第27話 二重のタイムリミット
季節は巡り、六月に入った。
青海野県新都心ウォーターフロント区にそびえ立つ、グランドベイタワーの二十四階。
若きエリート実業家としてメディアでも持て囃されている湯我原匠の会社、「ゆがわら開発株式会社」の社長室には、梅雨特有の重苦しく湿った空気が漂っていた。
「社長……。大変申し上げにくいのですが、今期の支払いが厳しくなる予想です」
経理担当の初老の男が、青ざめた顔で匠のデスクの前に立ち、震える手でタブレットの画面を差し出した。
「どういうことだ。現在進行中のタワーマンションのフロア開発案件は順調なはずだろう?」
匠は貼り付けたような営業スマイルを保ったまま、穏やかな声で問い返した。だが、その目の奥は一切笑っていない。
「表向きの事業はそうです。ですが……創業時からお借りしている、あの『非公式な投資マネー』の返済期限が迫っております」
経理担当は声を潜め、周囲を気にするように視線を泳がせた。
「先方からは高利回りの還元を求められており、このままでは数か月後にはキャッシュフローが完全にショートしてしまいます。黒字倒産も免れない危機的状況です」
ゆがわら開発は、表向きは順風満帆に見えるが、その実態は過度な借入金と、黒に近いグレーの金融屋から流れる非公式な資金に依存していた。
キャッシュフローは常に綱渡り状態であり、匠は父・京次郎の遺産である二十億円の暗号資産を独り占めして、その負債を一気に清算する目論見だったのだ。
しかし、パスワードが刻まれた澪の青海野オパールのペンダントを失った今、その計画は完全に暗礁に乗り上げていた。
「……分かっている。父の遺産の整理がつけば、すぐにでも全額返済できる手筈が整っているんだ。君は余計な心配をせず、日々の業務に戻りたまえ」
「は、はい。承知いたしました」
経理担当は不安げな表情を残したまま、深く一礼して社長室を後にした。
重厚な扉が静かに閉まった瞬間、匠の顔から紳士の仮面が剥がれ落ちた。
(くそっ……!あのペンダントさえあれば、二十億円はすぐに僕のものになるのに……!)
匠は苛立たしげにデスクを強く叩き、高級レザーの社長椅子に深く背中を預けた。
その時、彼のスーツの内ポケットに入っていた、裏取引専用の使い捨てスマートフォンが短い振動音を立てた。
画面には「非通知」の文字が表示されている。匠は唾を飲み込み、慎重に電話に出た。
『湯我原社長。親父さんが亡くなって、さぞかし莫大な遺産が入ったはずだろう?』
電話の向こうから聞こえてきたのは、融資元であるグレーな金融屋の男の、低く冷酷な声だった。
「……お世話になっております。ええ、手続きは進めておりますが、まだ資産の移行に時間がかかっておりまして」
匠は努めて冷静な声を装った。
『時間がかかっている、だと?ふざけるなよ。こっちはずっと待ってやってるんだ。そろそろ、貸していた開発資金を耳を揃えて返してもらおうか』
「待ってください。決して返さないと言っているわけではありません。遺産の法的な手続きに少し手間取っているだけで、あと少し……もう少しだけ待ってほしいんです」
匠は必死に食い下がった。
『甘いこと言ってんじゃねえぞ、若造。俺たちは銀行じゃないんだ。待ってほしけりゃ、今すぐ利子だけでも振り込め』
「それは……今すぐには……」
『いいな、話は終わりだ。こっちは待たない。リミットは半年だ』
男の声が、地を這うような脅迫のトーンへと変わった。
『半年以内に全額返済できなければ、アンタの命で払ってもらうことになる。せいぜい夜道には気をつけるんだな』
ツーツーという無機質な切断音が、匠の耳元で空しく響いた。
「半年……!」
匠はスマートフォンをデスクに放り投げ、両手で頭を抱えた。
半年後。それは奇しくも、父親が遺した遺産の相続税の申告・納税期限である「十ヶ月」のタイムリミットとほぼ重なる時期だった。
遺産の二十億円が手に入らなければ、相続税の莫大なペナルティで実家や不動産を差し押さえられて無一文になることに加え、会社が倒産し、裏社会の組織から命を狙われることになる。
「ふざけるな……!僕が何をしたって言うんだ!親父の遺産は僕のものだ!僕がすべてを手に入れるはずだったんだ!」
「二重のタイムリミット」という逃れられない死の宣告を突きつけられ、匠は社長室の中で半狂乱になって叫んだ。
完璧だったはずの計画が音を立てて崩れ去っていく。彼を支配していたのは、底知れぬ恐怖と、それを上回る強烈な強欲さだった。
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(落ち着け……まだ終わったわけじゃない。暗号資産を引き出すためには、澪のペンダントが絶対に必要だ。あれさえ見つけ出せば、すべてが解決する)
荒い息を吐きながら、匠は血走った目で空を睨みつけた。
霊安室で見た澪の首筋の跡から、匠は「澪を殺した実行犯が、現場からペンダントを持ち去った」と完全に思い込んでいた。
(そうだ。実行犯を見つけ出して、ペンダントを奪い返せばいい。追加でいくらでも金を払ってやる。あいつらに連絡を取るんだ)
焦燥感に駆られた匠は、デスクの引き出しの奥から、澪の殺害依頼を出す際に使用した、暗号化された専用アクセスキーと端末を取り出した。
ダークウェブの深層に潜る匿名の請負犯罪プラットフォーム。匠は震える指でキーボードを叩き、以前コンタクトを取った闇の組織のブローカー宛てにメッセージを打ち込んだ。
『ターゲットの排除は確認した。だが、実行犯が現場から持ち去ったペンダントを返してほしい。追加の報酬はいくらでも支払う。至急、実行犯と連絡を取らせてくれ』
送信ボタンを押し、匠は画面を食い入るように見つめた。
しかし、数分待っても、数十分待っても、返信は来ない。それどころか、送信したメッセージは「宛先不明」のエラーコードと共に弾き返されてきた。
「どういうことだ……なぜ繋がらない!」
匠は何度も再送信を試みたが、結果は同じだった。
エクリプス・シンジケートの闇仲介システムは、依頼者と実行犯がお互いの顔を知らない完全前払いのブラインド方式である。依頼が完了し、報酬が支払われた時点で、その匿名窓口との通信回線は完全に破棄され、二度と繋がらない仕組みになっていたのだ。
「くそっ!これでは実行犯が誰なのか、探し出すことすらできないじゃないか!」
匠は端末を乱暴に床に叩きつけた。
液晶画面が蜘蛛の巣状にひび割れ、ノイズが走る。
ペンダントを探すための唯一の糸口だった闇の組織への連絡線が、無惨にも断たれてしまった。
(他に……他に手はないのか?このままでは、本当に会社も僕の命も終わってしまう……!)
絶望の淵に立たされた匠の脳裏に、ふと、実家の物置部屋で漁った「澪の遺品」の記憶が蘇った。
あの時、段ボール箱の中をひっくり返して見つけた、澪の仕事用の黒い革張りの手帳。そこには、生前の澪が関わっていたであろう人物の名前が記されていたはずだ。
(そうだ……澪の手帳だ。あそこに、澪を殺した奴に繋がる何かが残されているかもしれない)
匠の歪んだ執念が、再び黒い炎となって燃え上がり始めていた。




