第26話 消えたペンダント
湯我原家の本邸。重厚な扉に閉ざされた薄暗い物置部屋の中で、段ボールが乱暴に引き裂かれ、物が床に投げ捨てられる鈍い音が響き渡っていた。
破滅へのカウントダウンが始まり、焦燥感に駆られた匠は、実家に保管してある澪の遺品を狂ったように漁っていた。
「どこだ……!どこにあるッ!」
匠は仕立ての良い高級スーツのネクタイを乱暴に引き剥がし、血走った目で段ボール箱を次々とひっくり返した。衣服、愛読していた本、仕事用の手帳。澪が遺したあらゆる品が、埃と共に床へ散乱していく。
「ペンダントだ!あの青海野オパールのペンダントがなければ、二十億円が引き出せないんだぞ!」
匠は床を這いつくばりながら、遺品の段ボール箱の中を何度ひっくり返しても、パスワードが刻まれたペンダントは見当たらなかった。
手元に残されたのは、莫大な遺産への扉を開くことのできない、ただの無機質なUSBメモリだけだ。
(落ち着け……考えるんだ。澪のペンダントはどこに消えた?)
荒い息を吐きながら、匠の脳裏に四月の霊安室でのやり取りがフラッシュバックする。
『ネックレスかペンダントのようなもので擦れた跡でしょうが、身に付けてはおりませんでした』
佐久本管理官の冷淡な声が、耳の奥で反響した。
「あ……」
(あの時、僕が依頼した殺し屋が、澪を殺したついでにペンダントを奪い去ったのか……?!)
依頼はダークウェブの匿名窓口を通じたものであり、実行犯が誰なのか匠には知る由もない。完全なブラインド方式で依頼を出した以上、直接連絡を取ってペンダントを返せと要求することなど、物理的に不可能なのだ。
「あ、あああ……っ!」
十ヶ月以内にパスワードを見つけ出し、暗号資産を現金化できなければ、会社はおろか、この本邸すらも差し押さえられて完全に破滅する。
完全犯罪を成し遂げたと確信していたはずが、彼自身が仕掛けた殺意の罠が、ブーメランのように自らの首に深く食い込んでいた。
「僕が……僕のせいで、すべてが終わったというのか……!ふざけるな、クソ親父ィィッ!!死んでも尚、僕を愚弄する気か!!」
誰もいない物置部屋に、十ヶ月後の破滅を確信した男の、狂気に満ちた絶叫だけが空しく響き渡っていた。
+++
同時刻。青海野県の山間部に位置する、警察の極秘セーフハウス。
外界から完全に遮断された地下の空間で、澪はいくつものモニターと向き合い、キーボードを無音で叩き続けていた。
そこへ、背後から重々しい足音が近づいてくる。
「湯我原くん。たった今、本庁の極秘ラインから情報が入った」
佐久本管理官が、いつも以上に硬い声で告げた。
「君の父親である、京次郎氏が……息を引き取ったそうだ」
「……そうですか。ついに、その時が来たのですね」
澪は静かにモニターから視線を外し、自身の胸元へ手を伸ばした。澪は自身の胸元で光る「青海野オパールのペンダント(パスワードの鍵)」を静かに撫でた。
「悲しいか、湯我原くん」
佐久本の問いかけに、澪は涼しげな目元をわずかに伏せた。
「……ええ。ほんの少しだけですが、父の死に対してわずかな感傷を覚えている自分に驚いています。冷酷な父でしたが、私にこのペンダントを託した時の不器用な顔が、脳裏に焼き付いて離れないんです」
澪はペンダントを強く握りしめ、小さく息を吐いた。
「ですが、悲しみに暮れている暇はありません。父が遺した『遺言の罠』が、完全に作動しましたから」
「遺言の罠、だと?」
佐久本が眉をひそめると、澪は冷徹なリアリストとしての顔を取り戻し、真っ直ぐに振り返った。澪は遺言の内容を知っていたのだ。
「父は、兄の匠には暗号資産の入ったUSBメモリだけを渡し、パスワードはこのペンダントに刻みました。ペンダントを持たない兄は、相続税のタイムリミットを前にして、今頃破滅に向けて焦り始めているはずです」
澪は父の死に対してわずかな感傷を覚えつつも、父が遺した「遺言の罠」が完全に作動し、兄が破滅に向けて焦り始めていることを冷徹に予測した。
「なるほど……。兄妹が協力しなければ遺産が手に入らない仕組みか。だが、君はすでに公式には死んだ人間となっている。パスワードの在り処を知る者は誰もいない」
「ええ。だからこそ、兄は私が殺された現場から『犯人がペンダントを奪い去った』と思い込み、パニックに陥るでしょう」
澪の瞳の奥で、冷たい復讐の炎が静かに燃え上がった。
「借金で首が回らない兄は、ペンダントを取り戻すために、必ず裏社会の連中や、私の殺害に関わった実行犯へと繋がる行動を強引に起こすはずです」
「泳がせて、関係者をあぶり出して自滅するところを一網打尽にするというわけだな」
「その通りです。タイムリミットが迫れば、匠は必ず焦ってボロを出し、黒幕へ繋がるはずです」
澪はペンダントから手を離し、再びモニターへと向き直った。画面には、エクリプス・シンジケートの複雑な資金洗浄ルートと、兄の経営するダミー会社への導線が映し出されている。
「さあ、お兄ちゃん。あなたの醜い本性を、すべて暴き出してあげるわ」
冷酷な計算に満ちた澪の呟きが、地下のセーフハウスの静寂の中に溶けていった。




