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第20話 毒殺決行

 四月下旬。

 青海野《あみの》新都心の裏路地にひっそりと佇む、隠れ家のようなオーセンティックバー。

 薄暗い間接照明が、磨き上げられたマホガニーのカウンターを鈍く照らしている。静かなジャズが流れる店内には、数人の客がまばらに座っているだけだった。


 澪《みお》は、カウンターの端の席でグラスを傾けていた。隣に座るのは、三回目の接触となる羽元《はねもと》もみじだ。


「澪さん……今日も時間を作ってくれてありがとう。私、本当にどうしたらいいか分からなくて……」

 もみじは肩を落とし、縋るような視線を澪に向けていた。その華奢な指先は、不安を隠すようにカクテルグラスの縁をなぞっている。


「大丈夫よ、羽元さん。私が必ずあなたを安全な場所へ逃がすから。でも、そのためには組織の具体的な資金ルートを教えてもらわないと」

 澪は、怯える女性を包み込むような優しく温かい声で答えた。


(この女……怯えた顔をしておきながら、一向に決定的な情報を吐こうとしないわね)

 澪は艶やかなまつ毛を伏せ、グラスの氷をカラリと鳴らした。


「ええ……。でも、組織の人間が私を監視しているかもしれないの。怖くて、夜も眠れなくて……」

 もみじは顔を覆って泣き真似をしながら、バッグの中に忍ばせた小さな小瓶にそっと触れた。

(馬鹿な女。正義感ぶって私を助けようとするなんて。ここで数分後に心不全を引き起こす即効性の毒を飲ませて、全てを終わらせてやる)

 もみじの心の中には、冷酷な殺意が渦巻いていた。彼女は、澪が隙を見せるのを蛇のように待ち構えている。


 その様子を、カウンターの奥でシェイカーを振るバーテンダーが、壁掛けのアンティークミラー越しに鋭い視線で監視していた。

 彼は単なるバーテンダーではない。佐久本《さくもと》管理官が結成した極秘特命チームの捜査員だった。

(ターゲットの手がバッグに入った。やる可能性がある……)

 捜査員は、グラスを磨きながらも、もみじの細かな手の動きを鏡越しに凝視している。もしこのすり替え作戦に失敗すれば、澪が本当に命を落とすことになる。その極限のプレッシャーが、彼の額に薄っすらと汗を滲ませていた。


 +++


「少し、お手洗いに行ってくるわね。羽元さん、気分が悪ければ水をもらいましょうか?」

「ううん、大丈夫。待っているわ」


 澪が席を立ち、レストルームへと向かう。

 澪の背中が見えなくなった瞬間、もみじの目から「怯えた女」の演技が完全に消え去った。冷酷な光を宿した瞳で周囲を素早く確認すると、バッグから小さなスポイト状の容器を取り出した。


(さようなら、澪さん。恨むなら、こんな組織に関わった自分を恨むのね)

 もみじが、澪の飲みかけのカクテルグラスに毒を垂らした、まさにその直後だった。


 ガチャンッ!!


「おい、どこ見て歩いてんだよ!」

「あ、すみません!酔って足元が……!」


 カウンターの反対側で、ひどく酔っ払った客同士が激しくぶつかり合い、グラスが床に落ちて派手な音を立てて割れた。怒鳴り声が響き、店内の客の視線が一斉にそちらへ向く。


「な、なによ……」

 もみじも思わずビクッと肩を震わせ、急いで空のスポイトをバッグにしまい、トラブルの起きた方向へと目を奪われた。

 これは偶然ではない。極秘で動いている澪のチームが、意図的にもみじの目をそらさせるために仕掛けた陽動作戦だった。


(今だ……!)


 もみじの視線がそらされたほんの数秒の隙を突き、バーテンダーに扮した捜査員が目にも留まらぬ速さで動いた。

 彼は、毒が混入された澪のグラスを、カウンターの下に隠し持っていた「全く同じ見た目のグラス」と素早くすり替えた。

 そのグラスの中には、毒ではなく、一時的な心拍低下と仮死状態を引き起こすための特殊な薬が仕込まれている。


「申し訳ありません、お客様。すぐにお片付けいたします」

 バーテンダーは事もなげに声を上げ、何事もなかったかのように布巾でカウンターを拭き始めた。

 すり替えられたことなど露知らず、騒ぎから視線を戻したもみじは、何事も無かったかのように髪を掻き上げた。


(……終わったわ。これで数分後には心不全で死ぬ)

 もみじは何食わぬ顔で自分のグラスに口をつけた。


 数分後。

「ごめんなさい、お待たせして」

 レストルームから戻ってきた澪が、静かに席についた。

「ううん。少し騒ぎがあって驚いたけれど、もう大丈夫よ」

 もみじは完璧な笑みを浮かべて澪を出迎える。


 澪はカウンターの奥に立つバーテンダーと一瞬だけ視線を交わした。バーテンダーが微かに顎を引いて頷いたのを見て、すり替えが成功したことを確信する。


(このグラスには、私を仮死状態にする薬が入っている。だが、絶対に安全とは言い切れない)


 自らの命を懸けたロシアンルーレット。

 澪は微塵の恐怖も見せず、目の前のグラスを手に取った。


「それじゃあ、改めて。あなたを必ず守り抜くわ」

 澪が優しく微笑みかけると、もみじも「ありがとう」と嬉しそうに目を細めた。


 澪はグラスを傾け、仮死の薬が入り混じった液体を、一気に喉の奥へと流し込んだ。

 すべてを欺く、偽装死のカウントダウンが静かに始まった。


 +++


 酒を飲み干した澪《みお》は、グラスをカウンターに置いた瞬間、急に胸を押さえてテーブルの上へと突っ伏すような形で崩れ落ちた。


「うっ……!苦しい……ッ!」


 薄暗い店内で、小さく痙攣しながらぐったりと動かなくなる澪。その様子を見たもみじは、驚いたふりをしながらも、心の中では冷酷な笑みを浮かべていた。

(効いたわ……!計画通り、数分で心不全を引き起こした)

 もみじは周囲に客がいないことを確認し、そっと澪の体に近づいた。そして、ぐったりとしている澪の首元に指を当て、その脈が完全に止まっていることを確認した。


「……死んでる。こんなにあっさり片付くなんて、安い殺害依頼だこと」


 もみじは吐き捨てるように呟くと、澪の右手の薬指で妖しく光る指輪に目を留めた。

(これ、ブランド物の高い指輪じゃない。……少しは金になるわね)

 もみじは迷うことなく、澪の指から指輪を強引に引き抜いて自分のポケットにねじ込んだ。さらに、澪の首元で揺れる青海野オパールのペンダントに手を伸ばした。

(首飾りの方もついでに奪ってやるわ)


 もみじはペンダントの鎖を強く引っ張り、ちぎり取ろうと力任せに引っ張った。しかし、特注の鎖は想像以上に頑丈で、いくら引っ張ってもびくともしない。

「くっ……何よ、これ!」

 背後から人の気配を感じ取ったもみじは、舌打ちをしながらペンダントを奪うのを諦め、足早にバーの出口へと駆け出していった。


 +++


 もみじの足音が完全に遠ざかったのを確認した瞬間、バーの奥から上司の佐久本《さくもと》管理官と専属の医療チームが飛び出してきた。


「湯我原警部!しっかりしろ!」


 佐久本が駆け寄り、倒れている澪を床に寝かせ、気道確保をする。医療チームが即座に蘇生措置のための機器を準備し、心臓マッサージと強心剤の投与を開始した。

 緊迫した空気が店内に満ちる中、数分間の懸命な処置の末、澪の胸が小さく上下に大きく跳ねた。


「……っはぁ……!」


 澪が激しく息を吸い込みながら目を開けた。仮死状態を引き起こしていた薬の効果が切れ、自力で呼吸を取り戻したのだ。

 額に汗を滲ませた澪は、荒い息を整えながらゆっくりと上半身を起こした。


「湯我原くん、意識はしっかりしているか?」

 佐久本が安堵の表情を浮かべながら声をかけると、澪は冷静な瞳でうなずいた。


「ええ、問題ありません……計画通りです、管理官」

「すまない……。君の体には大きな負担をかけた。それに……もみじの逃走を許す際、あいつに澪くんの指輪を持ち去られてしまった」


 佐久本は悔しそうに拳を握りしめ、申し訳なさそうに眉をひそめた。


「指輪を奪われたのは誤算でしたが……」

 澪は冷徹な笑みを浮かべ、首を横に振った。


「いえ、好都合かもしれません」

「というと?」

「羽元が私の指輪を所持しているという事実そのものが、彼女が私の死に関与している動かぬ物証になります。これはいずれ、何かの形でこちらの有利に物事を進められるかもしれません」


 澪は立ち上がり、医療チームから手渡されたタオルで汗を拭いながら佐久本を見据えた。

「計画通り、私の死を完全に偽装し、地下に潜ります。ここからが本当の勝負です。関係者全員がボロを出す瞬間を、じっと待ち続けましょう」


 警察内部の腐敗分子、そして自分を殺そうとしたすべての者たちを網にかけるため、澪は完全なる「死者」として暗闇の中へ身を隠したのだった。

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