第29話 身辺調査
七月。
青海野国際空港の到着ロビーは、行き交う人々の喧騒に包まれていた。
ファーストクラスでの「運命的な出会い」を経て、羽元もみじは湯我原匠と並んで歩いていた。
「湯我原さん、今日は素敵な時間をありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとう、もみじさん。近いうちに必ず連絡しますよ」
もみじは、洗練された大人の女性にふさわしい、花が咲くような上品な微笑みを浮かべて小さく会釈をした。完璧に仕立てられたスーツを着こなす匠もまた、非の打ち所がない紳士の笑みを返し、迎えの車へと向かっていく。
しかし、人混みの中に匠の背中が完全に見えなくなった瞬間。
もみじの顔から、先ほどまでの「上品で聡明な女性」の仮面が、まるで氷が溶け落ちるようにスッと消え去った。
後に残ったのは、感情の読めない冷ややかな双眸と、計算高く結ばれた口元だけだった。
彼女はハンドバッグの中から、先ほど機内で手渡されたばかりの高級な和紙の名刺を取り出した。そこには『ゆがわら開発株式会社 代表取締役社長 湯我原匠』と印字されている。
(若きエリート実業家、ね。偶然ファーストクラスで私に声をかけてきたけれど、どうせ私の見栄えの良さに釣られたつまらない下心でしょう)
もみじは冷たい鼻で笑うと、スマートフォンのカメラを起動し、その名刺を撮影した。すぐさま、裏社会の調査を請け負う部下の暗号化されたチャットアプリへと画像を送信する。
『この男の素性を洗って。会社の経営実態、資産状況、さらっとでいいわ』
短い指示を打ち込むと、もみじはヒールの音を高く響かせながら、出迎えのハイヤーへと乗り込んだ。
+++
数日後。
青海野グランドカジノリゾート特区として開発が進められている広大な埋立地。表向きは行政主導のクリーンな開発計画が進むその地下深くで、非合法な会員制裏カジノが息を潜めて営業していた。
分厚い防音扉の向こう側は、煙草の煙と高価な酒の匂い、そして剥き出しの欲望が渦巻く別世界だ。
もみじはVIP専用の重厚な扉を開け、奥の個室へと足を踏み入れた。部屋には、派手な柄のシャツを着崩した下品な半グレ組織の男たちが、ふんぞり返ってソファに座っている。テーブルの上には、違法な賭博で巻き上げた帯封付きの札束が山のように積まれていた。
「おっ、待ってたぜ羽元先生。相変わらずいい女だなァ」
顔に傷のある男が、もみじの全身を舐め回すような下卑た視線で見つめ、ニヤニヤと笑った。
「お世辞は結構よ。さっさと本題に入りましょう」
もみじは男の視線を冷徹に切り捨て、向かいのソファに足を組んで座った。その態度は、匠の前で見せていた「従順で可憐な女性」とは対極にある、裏社会を生き抜いてきた強かな悪女そのものであった。
「今回のカジノの上がりだ。ざっと五億ってところだな。これをあんたのコンサル会社経由で、表の金として洗ってほしい。もちろん、足がつかないようにな」
「ええ、引き受けるわ。複数のダミー会社を経由させて、架空の不動産取引として処理する。だけど、私の手数料は今回から二割増しにさせてもらうわよ」
もみじが淡々と告げると、男たちの顔色が一気に険しくなった。
「なんだと?二割増しだと!?ふざけんな、テメェみたいな女が足元見てんじゃねえぞ!」
傷のある男が身を乗り出し、怒鳴り声を上げながらテーブルを強く叩いた。
しかし、もみじは微塵も怯むことなく、冷ややかな瞳で男を真っ直ぐに射抜いた。
「ふざけているのはあなたたちの方よ。最近、警察の動きが活発になっているのを知らないの?これだけの汚い金を安全にロンダリングするリスクがどれほど跳ね上がっているか、その足りない頭で少しは考えなさい」
「テメェ……!」
「嫌なら他を当たればいいわ。ただし、私ほど完璧に帳簿を改ざんできる人間がいればの話だけれど。……どうするの?」
もみじの圧倒的な冷徹さと度胸を前に、男たちはぐっと言葉を詰まらせた。彼女の言う通り、もみじの手腕に頼らなければ、この五億円の裏金はただの紙切れでしかないのだ。
「……チッ。わかったよ。二割増しで手を打ってやる。その代わり、絶対に警察には嗅ぎつけられねえようにしろよ」
「ええ、もちろんよ。ビジネスだもの」
もみじは妖艶な笑みを浮かべ、テーブルの上の札束を一瞥した。
(馬鹿な男たち。こんな小銭を稼ぐために怯えながら裏社会を這いずり回って。私が求めているのは、こんなものではないわ)
もみじの心の中には、常に満たされない強欲さが渦巻いていた。
裏カジノの資金洗浄役を担っている彼女は、常に「表の綺麗な大金」と、警察の目を欺くための「マネーロンダリングの隠れ蓑」を求めていた。小手先のペーパーカンパニーだけでは、いずれ限界が来ることを悟っていたのだ。
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交渉を終え、地下カジノの重苦しい空気から抜け出したもみじは、夜風に吹かれながら駐車場へと向かっていた。
その時、バッグの中のスマートフォンが震えた。先日、名刺の調査を命じていた部下からの報告だった。
『調査結果が出ました。湯我原匠。ゆがわら開発株式会社の代表ですが、本命は彼の実家です。青海野でも有数の資産家、湯我原財閥の長男。つい最近、父親の京次郎が亡くなり、莫大な遺産と不動産を相続する確固たる立場にあります』
画面に表示されたテキストを読んだ瞬間、もみじの足がピタリと止まった。
「湯我原財閥の御曹司……」
もみじは小さく呟き、紅を引いた唇の端を吊り上げた。彼女の瞳の奥で、狡猾な欲望の炎がギラリと燃え上がる。
(これは……最高の獲物じゃない)
もみじは薄暗い駐車場で、一人静かに歓喜の笑みをこぼした。
ただの若手社長なら適当にあしらうつもりだったが、莫大な実家の資産を相続する資産家の息子となれば話は全く違う。彼の持つ巨大な不動産会社と表の資金力は、もみじが喉から手が出るほど欲していた「完璧な隠れ蓑」になり得るのだ。
(あの男が私に近づいてきた下心を、逆に利用してあげるわ。聡明で上品な女を演じて彼に取り入り、完全に骨抜きにする。そして将来的な遺産や実家の資産を、少しずつ私の懐へと吸い上げていくのよ)
もみじは、匠を自分のための「金づる」としてキープすることを冷徹に決意した。
あのファーストクラスでの出会いが、彼によって仕組まれた狡猾な罠であることなど、彼女はまだ知る由もない。
そして何より、彼が自分自身の関与した毒殺事件の被害者である『澪』の実の兄だということも、この時点では微塵も疑っていなかったのだ。
互いに下心を隠し持ち、相手を単なる「獲物」としか見ていない男女。
青海野の夜空の下、もみじはスマートフォンの画面に映る匠の顔写真を見つめながら、これから始まる甘く歪んだ騙し合いの生活へ向けて、底知れぬ悪意の笑みを浮かべていた。




