第24話 相棒の辞職
地下のセーフハウス。
兄である匠が自身の殺害依頼の張本人だったという残酷な真実を突きつけられた後も、澪は一切の休息を取ることなく、モニターの前に陣取っていた。
ずっと疑ってはいたものの、実の兄が本当に自分を殺そうとした確証を得て、澪の心には兄のおぞましさが深く刻み込まれていた。同時に、強欲で冷酷な兄ならば確かにやりかねないという、冷徹な推察も成立していた。
しかしまだ、警察内の裏切り者が誰かわからない。
澪は、青海野県警内部の人間関係図や、自身の過去数ヶ月間のスケジュールをモニターに並べ、一つひとつの可能性を潰していく作業を続けていた。
警察組織という巨大なシステムの中に潜む、見えない敵。その正体を暴き出さなければ、この泳がせ捜査を完遂することはできない。
「湯我原くん。少し手を休めてくれ」
別の端末で外部との連絡を取っていた佐久本管理官が、重々しい足取りで近づいてきた。
「何か新しい情報が入ったのですか?」
澪が振り返ると、佐久本は険しい表情で一つため息をついた。
「ああ。県警本部の動向を監視している特命班のメンバーから、たった今報告が入った。……君のバディだった磯嶋成樹が、警察を辞めたそうだ」
「え……?」
澪は一瞬、佐久本の言葉の意味が理解できず、呆然と聞き返した。
「成樹くんが、退職した……?なぜですか。彼は検挙率もトップクラスで、将来を嘱望されていたはずです」
「君の死が原因だそうだ」
佐久本は静かな声で告げた。
「連絡によれば、磯嶋は君が死んだという知らせにひどく取り乱していたらしい。『自分が相棒の健康を守れなかった。自分に責任がある。もう警察にいる資格はない』と……そう言って辞表をそっと提出して、署を去っていったそうだよ」
その言葉を聞いた瞬間、澪の胸の奥がギュッと締め付けられた。
(成樹くん……)
澪の脳裏に、いつも「澪さん!」と人懐っこい笑顔で話しかけてきた後輩の顔が浮かんだ。裏社会を追う過酷な任務の中でも、彼は常に明るく、頼りになるバディだった。
自分の偽装死は、警察内部の腐敗分子と組織の上層部を欺き、一網打尽にするための絶対に必要な極秘作戦だった。だが、その裏の事情を何も知らない成樹からすれば、澪は「突然病死した大切な相棒」に他ならない。
「私の……私のせいです。私が真実を伏せたまま死を偽装したショックで、彼から警察官としての未来を奪ってしまった」
澪はモニターから目を伏せ、自分の両手を強く握りしめた。澪は成樹に悪いことをしたと思い、激しい罪悪感に苛まれた。
「君が背負うことではない。すべてはこの腐敗した街と、巨大な組織を壊滅させるための犠牲だ」
「わかっています。ですが……彼だけは、真っ直ぐな正義感を持った警察官でした。私が彼を絶望させてしまった」
澪は、偽装死の直前、成樹が「行きつけのバーで飲みませんか」と誘ってくれた時のことを思い出した。あの時、自分が素気なく断ってしまったことが、彼の後悔をさらに深めてしまったのではないか。
「管理官。私は必ず、この作戦を成功させます」
澪は顔を上げ、決意に満ちた瞳で佐久本を真っ直ぐに見据えた。
「この闇の組織を完全に壊滅させ、すべてが解決したら……私が直接、成樹くんを迎えに行きます。真実を話し、必ず彼を警察に戻してみせます」
それは、冷徹なリアリストである澪が、たった一つだけ見せた「バディへの純粋な信頼と情」だった。
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同じ頃、青海野県警本部の正面玄関。
冷たい風が吹き抜ける中、磯嶋成樹は私物の入った小さな段ボール箱を抱え、重い足取りで署の階段を下りていた。
「磯嶋!おい、考え直せ!」
後ろから駆け寄ってきた数人の同僚が、必死の形相で成樹を引き留めた。
「お前が警察を辞めるなんて、湯我原警部だって絶対に望んでいないはずだ!彼女の分まで、俺たちと一緒に正義を貫いていくんじゃないのか!」
同僚たちの熱い言葉に、成樹は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
その顔は深い悲しみに沈み、無精髭の生えた口元は悔しさで微かに震えていた。
「……すみません、先輩」
成樹は掠れた声で呟き、深く頭を下げた。
「俺、澪さんのいない警察で、これからも正義を信じてやっていく自信がないんです。一番近くにいた相棒の体調に気を配れなかった俺には……もう、警察官を名乗る資格なんてありません」
「磯嶋……」
悲痛な成樹の顔を見て、同僚たちはそれ以上引き留める言葉を失い、ただ同情と無念の入り混じった目で見送るしかなかった。
「お世話になりました」
成樹は再び頭を下げると、背中を丸め、署の敷地を重々しく後にした。
しかし。
県警本部から数十メートル離れ、人目のつかない裏路地へと足を踏み入れた瞬間だった。
成樹の顔から、「悲痛な顔」が仮面が剥がれ落ちるように完全に消え去った。
代わりに浮かび上がったのは、退廃的で、底知れぬ野心に満ちた歪んだ笑みだった。
「馬鹿な連中だ。澪が死んで、正義だのなんだのと……反吐が出る」
成樹は抱えていた段ボール箱を、近くのゴミ捨て場に乱暴に放り投げた。中に入っていた警察の表彰状や記念品が、無惨にゴミの山に散らばる。
「あんな安い給料で身を危険な場に置き、上層部の顔色ばかり窺うような理不尽な組織……こっちから願い下げだ。正義なんかじゃ、飯は食えねえんだよ」
成樹は鼻で笑いながら、ポケットから使い捨てのスマートフォンを取り出した。そして、迷うことなく『エクリプス・シンジケート』の窓口へと通信を繋ぐ。
『……どうした。例の件はよくやった』
電話の向こうから、冷たい男の声が響く。
「ああ、俺だ。約束通り、バディの湯我原澪は片付いた。警察の公式発表も病死で確定した。姉貴がうまく立ち回ってくれてな」
成樹はタバコを取り出し、火をつけながら不敵に笑った。
「俺も、たった今警察を辞めてきたところだ。これで完全にそっち側の人間だぜ」
『……仕事が早いな。相棒を売り飛ばすその冷酷さ、見事なものだ』
「当然だろ。俺を誰だと思ってる。さあ、約束通り俺の『幹部ポスト』を用意してもらおうか。これからは裏社会の頂点目指して、俺のやり方でやらせてもらうぜ」
成樹はタバコの煙を大きく吐き出し、青海野のどんよりとした空を見上げた。
その目は、かつてのバディへの罪悪感など微塵も存在せず、ただ自らの欲望と権力への執着だけでギラギラと輝いていた。
地下のセーフハウスで、成樹の復帰を信じて「迎えに行く」と誓う澪。
そして、その信頼を鼻で嗤い、自らの出世のために相棒を裏切った成樹。
決して交わることのない二人のバディの思いは、残酷な皮肉となって、青海野の暗闇の中に深く沈み込んでいった。




