第28話 標的の決定
匠はすぐさま会社を飛び出し、青海野の山の手エリアにある実家へと車を走らせた。
重厚な扉を開け、先日自ら散らかしたばかりの物置部屋へと足を踏み入れる。床には、澪の遺品が埃にまみれて散乱したままになっていた。
「手帳……あの黒い手帳はどこだ……!」
匠は血眼になって床を這い回り、散らばった衣類や本を乱暴に払い除けた。やがて、部屋の隅に転がっていた一冊の黒い革張りの手帳を見つけ出し、ひったくるように手に取った。
それは、警察官であった澪が仕事で使っていたものだ。
匠は震える手でページをパラパラと捲り、澪が殺害された四月の記録を探し当てた。そこに書かれていた文字を追ううちに、匠の目が大きく見開かれた。
『四月十日資金洗浄ルートの調査。羽元もみじと接触』
『四月十四日羽元もみじ、極めて危険。警戒が必要。次回、バーにて再接触の予定』
「羽元もみじ……!」
匠はその名前を食い入るように見つめた。
手帳の記述によれば、この「もみじ」という闇の組織に関わる人物が、生前の澪と親交を持ち、死の直前まで接触していたことがわかる。
(間違いない。この女が、澪の死に深く関わっている……!いや、この女自身が実行犯として澪を殺し、現場からペンダントを奪い去ったまである!)
匠は確信に満ちた笑みを浮かべた。
だが、これは完全に澪の掌の上での出来事だった。澪は意図的に匠をもみじへ誘導するため、わざとこの偽の証拠を手帳に残していたのだ。
疑い深く強欲な匠は、自力で見つけ出した『隠された手がかり』こそが真実だと盲信し、澪が仕掛けた罠にいとも簡単に掛かってしまった。
「ついに見つけたぞ。ペンダントを持っているのはこの女だ」
匠は手帳を強く握りしめたが、すぐに冷ややかな思考を取り戻した。
もみじが澪の死に関係していると思い、ペンダントについても何か知っていると踏んだが、今の匠には何一つ決定的な証拠がないのだ。
(力ずくで問い詰めても、しらばっくれるに決まっている。警察沙汰になれば、僕が殺害依頼を出したことまで芋づる式にバレかねない。確実に、そして相手に気づかれずにペンダントを奪い返す方法が必要だ)
匠は冷徹な実業家としての顔に戻り、新たな計画を練り始めた。
+++
数日後。ゆがわら開発の社長室。
匠のデスクの上には、探偵事務所から上がってきた分厚い調査報告書が置かれていた。大金を積んで、羽元もみじの素性と行動パターンを徹底的に洗い出させたのだ。
「表向きはフリーランスの経営コンサルタント……。だが、実態は闇の資金洗浄役といったところか。澪の手帳の記述とも一致する」
匠は報告書のページをめくりながら、冷たい笑みを浮かべた。
「しかし、意外な弱点があるな。地方のクライアントを抱えているためか、定期的に飛行機を使って移動しているらしい」
もみじが地方の闇カジノ管理のために飛行機移動しているという裏事情までは知らない匠だったが、彼女の「頻繁に飛行機を利用する」という行動パターンは、罠を仕掛けるには絶好の隙だった。
(警戒心の強い闇の組織の女に、真正面から近づいても怪しまれるだけだ。ならば、相手から僕を信用させるしかない)
匠は、報告書に添付されたもみじの写真を指先で弾いた。華やかで洗練された大人の美女だ。
(この女の懐に深く潜り込み、完全に油断させた上でペンダントを探り出す。そのためには、運命的な出会いを装い、深い恋人関係になるのが一番手っ取り早い)
匠の計算高い知能犯としての一面が、冷酷な計画を次々と形にしていった。
「来月、七月の初旬に青海野へ戻る便に乗る予定があるな……」
匠はスケジュール帳を開き、自身の予定を調整し始めた。
(僕は若くして成功した実業家だ。身なりも良く、上品な振る舞いも完璧にこなせる。一般席に乗るはずの彼女を、ファーストクラスの僕の隣に誘導すれば、そこには『空の上の運命的な出会い』が完成する)
匠は内線電話を取り上げ、秘書に指示を出した。
「七月の初旬、青海野国際空港へ向かう便のファーストクラスのチケットを隣同士で二枚押さえてくれ。それから、その便に搭乗する客室乗務員の中で、金で動きそうな人間を一人見つけ出せ。いくら払っても構わない」
電話を切り、匠は革張りの椅子に深く腰掛けた。窓の外には、梅雨明けを予感させる青海野の空が広がっている。
莫大な遺産、そして自身の命と会社を守るためのタイムリミットが迫る中、匠は自らの欲望を満たすためだけに、一人の女を騙し抜く覚悟を決めた。
+++
そして季節は、七月に入った。
青海野国際空港へ向かう便の機内。
匠はファーストクラスのゆったりとしたシートに身を沈め、ウェルカムドリンクのシャンパンを軽く揺らしていた。
事前に多額の報酬を握らせた客室乗務員が、彼に目配せをして通り過ぎる。すべては手筈通りだ。
(エコノミークラスのブッキングを装い、彼女をこのファーストクラスの、僕の隣の席へ無料アップグレードさせる。突然の幸運に驚く彼女に、完璧な紳士として声をかけるんだ)
匠はグラスに映る自分の顔を見つめた。そこには、女性を魅了する穏やかで上品な微笑みが、寸分の狂いもなく張り付いている。
やがて、通路の向こうから、上品な装いに身を包んだ女性が客室乗務員に案内されて歩いてきた。
羽元もみじだ。
彼女は自分の座席番号を確認し、まさかのファーストクラスへの案内に驚きを隠せない様子で目を丸くしている。
(来たな。澪を殺した組織の女。そして、僕の二十億円の鍵を握る女)
匠は内心の黒い炎を完全に隠し通し、グラスをテーブルに置いた。
もみじが隣の席に腰を下ろし、ふとした拍子に二人の視線が交差する。
その瞬間、匠はもみじと運命的に出会ったように装うため、優雅な笑みを浮かべて声をかけた。
「よくご利用になるのですか?私もよくこの席を利用するのですが、あなたのような美しい方が隣にいらしたら、今日は一段と素敵な時間が過ごせそうです」
突然の紳士からの問いかけに、もみじはわずかに驚き、そしてふわりと美しい微笑みを返した。
互いに裏の顔を持ち、騙し合う二人の「罠の恋」が、一万メートルの上空で静かに幕を開けたのだった。




