第32話 矛先の変更
青海野グランドカジノリゾート特区の地下深く。
紫煙と欲望が渦巻く非合法な裏カジノの、さらに奥に位置するVIP専用ルーム。
羽元もみじが重厚な扉を開けると、そこには高級なスーツをだらしなく着崩し、退廃的な色気を漂わせる実の弟、磯嶋成樹が葉巻を燻らせていた。
「珍しいな、姉貴から俺を呼び出すなんて」
警察を辞め、念願だった巨大犯罪組織『エクリプス・シンジケート』の幹部ポストを手に入れた成樹は、もはや一介のチンピラや不満を抱えた汚職警官ではなく、裏社会を牛耳る冷酷な権力者の顔になっていた。
「緊急事態よ、成樹。私に同棲を持ちかけてきた湯我原匠という男……あいつ、私たちが四月に殺した澪の実の兄だったわ」
もみじが緊迫した声で告げると、成樹は葉巻を灰皿にゆっくりと押し付け、面白そうに口角を吊り上げた。
「へえ……。あの生真面目な澪の兄貴が、復讐のために姉貴に近づいてきたってわけか。傑作だな。あいつの兄貴なら、さぞかし執念深いんだろうぜ」
「笑い事じゃないわ!あいつ、絶対に私が妹を殺した証拠を探し出そうとしている。下手に動けば、私たち二人とも破滅よ。どうにかして奴の目を逸らさないと」
焦りを見せるもみじに対し、成樹はテーブルの上のグラスに注がれた琥珀色の酒を煽り、冷酷な光を瞳に宿した。
「まぁ落ち着けよ。その湯我原匠とやらは、俺が処分する」
「処分するって……殺す気?」
「ああ。俺の出世の邪魔になる目障りな奴は消す。それがこの世界のルールだろ?」
成樹は野心に満ちた目をギラつかせ、冷ややかに言い放った。警察組織の理不尽さに絶望し、自らの幹部ポストのために相棒すら平気で裏切って売った男にとって、匠の存在など新たな踏み台に過ぎない。
「だが、俺が直接手を下すには、あいつの警戒を完全に俺に向けさせる必要がある。姉貴、あいつの憎しみが俺に向くように、うまく誘導してくれないか」
「誘導……どうやって?」
「姉貴の得意な『悲劇のヒロイン』を演じるんだよ」
成樹の悪魔のような提案に、もみじは小さく息を呑んだ。
「……やってみるわ」
互いを血の繋がった家族でありながら、都合のいい「共犯者」としか見ていない姉弟は、冷徹な視線を交わし、不気味な笑みを浮かべた。
+++
数日後。もみじの自宅マンション。
匠との同棲に向けた荷造りの最中、もみじは一人、静かに罠を張り巡らせていた。
(あいつは必ず、私が留守の間に荷物を漁って証拠を探し出そうとする。ならば、あいつが『見つけたくてたまらないもの』を用意してあげるわ)
もみじは、仕事用の鞄からプライベートな黒い革張りの日記帳を取り出した。
そして、四月のある日のページを開き、利き手とは逆の手で、ひどく怯えて震えたような筆跡を意図的に作り出し、二行だけ書き殴った。
『私は騙された。人命を奪うという取り返しがつかないことを、やってしまった』
次に、数日前のページに『北海道(遠方)旅行』の予定を書き込み、日記のカバーの裏側に、わざとらしく新千歳空港行きの航空券の半券をダミーとして挟み込んだ。
(これでよし。私が一度犯人だと自供した後、あいつはこのアリバイと、黒く塗りつぶした『N(成樹)を庇う記述』を見つけて、私が犯人じゃないと勝手に気づく)
巧妙に計算されたダミーの証拠。だが、これだけでは匠は完全に納得しない。決定的な「物証」が必要だ。
もみじは、クローゼットの奥から小さなアンティーク調の木箱を取り出した。
蓋を開けると、黒いベルベットのクッションの中央に、青海野オパールが埋め込まれた繊細な指輪が鎮座している。
あの日、澪の指から力ずくで奪い取ったものだ。
(本当は裏ルートで高値で売るつもりだったけれど、警察の動きが活発で売りそびれていたのよね。まさか、こんな形で役に立つなんて)
もみじは、七色に妖しく光る指輪を冷ややかな目で見つめ、再び蓋を閉じた。
そして、大きめのレザー製収納ボックスの底にその木箱を隠すようにセットすると、ファスナーの引手を複雑に交差させ、他人が開けたかどうかが一目でわかるような細密な結び目を施した。
(この結び目を見れば、疑い深く計算高いあいつは『この中に絶対何か隠している』と確信する。そして、私がいない隙に必ずこれを開けるわ)
すべては、匠の復讐心を成樹へと誘導するための、壮大で狡猾な罠だった。
(私のことを愛している振りをしながら、私の粗探しをするのがあなたの目的なら……せいぜい、私の仕掛けたシナリオ通りに踊ってもらうわよ、匠さん)
もみじは、積み上げられた段ボール箱に囲まれた部屋の中央で、妖艶で残酷な笑みを浮かべた。
誰もが誰かを騙し、利用し合う。嘘と欲望で塗り固められた同棲生活という名の戦場へ、もみじは完璧な準備を整えて足を踏み入れようとしていた。




