第25話 遺言の罠
季節は巡り、五月。
青海野に初夏の風が吹き始める頃、旧市街の山の手エリアに広がる湯我原家の本邸は、深い喪に服していた。
湯我原家の絶対的な支配者であり、政財界に睨みを効かせていたカリスマ実業家、京次郎が、重い病の末についに息を引き取ったのだ。
長男である匠は、妹の澪がすでに死んでしまったという事実を、最後まで父には内緒にしていた。
『死の直前の父が、愛娘の死を知ったらあまりにも悲しむだろう。最期くらいは心安らかに見送ってやりたい』
周囲にはそう言って涙ぐみ、大義名分を盾にして隠し通したが、匠の腹の底にある本音はまったく違った。
(あの疑い深い老いぼれのことだ。澪が死んだと知れば、直前で遺言書を書き換え、僕以外の誰かに財産を譲るよう手配しかねないからな。僕が遺産を独り占めするためには、親父が息を引き取るその瞬間まで、澪が生きていると錯覚させておく必要があった)
こうして、湯我原家では異例となる、澪と京次郎の合同葬儀が執り行われることとなった。
五月の晴れ渡る空の下、匠は立派な喪主を務め上げた。黒の礼服に身を包み、大勢の参列者の前でハンカチを片手に涙を拭う。妹と父を立て続けに失った悲劇の長男を、彼は完璧な演技力で演じきった。
参列者たちは皆、彼に深い同情の眼差しを向け、哀悼の意を表して去っていった。
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葬儀が終わり、静寂を取り戻した湯我原家本邸。
重厚な調度品に囲まれた広い応接室で、匠は深い革張りのソファに深く腰を下ろしていた。向かいの席には、湯我原グループの顧問弁護士が、分厚いファイルを膝の上に置いて居住まいを正している。
「先生。本日は滞りなく式を終えることができ、感謝いたします。お父様も、澪も、これでようやく安らかに眠れることでしょう」
匠は上品な微笑みを浮かべ、労いの言葉を口にした。
「ええ、匠様も喪主という大役、大変お疲れ様でございました。会長も澪様も、さぞお喜びのことと存じます」
弁護士が恭しく頭を下げる。
(忌々しい親父もくたばり、目障りな澪も死んだ。これでようやく、すべてが終わった。親父が残した莫大な遺産は、残された唯一の家族であるこの僕の手に、すべて転がり込んでくるというわけだ)
匠は内心で勝利の優越感に浸りながら、テーブルの上に置かれた紅茶のカップに手を伸ばした。
「さて、先生。さっそくで恐縮ですが……父の遺言書について、お伺いしてもよろしいでしょうか。今後の湯我原グループの舵取りや、資産の管理手続きもありますので」
匠が穏やかな声で促すと、弁護士は表情を引き締め、膝の上のファイルを開いた。
「はい。生前に会長からお預かりしておりました遺言書を、これより読み上げさせていただきます」
弁護士の厳格な声が、静まり返った応接室に響き渡った。
「『湯我原ホールディングスをはじめとする主要な不動産および株式のすべては、長男・匠に相続させる』」
(よし……!予想通りだ!)
匠は心の中でガッツポーズをした。頬が緩みそうになるのを必死に堪え、悲しげな表情を維持する。
「『ただし、私が個人的に保有している暗号資産、およそ二十億円相当については……匠と澪、二人で仲良く分けなさい』」
その言葉に、匠の眉がわずかにピクリと動いた。
「……二人で、ですか。ただ、まぁ、澪はすでに亡くなっておりますので、あれですよね」
「ええ。ですが、会長がこの遺言書を作成された時点では、澪様はご存命でしたから。法的な手続きを踏まえれば、最終的には匠様がすべてを相続することになるでしょう」
「そうですか。ええ。ですよね」
匠は安堵の息を吐き、ソファの背もたれに体を預けた。
「それでは、こちらを匠様へお渡しいたします」
弁護士は鞄の中から、小さな桐の箱を取り出し、大理石のテーブルの上に静かに置いた。
「これは?」
「遺産の一部として、会長から匠様へ託された『USBメモリ』のみです。中身は、先ほどの二十億円相当の暗号資産が保管されているコールドウォレットのデータとなっております」
匠は身を乗り出して箱を開け、中に入っていた銀色のUSBメモリを指先でつまみ上げた。この小さなメモリの中に、二十億円という莫大な金が眠っているのだ。冷たい金属の感触が、匠の強欲な心を満たしていく。
「ありがとうございます。ですが先生、これだけでは暗号資産は引き出せませんよね。コールドウォレットを開くためのパスワードはどうなっているのですか?」
匠が当然の疑問を口にすると、弁護士は一切の感情を交えない、淡々とした口調で告げた。
「ウォレットのパスワードにつきましては、会長が生前、澪様へプレゼントされた『青海野オパールのペンダント』の裏面にのみ、刻印されているとのことです」
「……は?」
匠の顔から、さっと血の気が引いた。
「ペンダント、だと……?」
「はい。会長は『暗号資産は、匠のUSBメモリと、澪のペンダントが揃わなければ絶対に引き出せないようにしてある』と仰っておりました。兄妹で協力しなければ、遺産は手に入らない仕組みです」
匠の脳裏に、霊安室で対面した澪の遺体と、実家に届けられた遺品が入っていた段ボール箱の記憶がフラッシュバックした。
あの箱の中に、ペンダントは無かった。
(そんな馬鹿な……!そのペンダントがなければ、二十億円が引き出せないだと!?)
匠は握りしめたUSBメモリごと手が小刻みに震え出し、清潔感のある整った額には嫌な脂汗が滲み始めた。
「匠様?いかがなされましたか。お顔の色がひどく優れないようですが」
「い、いえ……なんでもありません。ただ、少し驚いただけです。……ちなみに、先生。そのパスワードの控えなどは、先生の事務所や、他の場所に保管されているのではありませんか?」
「私共は一切お預かりしておりません。世界でただ一つ、澪様が持っていたあのペンダントにのみ記されておるとのことでした」
弁護士の冷酷な事実の宣告に、匠は息を呑んだ。
遺産を相続し、二十億円を手にするためには、澪のペンダントが絶対に必要だ。しかし、それは澪が殺害された現場から消え去り、どこにあるのか見当もつかない。
呆然と立ち尽くす匠に追い討ちをかけるように、弁護士は非情にも書類の束を差し出した。
「そして匠様、こちらが重要な通告となります。相続税の申告および納税期限は、会長のご逝去から十ヶ月以内となります」
「十ヶ月……?」
「はい。十ヶ月のタイムリミットです。今回の遺産総額から計算しますと、相続税は莫大な額になります。この十ヶ月以内にそちらの暗号資産を現金化して納税資金を作らなければ、期限に間に合いません」
弁護士は銀縁の眼鏡を中指で押し上げ、冷ややかに言葉を続けた。
「もし申告と納税が遅れれば、会長が遺した他の不動産や、今我々がいるこの本邸すらも、国税局に差し押さえられて無一文になります。その上、莫大な延滞税とペナルティが発生し、匠様は完全に破滅することになるでしょう」
「破滅……」
匠は虚ろな目で、手の中のUSBメモリを見つめた。
遺産を独り占めしようと殺害依頼を出した結果、一番重要だった暗号資産のパスワードを、自らの手で永遠に失ってしまったのかもしれない。
「家族すら信用しない」冷徹な父・京次郎が仕掛けた『遺言の罠』が、ここに来て完全に作動したのだ。
(くそっ……!くそぉぉぉっ!!)
匠は、ソファの上で震えながら、深い絶望の淵へと突き落とされていた。
破滅へのタイムリミットは、すでに静かに時を刻み始めていた。




