第1話 ファーストクラスでの出会い
七月。
照りつけるような真夏の日差しを逃れ、私は機内の心地よい空調に身を委ねていた。
行き先は青海野県。首都圏から飛行機で約一時間の距離にある、湾岸都市と深い山林が隣接した要衝だ。海と温泉、豊かな自然に恵まれたリゾート兼ビジネス特区として知られており、青海野国際空港はビジネスジェットのハブとしても機能している。私はその青海野へ向かう便のファーストクラスで、静かに離陸の時を待っていた。
手元のグラスに入ったウェルカムドリンクのシャンパンを軽く揺らす。ゆったりとしたシートの座り心地は悪くない。機内には静かなクラシック音楽が流れ、乗客たちはそれぞれの時間を過ごし始めている。
ふと、通路側に気配を感じて視線を上げた。
そこに立っていたのは、華やかで洗練された大人の女性だった。上品な装いに身を包み、身のこなしにはどこか余裕が感じられる。彼女は私の隣の席に案内され、客室乗務員に荷物を預けると、静かに腰を下ろした。
シートベルトを締める際、ふとした拍子に私たちの視線が交差する。
私は手元のグラスをテーブルに置き、自然な笑みを浮かべて、穏やかな声で話しかけた。
「よくご利用になるのですか?私もよくこの席を利用するのですが、あなたのような美しい方が隣にいらしたら、今日は一段と素敵な時間が過ごせそうです」
突然の問いかけにも、彼女は不快な顔ひとつせず、わずかに目を丸くした。そして、やわらかな微笑みを返してくれた。
「いえいえ、ブッキングだとかでアップグレードしていただいたのです。突然の幸運に少し驚いていたところでした」
彼女の高く澄んだ声が機内の静かな空間に響く。
「空の上の偶然というのは、地上で起きるどんな出来事よりも印象に残るものですからね。私は青海野で不動産開発の会社を経営しています」
私が自身の身分を明かすと、彼女は軽く会釈をし、姿勢を正した。
「ご丁寧に恐れ入ります。私はフリーランスで企業の経営コンサルティングをしております」
「経営コンサルタントですか。道理で、立ち居振る舞いに聡明な空気を纏っていらっしゃるわけだ。青海野へはお仕事ですか?」
私が感心したように頷くと、彼女は謙遜するように視線を伏せた。
「いえ、地方での案件が一段落しましたので。帰るところです」
離陸の心地よい浮遊感とともに、私たちの会話はさらに弾んでいった。
話題は自然と青海野の街のことや、お互いの仕事のことに移る。新都心のウォーターフロント区に立ち並ぶ超高層タワーマンションや、外資系の高級ホテルといった煌びやかな街並みについて、彼女はコンサルタントならではの鋭い視点を持っていた。
私は自身が手がける高級タワーマンションの一棟開発事業や、富裕層向けの商業テナント仲介といった仕事の話を交えながら、彼女の意見に耳を傾けた。
「青海野スカイタワー周辺の再開発は、今後さらに注目を集めるでしょうね。あなたのような方が牽引されているのなら、なおさらです」
「光栄なお言葉です。ただ、私一人の力ではなく、優れたパートナーやご縁に恵まれた結果ですよ」
私は謙遜を交えつつ、彼女のグラスが空になりかけているのに気づき、客室乗務員に合図を送って代わりの飲み物を頼んだ。運ばれてきた新しいグラスを手にして、私はふと彼女の手元のワインに目を向けた。
「お酒はお好きなのですか?」
「ええ、たしなむ程度には。このワイン、とても芳醇な香りがしますね」
「お目が高い。実は私、高級ワインの収集とテイスティングを趣味にしておりましてね」
私はグラスを軽く傾け、その色合いを確かめるように見つめた。
「青海野の温暖な傾斜地で栽培される特醸ワインも、近年は非常に質が高くなっています。もしよろしければ、青海野の豊かな自然が育んだビンテージワインの魅力を、いつかご紹介させてください」
「まあ、それはとても魅力的ですね。ぜひ教えていただきたいです」
彼女の明るい笑い声が、機内の穏やかな空気に溶け込んでいく。
上空の安定した飛行が続く中、窓の外には真っ白な雲海が広がっている。彼女の仕事に対する情熱や、各地を飛び回る多忙な日々についても聞いた。聡明でありながらも、決してひけらかすことのない彼女の言葉選びは、非常に心地よかった。
「多忙な毎日を送られていると、こうして飛行機の中で過ごす時間が、唯一の息抜きになることもありますよね」
「ええ、本当に。今日は思いがけず、とてもリラックスした時間を過ごせています」
彼女が優しく微笑むのを見て、私は次の言葉を切り出した。
「もしよろしければ青海野に戻ってから改めて食事でもいかがですか。機上でのこの素晴らしいご縁を、一度きりで終わらせてしまうのはあまりに惜しい」
少しだけ身を乗り出し、彼女の目をまっすぐに見つめる。私の誘いに対し、彼女は一瞬だけ驚いたような表情を見せたが、すぐに花が咲くような明るい笑顔を見せた。
「お誘いありがとうございます。ぜひ、喜んで」
やがて、窓の外には青海野国際空港周辺の臨海コンテナ埠頭や、新都心のビル群が見えてきた。機体が降下を始め、シートベルト着用のサインが点灯する。着陸の衝撃はごくわずかで、飛行機は静かにゲートへと滑り込んだ。
「到着しましたね」
「ええ。あっという間のフライトでした」
私たちは立ち上がり、手荷物をまとめた。降機する直前、私は上着の内ポケットから名刺入れを取り出し、彼女に差し出した。
「改めて、私の連絡先です」
「ありがとうございます。私のも受け取ってください」
彼女から渡された名刺には、シンプルで洗練されたフォントで名前が記されていた。
「羽元もみじさん、ですね」
「はい。湯我原さん、今日は素敵な時間をありがとうございました」
名刺交換をして、初めてお互いの名前を呼び合った瞬間だった。
彼女――もみじさんは、柔らかく微笑みながら私の目を見た。
「こちらこそ、ありがとう、もみじさん。近いうちに必ず連絡します」
私たちは並んでボーディングブリッジを歩き、青海野の地へと降り立った。




