第17話 相棒の裏取引
その夜。青海野新都心の外れにある、ひとけのない地下駐車場。
(澪の殺害依頼……。まさかあの俺の相棒に、裏社会からのヒットマンが放たれるとはな)
磯嶋成樹は、暗がりでタバコに火をつけながら、口元に歪んだ笑みを浮かべていた。
彼は警察組織の理不尽な縦社会や低待遇にとうに絶望しており、「正義では飯は食えない」と闇に堕ちる機会を虎視眈々と狙っていたのだ。
やがて、一台の黒いセダンが滑り込むように現れ、成樹の前に停まった。後部座席の窓が静かに下り、闇組織『エクリプス・シンジケート』の窓口を担う男の顔が覗く。
「連絡をもらうのは珍しいな、ダーティコップ。何の用だ」
「あんたらの組織で、最近大口の『排除依頼』を受けただろう。ターゲットは、警視庁のキャリア組……俺のバディである湯我原澪だ」
男の目がわずかに細められた。
「それがどうした。警察の情報を売りに来たのか」
「もっといい取引だ。澪は並の人間じゃない。警戒心も強く、腕も立つ。あんたらの末端のヒットマンじゃ、逆に返り討ちに遭うぜ」
成樹はタバコの煙をゆっくりと吐き出し、車の窓枠に手をついて身を乗り出した。
「俺が処理してやるよ」
「なんだと?……見返りはなんだ。金か?」
「金だけじゃ足りねえな」
(こんな奴隷扱いする警察組織、いつでも捨ててやる。俺が欲しいのは、もっと上の権力と自由だ)
成樹は野心に満ちた目をギラつかせ、はっきりと要求した。
「俺が澪をやってやる。その代わり、仕事が成功した暁には、俺を組織の幹部ポストとして迎え入れろ」
男はしばらく沈黙し、やがて低い声で笑った。
「……いいだろう。相棒を売るその冷酷さ、組織でも十分に通用する。交渉成立だ。目標達成し次第、また連絡しろ」
窓が上がり、セダンは暗闇の中へと消えていった。
(悪いな、澪。お前は俺の出世のための最高の踏み台となってもらう)
成樹は吸い殻をコンクリートの床に投げ捨て、革靴の底で容赦なく踏み躙った。バディを裏切り、澪を死地へと追いやる最悪の契約が、ここに結ばれた。
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数日後の警視庁・組織犯罪対策部。
澪は自席でパソコンのモニターに向かい、青海野の裏社会に関する捜査資料を整理していた。先日、父・京次郎から渡された青海野オパールのペンダントが、彼女の白いブラウスの胸元で微かに揺れている。
「お疲れ様です、澪さん。今日も書類仕事ですか?たまには息抜きしないと倒れちゃいますよ」
人懐っこい声と共に、成樹がコーヒーを片手に近づいてきた。
「ありがとう、成樹くん。でも、この資料の整理だけは今日中に終わらせておきたくて」
澪が顔を上げると、成樹の視線が不自然に彼女の胸元へと吸い寄せられた。
「あれ?澪さん、そのネックレス……新しいやつですか?」
成樹は少し驚いたように目を丸くし、ペンダントを指差した。
「ええ。先日、少し事情があって手に入れたものよ」
澪は表情を変えず、淡々と答えた。
「へえ、すごく綺麗な石ですね。青海野オパールですか?澪さんがそんな目立つアクセサリーをつけるなんて珍しいから、ちょっと驚きましたよ。よく似合ってます」
「ありがとう」
(成樹くん……今、ペンダントの『価値』を値踏みするような目をしたわね。ただの世間話にしては、視線の動きが粘着質すぎる)
澪の冷徹無比なリアリストとしての観察眼が、バディのわずかな異変を正確に捉えていた。
「ところで澪さん、今夜どうですか?最近ずっと詰めっぱなしだったし、仕事終わりにパーッと飲みに行きませんか?俺が奢りますから」
成樹は満面の笑みを浮かべ、身を乗り出してきた。
「行きつけのバーで、すごく静かで落ち着く店を見つけたんですよ。澪さんにも絶対気に入ってもらえるはずです」
澪はパソコンから視線を外し、成樹の顔を静かに見つめ返した。
「ごめんなさい、成樹くん。お誘いは嬉しいけれど、今夜は少し外せない用事があるの。それに、最近はあまり外で飲む気分になれなくて」
澪は表情を変えず、淡々と、しかし明確な拒絶を示した。
その瞬間、成樹の目がわずかに細められた。
(……ダメか。これ以上強引に誘えば、逆に怪しまれる。相変わらず隙がねえ、恐ろしいほどの警戒心の強さだ)
見えない壁のような澪の警戒心を肌で感じ取った成樹は、これ以上踏み込むのは危険だと判断し、即座に引き下がることを選んだ。
「そっか、残念です!まあ、澪さん最近忙しそうでしたしね。また落ち着いた時にでも行きましょう!」
成樹は人懐っこい笑顔を崩さず、足取り軽く自分のデスクへと戻っていった。
しかし、パソコンのモニターの陰に隠れた成樹の顔からは、笑顔が完全に消え失せていた。
(俺が直接誘い出すのはリスクが高すぎる。警戒心の塊みたいなあの女を確実に仕留めるには、俺以外の人間を使うしかない)
成樹は引き出しの中から使い捨てのスマートフォンを取り出し、ある人物の顔を思い浮かべた。
(裏カジノの資金洗浄役をやっている、姉の羽元もみじ……。あの女なら、悲惨な女を演じてターゲットの懐に潜り込むのが得意だ。俺の身代わりとして、姉貴を利用して仕留めてやる)
一方、断った後も平静を装ってモニターに向かっていた澪の胸中は、冷ややかな確信に満ちていた。
(あの不自然なバーへの誘い。断った瞬間に見せた、獲物を逃したような微かな目の揺らぎ。……気のせいかしら)
長年バディとして信頼を築いてきたはずの男への警戒。今の澪には周囲の人間全員が怪しく見えてしまっていた。
(いけないわ。全てを疑っていたらきりがないわ)
窓の外では、青海野の空を分厚い雨雲が覆い始めていた。すべてを欺く壮絶な騙し合いの夜が、すぐそこまで迫っていた。




