第2話 夜のマリーナ
あの機上での出会いから一か月、私ともみじさんは自然な流れで逢瀬を重ねていった。
彼女はフリーランスのコンサルタントとして多忙な日々を送っていたが、それでも合間を縫って私の誘いに応じてくれた。私たちは話題のレストランで食事をしたり、ベイエリアのカフェで午後のひとときを過ごしたりした。
会うたびに、彼女の知的で洗練された振る舞い、そして時折見せる無邪気な笑顔に、私たちは互いに強く惹きつけられていった。
八月下旬の週末。私は彼女を特別な場所へ案内した。
青海野スカイタワーの最上階に位置する、会員制の展望ラウンジだ。
「わあ、素晴らしい夜景ですね」
案内された窓際のテーブル席に座るなり、もみじさんは眼下に広がる光の海を見て感嘆の声を漏らした。
「喜んでいただけて嬉しいです。ここのフレンチは絶品なんですよ。特に魚介を使った料理には定評がありましてね」
「ええ、とても楽しみです。匠さんが選んでくださるお店は、いつも素敵ですから。先週連れて行っていただいたカフェも、とても落ち着く空間でした」
「あそこは私も仕事の合間に立ち寄るお気に入りの場所なんです。君にも気に入ってもらえてよかった」
彼女はシックな黒のドレスに身を包み、首元には華奢なネックレスが光っていた。その上品な装いは、この高級感あふれる空間に見事に調和していた。
運ばれてきた料理を味わいながら、私たちはグラスを傾け、会話を楽しんだ。
「最近のプロジェクトは順調ですか?」
「ええ、おかげさまで。ただ、地方への出張が多くて、少しバタバタしています。クライアントの要望に応えるのは、なかなか骨が折れますね。昨日も少し遅くまで資料を作っていたんです」
「それは大変でしたね。あまり無理はしないでください。君が倒れてしまったら、私が悲しみますから」
「ふふ、ありがとうございます。匠さんの会社の方はいかがですか?」
「こちらも新しい開発案件が動き出したところでして。忙しくも充実した日々を送っていますよ。でも、こうして君と会える時間が、今の私にとって一番の活力になっています」
「そんな風に言っていただけると光栄です」
「本当ですよ。仕事の疲れも、君の笑顔を見るだけで吹き飛んでしまう」
「匠さんったら、お世辞がお上手なんですから」
彼女はグラスに口をつけながら、嬉しそうに微笑んだ。
他愛のない話から仕事の深い話まで、話題は尽きなかった。彼女は私の話を熱心に聞き、的確で聡明な意見を返してくれる。そのやり取りの心地よさに、私は満ち足りた思いを感じていた。
食事を終えた私たちは、夜風を浴びながら街を散歩することにした。
綺麗に整備された遊歩道を、肩を並べて歩く。ふと、通り沿いにある高級ジュエリーショップの前で足が止まった。
閉店後の薄暗い店内の中で、ショーウィンドウだけがスポットライトに照らされ、美しく陳列された宝石たちが燦然と輝いている。繊細な細工が施された指輪やネックレスは、どれも洗練されたデザインで見る者の目を惹きつける。
「素敵なデザインのものばかりですね」
「ええ、職人の確かな技術を感じます」
私はガラス越しにジュエリーを見つめながら呟いた。
「永い年月の間地中に埋まり、人の手によって磨かれた鉱物。実に美しい石だと思いませんか」
隣に立つもみじさんも、同じようにガラスの向こうへ視線を向けていた。
「ええ、本当に幻想的ですね」
もみじさんが静かに頷くのを見て、私は視線を宝石からゆっくりと彼女へと移し、静かに言葉を重ねた。
「青海野のオパールは光の当たり方で全く違う色を見せる。まるで、人の本性のようだと思いませんか?」
その言葉に、もみじさんの指先が一瞬だけ微かに強張ったように見えた。だが、彼女はすぐにこちらへ顔を向け、普段通りの柔らかな微笑みを浮かべ直す。
「人の本性、ですか。多面性があるからこそ、人は惹かれ合うのかもしれませんね」
その落ち着いた返答に、私は深く頷いた。
「確かにその通りだ。羽元さんのそういう聡明な受け止め方が、私はとても好きですよ」
私は穏やかに目を細め、何事もなかったかのように再び歩き出した。彼女も自然な足取りで隣をついてくる。
やがて、私たちは波の音が寄せては返すマリーナのウッドデッキへと足を踏み入れた。停泊している何隻ものクルーザーの白い船体が、街灯の光を反射してほのかに浮かび上がっている。
二人で夜景が一望できるベンチの近くで立ち止まった。遠くに見える対岸の灯りが、海面に細長い光の道を作って揺れている。海風にもみじさんの柔らかな髪が揺れるのを、私はじっと優しく見つめている。
「もみじさん」
ふと呼び止められ、もみじさんが振り返ると、私はこれまでになく真剣で、どこまでも誠実な眼差しを向けていた。
「出会ってから、まだ一か月しか経っていません。ですが、あなたと過ごす時間が重なるたびに、私は単なる偶然や運命以上の特別な結びつきを感じずにはいられないんです」
もみじさんの瞳がわずかに見開かれる。私は一歩歩み寄り、言葉を丁寧に選びながら語りかけた。
「君のふとした仕草や言葉の端々から伝わる聡明さ、そして誰よりも温かいその内面に、私はすっかり心を奪われてしまいました。これからの未来を、君と共に歩んでいきたい。誰よりも近くで、君のために尽くしたいんだ」
あまりにまっすぐな愛の告白に、もみじさんは驚きに目を見張った。その瞳には、戸惑いと、それ以上の喜びが揺らめいているように見えた。
夜の帳が完全に下りた青海野の海辺で、私は彼女の華奢な手を両手で優しく包み込み、完璧な紳士の微笑みを浮かべて告げた。
「僕と同棲しましょう」




