第31話 同棲提案
八月下旬の週末。
青海野マリーナのウッドデッキ。
波の音が寄せては返す夜の海辺で、羽元もみじは、湯我原匠から熱を帯びた眼差しを向けられていた。
「出会ってから、まだ一か月しか経っていません。ですが、あなたと過ごす時間が重なるたびに、私は単なる偶然や運命以上の特別な結びつきを感じずにはいられないんです」
匠の言葉は、まるで映画のワンシーンのように完璧で、甘い響きを持っていた。
(この男……完全に私に惚れ込んでいるわね。湯我原財閥の御曹司が、私のような偶然出会った女にすっかり骨抜きにされている。安易な特別ね)
もみじは内心で冷笑しながらも、表向きは驚いたように瞳をわずかに見開き、純粋な喜びを表現した。
「君のふとした仕草や言葉の端々から伝わる聡明さ、そして誰よりも温かいその内面に、私はすっかり心を奪われてしまいました。これからの未来を、君と共に歩んでいきたい。誰よりも近くで、君のために尽くしたいんだ」
匠は、もみじの華奢な手を両手で優しく包み込み、完璧な紳士の微笑みを浮かべて告げた。
「僕と同棲しましょう」
突然の提案に、もみじは息を呑んで立ち尽くす演技をした。驚きのあまり言葉を失ったように見せかける。
「もみじ、君との将来を真剣に考えているんだ」
匠は呼び方を自然に変え、さらに言葉を重ねた。
「いずれは、僕の仕事も手伝ってほしいと思っている。不動産開発の仕事は多岐にわたるから、君のような聡明なコンサルタントの意見が常にそばにあると心強い」
「それに、君も仕事柄、飛行機での移動が多いだろう?僕も都心のセキュリティが万全なマンションの方が、何かと都合がいいんだ。今の屋敷は広すぎるし、街の中心部からはどうしても少し不便だからね。利便性の高い部屋を借りて、一緒に暮らそう」
(都心のセキュリティ万全な高級マンション……。それに、彼の会社にまで私を引き入れようとしている。彼の持つ表の資金力と不動産を、マネーロンダリングの隠れ蓑として完全に手に入れる願ってもない好機だわ)
莫大な資産を相続するこの男を、意のままに操るための完璧な足場。
もみじの胸の奥で、ドス黒い欲望が大きく膨れ上がった。
見つめ合う数秒の沈黙の後、もみじの瞳にじんわりと温かな光が灯り、それがうっすらとした涙の膜に変わった。
「匠さん……」
震える声で名前を呼び、もみじは花が咲くようにふわりと微笑んだ。
「こんなに嬉しいことはありません。……私でよければ、よろしくお願いします」
「ありがとう、もみじ」
匠は深く頷き、彼女の手を優しく握り返した。
青海野の海風が吹き抜ける中、もみじは匠の胸に顔を埋めながら、誰にも見えない角度で狡猾な笑みを浮かべていた。互いに相手を「手駒」としか見ていない歪んだ関係が、同棲という形でさらに深く結びつこうとしていた。
+++
それから数日後。
もみじは、新都心にあるカフェの個室で、裏社会の部下から一枚の茶封筒を受け取っていた。
「羽元先生。ご指示いただいていた、湯我原匠の身辺調査の追加報告です」
「ご苦労様。それで、何か新しい情報は出たの?」
もみじはエスプレッソのカップをテーブルに置き、優雅な所作で封筒を開いた。
「会社の財務状況は表向きはクリーンですが、少し裏の金が混ざっている形跡があります。そして、本命の実家の資産状況ですが……湯我原家には、匠の他に血の繋がった家族がもう一人いたことがわかりました」
「もう一人?」
もみじは書類に目を落とし、眉をひそめた。前回の調査では父親が亡くなったことしか報告されていなかったはずだ。
「はい。匠には、妹がいました。名前は、澪」
その名前を聞いた瞬間、もみじの心臓がドクンと大きく跳ねた。
「……みお?湯我原、澪……?」
「ええ。警視庁のキャリア警察官だったそうですが、今年の四月に重篤な感染症で急死しています。父親の京次郎の葬儀の際、すでに亡くなっていた妹との合同葬儀が行われたとのことで、情報が埋もれていました」
もみじの顔から、スッと血の気が引いた。
(警察官の、湯我原澪……四月に死亡……。嘘でしょう?)
視界が急に暗く歪むような感覚に襲われる。
自分が四月にバーで即効性の毒を盛り、息の根を止めたあの女警察官。あの時のターゲットの名前が、まさに「湯我原澪」だった。
そして、その澪が、今自分が手駒にしようとしている匠の『実の妹』だというのだ。
「……今日はもういいわ。下がってちょうだい」
「は、はい。失礼いたします」
部下が部屋を出ていくと、もみじは震える手で口元を覆い、荒い呼吸を繰り返した。
(ただの偶然なわけがないわ……!あのファーストクラスでの出会いは、決して偶然じゃなかったんだ)
もみじの脳内で、これまでの匠の言動がフラッシュバックする。
あの完璧な紳士の振る舞いも、自分に向けられた甘い言葉も、都心のマンションでの同棲提案も、すべては妹を殺した自分への『復讐』のために仕組まれた罠だったのだ。
(彼は最初から、私が妹の死に関わっていると疑って近づいてきた。私を完全に油断させて、懐に潜り込むために……)
背筋に冷たい汗が伝う。相手は、青海野の裏社会の人間とも繋がりを持つ資産家の男だ。自分一人の力で逃げ切れる相手ではない。
しかし、冷静なリアリストであるもみじは、すぐに思考を切り替えた。
(待って。もし彼が私が犯人だと確信しているなら、なぜすぐ警察に突き出さないの?なぜ、私に危害を加えようとしないの?)
もみじはテーブルの上の調査報告書を睨みつけた。
(……証拠だわ。彼は、私が澪を殺したという決定的な証拠を持っていない。だから、私と同棲して、私生活を監視し、私が持っている証拠を探し出そうとしているのね)
自分と妹を結び付ける何か。それを見つけ出そうとしているのだ。
もみじはギリッと奥歯を噛み締めた。
(私を罠にはめたつもりでしょうけれど、そうは問屋が卸さないわよ)
もみじは、スマートフォンの連絡先を開いた。
頼れるのは、警察を裏切って闇の組織の幹部ポストを手に入れ、さらなる権力を求めて歪んだ野心に燃え上がっている実の弟、磯嶋成樹しかいない。
(成樹の指示で動いて殺した相手の兄が、私に復讐しようとしている。このまま大人しくやられるわけにはいかないわ。私だって、簡単には潰されない)
もみじは冷徹な眼差しで画面を見つめ、弟への通信ボタンを押した。
復讐の罠に気づいた女の、決死の反撃が始まろうとしていた。




