第30話 利用し合う男女
七月の下旬。
青海野新都心の夜景を一望できる、外資系高級ホテルのメインダイニング。
窓際の特等席で、湯我原匠と羽元もみじは、デート中のレストランで和やかに会話を進めていた。
「素晴らしい夜景ですね。こんな素敵な場所に誘っていただけるなんて、光栄です」
もみじは、グラスに注がれたシャンパンを軽く揺らしながら、花が咲くような上品な微笑みを浮かべた。
「君の美しさに比べれば、この夜景も霞んでしまいますよ。喜んでいただけて何よりです」
匠は甘く魅惑的な笑みを崩さず、静かにグラスを合わせた。
「こちらのワイン、とても芳醇な香りがしますね」
「お目が高い。これは青海野黒紫葡萄を使った特醸ワインです。温暖な傾斜地で栽培された高級葡萄を使っており、私の父の代から懇意にしているワイナリーのものでしてね。青海野の自治体が特別に醸造しているもので、市場にはなかなか出回らない代物なんですよ」
「まあ、そんな貴重なものを。お父様からのご縁ですか。やはり、代々続く資産家の方はスケールが違いますね」
「父は青海野の政財界に顔が利く男でしたからね。最近亡くなりましたが、私がその遺志と資産を引き継ぎ、青海野のさらなる発展に尽力するつもりです。ゆがわら開発も、そのための重要な足がかりの一つです」
匠があえて自身の資産状況をほのめかすと、もみじは小さく息を呑み、感嘆の声を上げた。
「ご実家の大きな資産と、匠さんご自身の確かな手腕。それが合わされば、青海野のウォーターフロントはさらに素晴らしい街になるでしょうね」
もみじは、目を輝かせて匠を称賛した。コンサルタントとしての知識を総動員し、彼のプライドを的確に刺激する。
「素晴らしいですね。大きな責任を背負いながらも、前を向いて歩まれる匠さんを、私は心から尊敬します」
「ありがとう。だが、時にはその重圧に押し潰されそうになることもある。見栄えの良い仕事の裏には、常に孤独な決断がつきまとうものです」
「孤独な決断……。経営トップにしか分からない苦悩ですね。私でよければ、いつでもお話を聞きますよ。少しでも匠さんの心が軽くなるのなら」
もみじが優しく微笑みかけると、匠は嬉しそうに目を細めた。
(調査報告通り、この男は青海野でも有数の資産家、湯我原財閥の息子だわ)
もみじは裏カジノの資金洗浄役を担っているため、常に「表の綺麗な大金」や「マネーロンダリングの隠れ蓑」を求めていた。ただの若手社長ではなく、実家の莫大な資産を相続する立場にある匠は、彼女にとって喉から手が出るほど欲しい獲物だった。
(将来的な遺産や実家の資産をゆっくりと吸い上げれば、私の懐はいくらでも潤う。親が死んだばかりで重圧を感じている二代目なんて、優しく寄り添って承認欲求を満たしてあげれば、簡単にコントロールできるわ)
もみじはグラスの縁を指先でなぞりながら、艶やかな笑みを深めた。聡明なコンサルタントの仮面の裏で、彼女はこの若き社長を最高の『金づる』としてキープすることを決めていた。
一方、匠の内心もまた、目の前の女に向けられた黒い感情で満ちていた。
(この女、僕の資産の話をした途端、目の色が変わったな。強欲な女だ。だが、今はそれでいい。金の匂いで釣って、僕から離れられないようにしてやる)
匠の本当の目的は、もみじから妹・澪のペンダントと殺害の証拠を探し出すことであった。そのためには、彼女の警戒心を完全に解き、懐に深く入り込む必要がある。
「もみじさん」
「はい、匠さん」
「飛行機での偶然の出会いから、まだ日は浅いですが……私はあなたに強く惹かれています。今夜、このままもう少し、私と一緒に過ごしていただけませんか」
匠が熱を帯びた視線で見つめると、もみじは少し頬を染め、恥じらうように視線を伏せた。
「……はい。私も、匠さんともっと一緒にいたいです」
+++
レストランでのディナーを終えた二人は、互いに下心を隠したまま、同じホテル内のスイートルームへと向かった。
案内されたのは、最上階の角部屋に位置するラグジュアリーな一室だった。
「素晴らしいお部屋ですね……。青海野の街が、まるで宝石箱のようです」
窓の向こうに広がる、煌びやかなタワーマンション群と、黒々とした海に浮かぶクルーザーの灯りを見下ろしながら、もみじは感嘆の溜息を漏らした。
「君という宝石には敵わないがね」
匠はもみじの背後から静かに近づき、彼女の華奢な肩を優しく抱き寄せた。
間接照明だけが点灯する薄暗い室内。
静寂の中、二人は互いの服を脱ぎ捨て、広いベッドを共にした。
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「もみじ……君は本当に美しい」
「匠さん……」
匠はもみじの滑らかな肌を撫でながら、甘い言葉を囁き続ける。もみじもまた、彼の背中に腕を回し、熱っぽい吐息を漏らした。
表面上は、美しく惹かれ合う男女を演じている。しかし、絡み合うシーツの中で、二人の心は全く別の方向を向いていた。
(必ずお前からペンダントと証拠を引きずり出してやる。そして、僕の二十億円が手に入ったら、手を煩わせた罪をたっぷりと償わせてやるからな)
匠は、もみじの耳元で愛を囁きながら、瞳の奥に冷徹な悪意を宿していた。
一方、匠の胸に顔を埋めているもみじもまた、暗闇の中で狡猾な笑みを浮かべていた。
(この男の資産は、ゆっくりと時間をかけて私がいただくわ。表の顔も、裏の資金洗浄の隠れ蓑も、すべて私のために利用してあげる)
もみじは、彼を自らの欲望を満たすための「金づる」としてしか見ていない。
互いに相手を「利用するだけの存在」としか見ていないのに、表向きはひたすらに甘い雰囲気の歪んだ二人の仲は、青海野の夜景を見下ろす密室で、静かに、そして確実に深まっていったのだった。




