第23話 暴かれた殺害依頼
四月。青海野県の山間部に位置する、警察の極秘セーフハウス。
外界から完全に遮断された地下の空間には、いくつもの大型モニターが壁一面に並び、絶え間なく膨大なデータが文字列となって流れ続けていた。
湯我原澪は、偽装死後、地下に潜伏して「泳がせ捜査」をしている最中だった。
薄暗い部屋の中で、澪はコーヒーの入ったマグカップを片手に、血走った目でモニターを睨み続けている。数日間、まともな睡眠すら取っていない。
「少しは休んだらどうだ、湯我原くん。特命班のメンバーも、君のペースには心配しているぞ」
背後から歩み寄ってきた佐久本管理官が、労うような声で声をかけた。
「いえ、休んでいる暇はありません。ターゲットが私の死に安心しきっている今こそが、彼らの警戒が最も緩む瞬間ですから」
澪はモニターから視線を外さず、キーボードを叩き続けた。
偽装死をした時点では、澪は「誰かが自分を殺そうとしている」ことしか確定していなかった。
バーで羽元もみじが自分に毒を盛ったことは事実だが、彼女が誰の指示で動いていたのかという「黒幕」の正体までは掴みきれていなかったのだ。
「管理官。泳がせ捜査は順調ですか?」
「ああ。もみじや裏社会の人間たちの通信記録、それに資金移動の監視を続けている。君の言う通り、彼らは君が完全に死んだと思い込み、野放図な連絡を取り始めているようだ」
「やはりそうですか。佐久本管理官と共に組織の上層部を追い詰め、裏金の流れや顧客リストを解析した結果、この巨大な犯罪ネットワークの核に少しずつ近づいている手応えがあります」
澪は、画面に表示された複雑な相関図を指差した。
「エクリプス・シンジケートの資金洗浄ルートですね。もみじが関与しているダミー会社を起点にして、複数の口座を経由しながら、ダークウェブ上の匿名の依頼窓口へと資金が流れています」
「そこから、君への殺害依頼を出した依頼主に辿り着けそうか?」
佐久本の問いに、澪は静かに頷いた。
「ええ。依頼主は暗号化された専用アクセスキーを使い、暗号資産で報酬を支払っています。ですが、どれだけ巧妙にロンダリングを重ねても、ブロックチェーン上のトランザクション履歴をすべて消し去ることは不可能です」
(必ず見つけ出してみせる。私を罠にはめ、確実に殺そうとした人間の正体を)
澪の凍てつくような瞳の奥で、冷徹な復讐の炎が静かに燃え上がっていた。
「解析ツールをフル稼働させて、現在その暗号資産の送金元のウォレットを特定しているところです。もう少し……もう少しで、黒幕の尻尾を掴めます」
「わかった。無理はするなと言いたいところだが、今は君の執念に頼るしかないようだな」
佐久本は小さく息を吐き、澪の背中を頼もしく見つめた。
「すべては、この青海野に巣食う闇を完全に払拭するためです。私を殺したという罪は、誰一人として野放しには致しません」
澪は冷たく言い放ち、再び暗号解析の海へと深く潜り込んでいった。
+++
それから数時間が経過した、深夜。
セーフハウスの静寂を破るように、澪の操作していたメインモニターから、解析完了を知らせる電子音が鳴り響いた。
「……出ました」
澪の低く、緊張を孕んだ声が部屋に響く。
仮眠を取っていた佐久本が、すぐさま跳ね起きて澪の背後に立った。
「送金元が特定できたのか」
「はい。私への殺害依頼の着手金と報酬、計数千万円相当の暗号資産が支払われたウォレットアドレスです」
澪は画面に表示された長い文字列をハイライトし、さらに別のデータベースと照合を始めた。
「このウォレット……海外の取引所を経由してはいますが、最終的な出資元は青海野県内に登記されている複数の法人に紐づいています」
「青海野の法人だと?一体どこの会社だ」
澪の指先がキーボードの上を高速で舞う。
ダミー会社の登記情報、役員名簿、そして税務データの裏帳簿が次々と画面に展開されていく。点と点が繋がり、一つの明確な輪郭が浮かび上がろうとしていた。
「代表取締役の名前は……架空の人物のようですが、この法人の設立資金の流れをさらに遡ると……」
澪の言葉が、ふいに途切れた。
画面に最終的な結果が表示された瞬間、澪は息を呑み、キーボードの上に置かれた両手をピタリと止めた。
涼しげだった彼女の目元が、驚愕と、やがて来る深い絶望によって見開かれる。
「……どうした、湯我原くん。誰だったんだ」
佐久本が眉をひそめて画面を覗き込む。
「これが、殺害依頼の報酬が匠のダミー会社から支払われていたという決定的な証拠です」
澪の口から絞り出された声は、ひどく冷たく、そして震えていた。
「匠……?君の兄の、湯我原匠のことか」
「ええ……。間違いない。このペーパーカンパニー群を実質的に束ね、裏帳簿を管理しているのは、『ゆがわら開発株式会社』……兄の会社です」
匠が殺害依頼を出した張本人だと澪が知った瞬間だった。
(まさか……お兄ちゃんが、私を?)
澪はモニターの光に照らされたまま、放心したように画面を見つめ続けた。
幼い頃から、兄の強欲さや、嘘つきで他者を顧みない人間性の歪みは完全に見抜いていた。父が死に近づく中、遺産を巡って彼が何らかの手を打ってくるかもしれないという強い警戒心も抱いていた。
しかし、それでも実の兄なのだ。
(どこかで、まさか実の妹の命までは狙わないだろうと……血の繋がりという微かなストッパーを、私は信じてしまっていたのかもしれない)
澪は胸の奥で、冷たい氷の刃が突き刺さるような痛みを感じていた。
ずっと疑ってはいたものの、実の兄が本当に自分を殺そうとした確証を得て、澪は兄の底知れぬおぞましさを感じていた。
「実の妹に殺し屋を差し向けるとは……。遺産を独り占めするためとはいえ、あまりにも非道だ」
佐久本が忌々しげに拳を握りしめた。
「……いえ」
澪はゆっくりと首を横に振った。その瞳から動揺の色が消え、徐々に冷徹な光が戻り始める。
「確かに兄ならやりかねない……そう推察すべきでした」
澪は自らを嘲笑うように、かすかに口角を上げた。
「私の見通しが甘かっただけです。お兄ちゃんは、自分の欲望のためなら息を吐くように嘘をつき、他人の命すら踏みにじる人間だということ。私は幼い頃から、それを一番近くで見てきたはずなのに」
(お兄ちゃん……。あなたが私を殺したのね。自分の手を汚さず、完璧な仮面を被ったまま)
澪はギリッと奥歯を噛み締めた。
「管理官。これで黒幕の一人は確定しました」
「ああ。だが、これで終わりではない。殺害依頼を出したのが匠だとしても、あの日バーで実際に君に毒を盛ったのは羽元もみじだ。あの女は一体誰の指示で動いていたんだ?」
「その通りです。しかしまだ、警察内にいると思われる裏切り者が誰かわかりません」
澪は再びキーボードに手を置き、モニターの画面を切り替えた。
「匠の依頼は匿名の窓口を通じたものです。つまり、匠自身は誰が実行犯として動いたのかを知らないはず。そして、実行犯側に情報を流し、もみじを動かして私の殺害を仕組んだ『警察内部の協力者』が必ず別に存在しています」
(私ともみじを出会わせてバーに誘い、私の行動パターンを把握していた人間……。一体誰が、私を組織に売ったの?)
澪は、警察内部に潜む見えない裏切り者の影に、底知れぬ怒りと猜疑心を募らせていた。
地下のセーフハウスに、再び重苦しいタイピングの音が響き始める。
身内からの殺意という残酷な真実を突きつけられながらも、澪は決して立ち止まらなかった。すべてを欺き、すべてを暴き出すまで、彼女の執念が消えることはない。




