いを定めた。
「そこにあるカバンの中身を改めさせてもらうぞ」
「え……?やめて!」
もみじがカバンにしがみつこうとするより早く、匠は容赦なく彼女の細い腕を掴み、力任せにカバンを引き奪った。
「ああっ!」
バランスを崩してもみじがソファに倒れ込む。匠はカバンの口を大きく開き、中身をローテーブルの上に乱暴にひっくり返した。
化粧ポーチ、財布、筆記用具が音を立てて散らばる。匠は狂ったようにそれらを掻き分け、金属の輝きを探した。
「ペンダントはどこだ!どこに隠した!」
目をひん剥き、呼吸を荒くして中身をあさる匠の異様な姿に、もみじは微かな恐怖と、それ以上の深い疑念を抱いた。
(おかしいわ。なぜこの男は、妹の復讐と言いながら、犯人である私の自供よりも、たかがアクセサリー一つにそこまで血眼になるの?……まるで、それがないと自分の身が危うくなるかのように)
もみじの冷徹な観察眼が、匠の復讐心の裏に隠された『強欲さ』の尻尾をわずかに捉えかけていた。
だが、匠の異常なまでの捜索は、やがて別のものに行き当たった。
散乱した荷物の中から、一冊の黒いノートが姿を現したのだ。
それは、もみじが匠の目を引くために意図的にカバンの内ポケットに仕込んでおいた、プライベートな『嘘の自白日記』だった。
匠の動きがピタリと止まり、無言でそれを手に取った。
「返して……」
もみじは震える手を伸ばし、懇願するような声を上げた。日記を奪われた焦りと絶望を完璧に演じきる。
(さあ、次のフェーズよ。その日記を読んで、私が『誰かの罪』を被っていることに気づきなさい。そして、あなたの憎しみの矛先を、私の弟へ向けるのよ)
匠はもみじの伸ばした手を冷たい視線で制し、日記のページをパラパラと捲り始めた。
そして、澪が殺された四月のページに記された、震える筆跡の告白に目を落とす。
『私は騙された。人命を奪うという取り返しがつかないことを、やってしまった』
泣き崩れるもみじの嗚咽だけが響く部屋で、二人の仕掛けた罠が複雑に絡み合い、後戻りのできない深みへと彼らを引き摺り込んでいった。




