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第4話 穏やかな生活

 同棲を始めて二週間が経過した。


 お互いに仕事を持つ私たちには、どうしても日々のすれ違いが生じてしまう。私は不動産開発の現場や会食で夜遅くなることがあり、フリーランスのコンサルタントである彼女も、クライアントとの打ち合わせで急な地方出張が入ることがあった。

 それでも、私たちの同棲生活は驚くほど良好に続いていた。


「おはよう、もみじ。今日も早いんだね」

「あ、匠さん。おはよう。ごめんなさい、起こしちゃった?」


 ある朝、私がリビングに向かうと、スーツ姿のもみじが急ぎ足で身支度を整えていた。


「いや、ちょうど目が覚めたところさ。気をつけて行ってらっしゃい」

「ありがとう。あ、ダイニングテーブルにお弁当箱を置いてあるの。私の分を作ったついでだから、お昼に食べてね」

「本当かい?それは嬉しいな。今日のランチタイムが待ち遠しいよ」

「ふふ、いってきます!」


 彼女が慌ただしく出かけた後、テーブルの上を見ると、可愛らしい包みと共に一枚のメモ紙が残されていた。

『いつもお仕事お疲れ様。無理しないでね。夜には帰りますもみじ』

 その丸みを帯びた丁寧な文字を見るだけで、この部屋に彼女がいるという温もりを感じることができた。


 私も負けじと、彼女への気遣いを忘れないようにした。帰りが遅くなった夜は、キッチンに彼女へのメモと小さなプレゼントを残すのが日課になっていた。

『今日も一日お疲れ様。ゆっくり休んで。冷蔵庫に、君が好きだと言っていた青海野黒紫葡萄《あみのこくしぶどう》の白ワインを冷やしてあるよ。明日一緒に飲もう匠』


 忙しない日々の中でも、互いを思いやるほんの少しの手間を惜しまない。そうしたささやかなやり取りが、私たちの甘い生活を静かに彩っていた。


 +++


 そして、ある日の夜のことだ。

 珍しくお互いの休みが重なり、私たちはゆっくりと夕食の時間を楽しんだ後、寝室でお互いの愛を確認し合った。


 間接照明の柔らかなオレンジ色の光だけが、静かな部屋を照らしている。上質なリネンのシーツに身を包み、私たちはベッドの中で体を寄せ合ってピロートークを楽しんでいた。


「今日は久しぶりに、君とゆっくり過ごせて嬉しかったよ」

「私も。匠さんと一緒にいると、仕事の疲れなんて全部吹き飛んじゃうわ」


 もみじは私の胸元に顔を埋め、甘えるようにすり寄ってきた。私は彼女の滑らかな髪を優しく撫でる。部屋の中には、彼女が好んで使っているフローラル系の香水の残り香と、ほのかな温もりが満ちていた。


「もみじ」

「ん……なあに?」


 私は彼女の髪を撫でていた手を止め、ふと、静かな声で問いかけた。


「君は、僕に何か隠していることや、抱えている秘密はないかい?」


 その瞬間、もみじの肩が微かにビクッと震えたのが分かった。

 彼女はゆっくりと顔を上げ、私の目を見つめ返した。その瞳の奥には、突然の質問に対する明らかな戸惑いの色が浮かんでいた。ほんの数秒、沈黙が私たちの間に降りた。


「……秘密?」

「ああ。些細なことでもいい。僕に言えないような、何か隠し事はないかってね」


 私は努めて穏やかな、いつもの微笑みを崩さずに尋ねた。

 もみじは瞬きを数回繰り返し、少し強張っていた表情を緩めて、ふわりと笑った。


「ううん、何もないわ」

「そうかい?」

「ええ。どうして突然、そんなこと聞くの?」

「いや、これだけ君を愛していると、君のすべてを知りたくなってしまってね。過去のことでも、今の悩みでも、何でも僕に打ち明けてほしいと思っただけさ」


 私の言葉を聞いて、もみじは安堵したように小さく息を吐いた。そして、少しだけ探るような瞳で私を見上げてきた。


「もう、驚かせないでよ。……そういう匠さんこそ、私に隠している秘密はないの?」


 突然の彼女からの切り返し。

 私は彼女の真っ直ぐな視線を受け止めながら、一切の迷いを見せずに、優しく微笑み返した。


「無いよ」

「本当?」

「ああ。僕のすべては、君の目の前にある」


 私がそう答えると、もみじは満足そうに微笑み、再び私の腕の中へと収まった。


「よかった。おやすみなさい、匠さん」

「おやすみ、もみじ」


 +++


 やがて、規則正しい寝息が聞こえ始めた。

 もみじは完全に深い眠りに落ちたようだ。彼女の無防備な寝顔を見下ろしながら、私は暗い天井へと視線を移した。


『秘密はないの?』


 彼女の無邪気な問いかけが、頭の中で静かに反響している。

 無い、と答えたのは当然嘘だ。


 私の内心には、誰にも踏み込ませることのできない、重い過去の記憶が存在していた。


 それは、今から四か月前のことだ。


 季節が春を迎え、桜が散り始めた四月。

 私の妹である澪《みお》が、何者かの手によって命を落とした。


 澪は、キャリア警察官として警察庁の組織犯罪対策部に配属されていた。

 警察は事件性が無いと処理したが、彼女の命を奪った「何者か」の存在がいると私は推察している。


 事件の真相は、未だ霧の中に包まれている。


 暗闇の中で、私は静かに目を閉じた。

 平和で甘い同棲生活の裏側で、四か月前のあの出来事が、今もはっきりと私の記憶に横たわっている。


 隣で穏やかな寝息を立てるもみじ。

 夜の静寂の中、私は彼女の寝顔をただ静かに見つめ続けていた。

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