第21話 霊安室の偽遺体
四月下旬。
青海野県内の外れにある、警視庁と密な連携を持つ指定医療機関の地下霊安室。
無機質な蛍光灯が冷たく照らす室内で、警視庁組織犯罪対策部の佐久本管理官は、銀縁メガネの奥の鋭い眼光をステンレス台の上に向けていた。
そこには、特殊な遺体袋に入れられた「湯我原澪」が横たわっている。
澪の協力者である佐久本管理官が、警察内部の手続きや検視を極秘裏に主導していた。警察内部の腐敗分子や巨大組織を完全に欺き、澪を社会的な「死者」とするための隠蔽工作である。この作戦は、裁判官からの超法規的特例許可を得て実行されていた。
「管理官。指示通り、公的な死亡診断書の発行手続きが完了しました」
白衣を着た医療スタッフが、周囲を警戒しながら一枚の書類を佐久本に手渡した。
「ご苦労だった。死因は指定通りだな」
「はい。重篤な指定感染症による多臓器不全という形で、完全に処理してあります」
特命班が指定医療機関を動かし、公的な「死亡診断書」を偽造して発行させるという、前代未聞の隠蔽工作であった。佐久本は書類を一瞥すると、ステンレス台の上の「遺体」へと歩み寄った。
遺体袋のジッパーが首元まで開けられている。そこから覗くのは、紛れもなく澪の顔であった。しかし、それは本物の澪ではない。極秘チームの特殊メイク担当が総力を挙げて作り上げた、精巧なダミー人形である。
「よくできている。肉眼で見る限り、本物にしか見えん」
「ありがとうございます。ただ、時間の制約もあり、精巧に作られているのは横顔と首筋のダミーのみです。それ以外の部分は作り込みが甘いため、遺体袋で完全に隠しておく必要があります」
スタッフの言葉に、佐久本は静かに頷いた。
「構わない。指定感染症という名目があれば、遺体の全身を確認させる必要はない。横顔と首筋さえ見えれば、普通の人間の目は十分に誤魔化せるはずだ」
佐久本は懐中時計を確認し、冷徹な声で告げた。
「そろそろ来る頃だ。舞台の準備をしろ」
+++
「澪!澪はどこですか!」
深夜の病院の廊下に、革靴の足音が激しく響き渡った。
息を切らし、高級スーツのネクタイを振り乱した湯我原匠が、血相を変えて地下の霊安室へと駆け込んでくる。
「落ち着いてください、湯我原さん。ここから先は立ち入りが制限されています」
入り口に立つ佐久本が、感情を排した重厚な声で匠の行く手を遮った。佐久本は兄の匠を病院へ呼び出し、身元確認の手続きを行わせる手筈を整えていたのだ。
「刑事さん、どういうことですか!澪が死んだなんて、そんなはずがない!」
匠は悲痛な面持ちで佐久本に詰め寄った。しかし、佐久本は冷静に首を横に振るだけだった。
「残念ですが、彼女は特殊な指定感染症の疑いによりお亡くなりになりました」
佐久本が設定通りの台詞を告げると、匠の顔が驚愕に歪んだ。
「指定感染症……?馬鹿な、つい先日まであんなに元気だったじゃないか!」
「急性のものです。我々も無念でならない。現在、厳重な衛生上の処置を行っており、遺体に直接触れることはおろか、近づくことすら許可できません」
佐久本は衛生上の処置を理由に、匠には分厚いガラス越しで遺体を確認させるよう誘導した。
促されるまま、匠は霊安室に併設された観察室へと足を踏み入れた。
分厚い防護ガラスの向こう側。無機質なステンレス台の上に、黒い遺体袋に包まれた澪が横たわっている。体は遺体袋で完全に覆い隠され、見えているのは青ざめた横顔と、首筋の部分だけだった。
「ああ……澪……嘘だろう……」
匠はガラスにすがりつき、崩れ落ちるようにして妹の名前を呼んだ。肩を震わせ、慟哭するその姿は、妹を突然失った悲劇の兄そのものであった。
しかし、ガラスに顔を近づけた瞬間、匠の視線がピタリと一点で止まった。
青ざめた澪の首筋に、はっきりと赤い痕跡が残されていたのだ。
ガラス越しに遺体を確認した匠が、澪の首筋に赤い跡を見つけて佐久本に問い詰めた。
「ちょっと待ってください。澪の首筋にある、あの赤い痕跡は何ですか!まるで何かで首を絞められたか、擦れたような跡じゃないですか!」
匠は血走った目で佐久本を睨みつけた。
「澪は本当に病死なんですか!?誰かに殺されたんじゃないのか!」
激昂する匠に対し、佐久本は表情一つ変えずに冷静に答えた。
「ネックレスかペンダントのようなもので擦れた跡でしょうが、身に付けてはおりませんでした。遺族としてのお悲しみはわかりますが、これ以上の調査は行われません。彼女の病気とは無関係で事件性は一切認められません」
佐久本の説明を聞いた瞬間、匠の胸の内で、激しい歓喜の炎が燃え上がった。
(……完璧だ!あの組織の連中、どんな手を使ったか知らないが、完璧に病死に見せかけてやってくれたんだ!)
匠は悲しむ兄を演じつつ、完全犯罪の成功を歓喜して喜んでいた。
(警察の管理官でさえ、病死だと信じ込んでいる。あの忌々しい澪は死に、親父の遺産は、すべて僕一人のものだ!)
匠は、悲しみのあまり顔を歪めるふりをしながら、両手で顔を覆った。湧き上がる邪悪な笑みを隠すためのポーズであった。
「信じられない……澪が、こんなにあっけなく逝ってしまうなんて……!」
匠の震える嗚咽が、冷え切った観察室に虚しく響き渡る。
分厚いガラスの向こう側では、精巧なダミー人形がただ静かに横たわっている。
騙しているつもりの匠と、それを冷徹に見つめる佐久本。互いに嘘を抱え込んだまま、狂気に満ちた騙し合い戦いが進んでいく。




