第3話 同棲生活の始まり
「僕と同棲しましょう」
私が告げた突然の提案に、彼女は息を呑んで立ち尽くした。驚きのあまり言葉を失っている。潮風が静かに吹き抜け、マリーナに停泊しているクルーザーの白い帆を小さく揺らした。対岸の街明かりが、彼女の驚きに満ちた瞳の奥で小さく反射している。
「もみじ、君との将来を真剣に考えているんだ」
私は彼女の呼び方を自然に変え、重ねて想いを口にした。夜風で少し冷たくなった彼女の華奢な手を両手で包み込み、わずかに力をこめる。彼女は瞬きを繰り返し、私の言葉の真意を探るように見つめ返してきた。
「いずれは、僕の仕事も手伝ってほしいと思っている。不動産開発の仕事は多岐にわたるから、君のような聡明なコンサルタントの意見が常にそばにあると心強い」
私は柔和な表情を崩さず、さらに言葉を重ねた。
「それに、君も仕事柄、飛行機での移動が多いだろう?僕も都心のセキュリティが万全なマンションの方が、何かと都合がいいんだ。今の屋敷は広すぎるし、街の中心部からはどうしても少し不便だからね。利便性の高い部屋を借りて、一緒に暮らそう」
見つめ合う数秒が、永遠のように長く感じられた。波の音が寄せては返すたび、彼女の表情から徐々に戸惑いの色が消えていく。やがて、彼女の瞳にじんわりと温かな光が灯り始め、それがうっすらとした涙の膜に変わるのが分かった。
「匠さん……」
震える声で私の名前を呼ぶと、もみじは花が咲くようにふわりと微笑んだ。
「こんなに嬉しいことはありません。……私でよければ、よろしくお願いします」
「ありがとう、もみじ」
私は深く頷き、彼女の手を優しく握り返した。青海野の海風が、二人の新たな関係を祝福するかのように、穏やかに吹き抜けていった。
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それから三週間後。
私たちは新都心ウォーターフロント区にある、高層タワーマンションの一室で新しい生活をスタートさせた。青海野スカイタワーのすぐ近くに位置し、コンシェルジュが二十四時間常駐する、セキュリティが万全の物件だ。
「よし、これで最後かな」
引っ越し当日。私は玄関の前に積まれていた最後の段ボールを抱え上げ、広々としたリビングの中央へ運び込んだ。全面ガラス張りの大きな窓からは、初秋の澄んだ青空と、眼下に広がる青海野湾の海面が眩しく輝いている。
「匠さん、お疲れ様。重かったでしょう?業者の方にお任せしてしまえばよかったのに」
エプロン姿に着替えたもみじが、冷たい麦茶の入ったグラスを二つお盆に乗せて、備え付けのアイランドキッチンから歩いてきた。
「これくらいなんてことないよ。大事な君の荷物だからね、少しでも手伝いたかったんだ。さあ、一緒に荷解きをしてしまおうか」
グラスを受け取って麦茶で喉を潤し、私は足元に置かれたいくつかの段ボールに視線を落とした。彼女の衣類や生活用品が詰まった箱がいくつも並んでいる。私はその中から、比較的小さめの段ボール箱に手を伸ばした。
「まずはこの箱から開けてみようか。小間物が入っていそうだ」
私がガムテープに手をかけ、箱の蓋を開こうとした瞬間だった。
「あっ、待って匠さん!」
もみじが少し慌てたような高い声を出し、素早い動作で私の手を上から押さえた。
「どうしたんだい?」
「あ、あの……」
彼女はわずかに息を呑み、私の手から段ボール箱をそっと、しかし確かな力で引き離した。そして、申し訳なさそうに視線を伏せて微笑んだ。
「ごめんなさい。自分の物がどこに行ったのかわからなくなるから、荷解きは自分でやりたいの」
彼女は引き寄せた段ボール箱を両腕で抱え込むようにして、私を見上げた。
「重い荷物を運んでもらうだけで、もう十分に助かってるわ。あとは私が自分のペースで定位置を決めて片付けるから、匠さんはソファで少し休んでいて」
「そうか。君がそういうなら任せるよ。無理はしないようにね」
「ありがとう。気遣ってくれて嬉しいわ」
私は紳士的に微笑んで引き下がり、リビングの革張りのソファに腰を下ろした。彼女は少しほっとしたような表情を見せると、箱を自分のそばに置き、手際よく荷解きを始めた。
「そういえば、少し休んだらワインセラーのセッティングを手伝ってもらえるかな。青海野黒紫葡萄の特醸ワインも、お祝いのために何本か持ってきたんだ。夜に君と一緒に飲もうと思ってね」
「ええ、喜んで。夜がとても楽しみね」
もみじは段ボールから中身を取り出しながら、嬉しそうに答えた。
夕方になり、部屋の荷解きが一段落した頃には、西の空が深いオレンジ色に染まり始めていた。
私たちは広々としたバルコニーに出て、並んでガラス張りの手すりに寄りかかった。眼下には新都心エリアのビル群と、青海野グランドカジノリゾート特区へ続く広大な埋立地が広がっている。さらに遠くへ視線を向ければ、青海野国際空港の滑走路を照らす誘導灯が、夕闇の中でぽつぽつと点灯し始めていた。
「ここからの景色、本当に綺麗ね……」
もみじがうっとりとした声で呟いた。海風に吹かれ、彼女のやわらかな髪が風に舞って頬を撫でる。
「君に気に入ってもらえてよかったよ。ここはセキュリティが万全だから、君も安心して仕事に出かけられるだろう。これからは、二人でこの景色を毎日見ることができるんだ」
私は彼女の肩を優しく抱き寄せた。
「ええ、夢みたいだわ。匠さんとこんな素敵な場所で一緒に暮らせるなんて」
もみじは私の肩にそっと頭を乗せ、幸せそうに微笑んだ。街の灯りが一つ、また一つと点灯し、青海野の街が華やかな夜の装いへと変わっていく。
「さあ、そろそろ中に入ろうか。今日は特別に、一番良いワインを開けよう」
「ふふ、引っ越し祝いね。匠さんの選んだワイン、とても楽しみ」
二人でリビングに戻り、私は新しく設置したばかりのワインセラーから、青海野黒紫葡萄のビンテージボトルを取り出した。コルクを抜き、二つのグラスに静かに注ぐと、芳醇な香りが真新しい部屋中に広がった。
「乾杯」
「乾杯」
澄んだ音を立ててグラスを合わせ、静かに一口飲む。
「美味しい……深い味わいなのに、とてもすっきりしているわ」
「君の口に合ってよかった。このワインは、青海野の豊かな自然が生み出した傑作なんだ。これから、二人で少しずつ色々なワインを味わっていこう」
「ええ、ぜひ」
彼女の笑顔は、この上なく幸せそうに見えた。




