第16話 託されたペンダント
四月。
青海野県の山の手エリアにそびえ立つ、重厚な湯我原家の本邸。
春の柔らかな日差しは分厚いカーテンに遮られ、父・京次郎の寝室は昼間でも薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。部屋に響くのは、規則正しい酸素吸入器の機械音と、父の掠れた呼吸音だけだ。
「澪……薬だ。時間が過ぎているぞ」
ベッドに横たわる京次郎が、苛立たしげに声を上げた。
「申し訳ありません、お父様。すぐにお持ちします」
澪は静かに立ち上がり、サイドテーブルに用意してあった薬と白湯の入ったグラスを手に取った。
父である京次郎は、表向きこそ政財界に顔の利く立派な資産家として知られていたが、その実態は長男の匠以上に冷酷な男だった。家族を自らの所有物として扱い、自分の思い通りに動かない人間を徹底的に精神的に追い詰める毒親である。
澪は、そんな父の支配下にあっても、決して逆らうことはなかった。彼女は自らの感情を押し殺し、「甲斐甲斐しく看病する優しい娘」として、父の毎日の薬の管理まで徹底して行っていたのだ。
「少し白湯がぬるい。ワシの好む温度くらい、とうに覚えているはずだろう」
「申し訳ありません。次からは気をつけます。さあ、ゆっくりお飲みください」
澪は感情の波を一切立てず、静かに目を伏せて、従順な声で謝罪した。
(どれだけ理不尽な言葉を投げつけられても、ここで私が本性を表すわけにはいかない。すべては、兄の匠から身を守り、私自身の立場を守るため。それに、沸騰したお湯では、一緒に飲む薬の『成分』が変質してしまうからだけど、これをお父様に言ったところで……)
「お前は警察庁のキャリアなどと持て囃されているようだが、思い上がるなよ。お前は一生、私の人生が尽きるその時まで、ワシに尽くすのだぞ」
「はい、お父様。私はお父様の娘ですから、いつまでもおそばにおります」
厳しい父にも献身的に尽くす優しい娘を演じ切りながら、澪はグラスの表面を指先でなぞった。
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午後になり、湯我原家の顧問弁護士が本邸を訪れた。
目的は、京次郎の遺言書の作成と最終確認だった。死期が近いことを悟っている京次郎は、自らの莫大な資産の行方を法的に確定させるための準備を進めていた。
澪は弁護士を寝室へと案内し、自らも遺言書の作成を手伝うために同席した。
「会長、こちらが前回ご指示いただいた遺言書の修正案でございます。ご確認いただけますでしょうか」
弁護士が恭しく書類を差し出すと、京次郎はベッドの上で上体を起こし、鋭い眼光で文字を追った。
「うむ……。匠の奴には、予定通りあのUSBメモリだけを渡すように手配しろ。あいつはワシの資産を目当てにしすぎているのが見え見えだ。決して、あの男の思い通りにはさせん」
「承知いたしました。暗号資産のコールドウォレットが入ったUSBメモリですね。秘密鍵の件は、いかがいたしましょうか」
「それについては、私がすでに手を打ってある。お前はただ、法的な手続きだけを抜かりなく進めればいい」
「かしこまりました。……澪様、こちらの書類の整理をお願いできますか」
「はい。すぐに対応いたします」
澪は弁護士から受け取った分厚い書類を、手際よくファイルにまとめ始めた。
(お父様は、匠にすべての遺産を渡すつもりはない。もしこれを知れば、匠は遺産を独り占めするために手段を選ばないはず。でも、お父様が言う『手を打ってある』というのは、一体何のことなのかしら)
澪は内心で思考を巡らせながらも、表面上は穏やかな微笑みを浮かべ、完璧な秘書のように振る舞った。
一時間ほどの細かな確認作業を経て、遺言書の作成手伝いは無事に完了した。
「それでは会長、本日はこれで失礼いたします。どうか、お体をご自愛ください」
弁護士が深く一礼し、寝室を後にした。
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部屋には再び、澪と京次郎の二人きりとなった。
書類を片付け終えた澪が部屋を出ようとした時、京次郎が低く掠れた声で彼女を呼び止めた。
「待て、澪」
「はい。何かご用でしょうか」
「そこにある机の、一番上の引き出しを開けろ。中に小さな箱が入っているはずだ」
澪は言われた通りにアンティーク調の机に近づき、引き出しを開けた。中には、黒いベルベット生地で覆われた手のひらサイズのジュエリーボックスが一つ、ぽつんと置かれていた。
「これですか」
「そうだ。それを持て。……お前にやる」
「私に、ですか?」
澪は驚きを隠せず、箱を手にしたまま父を振り返った。これまで、父から純粋な贈り物など受け取った記憶がない。常にそこには「見返り」や「束縛」が伴っていた。
「開けてみろ」
促されるままに、澪はそっと箱の蓋を開けた。
中に入っていたのは、繊細な細工が施された特注のペンダントだった。中央には青海野特有の遊色効果を持つオパールがはめ込まれており、薄暗い部屋の中でも妖しく七色の光を放っている。
「これは……青海野オパールのペンダントですね」
「私の分身だと思って、肌身離さず身につけておけ。お前は私の娘であり、湯我原家の人間だということを、決して忘れるな」
京次郎は、澪を永遠に縛り付けるための呪縛のように、重々しい口調で告げたのだ。
しかし、澪の視線は、父の言葉よりもペンダントそのもののデザインに釘付けになっていた。
(このペンダント……お母様がいつも身に着けていたものと、デザインがそっくりだわ)
澪の脳裏に、十年前に亡くなった優しかった母の記憶がふっと蘇った。
父の冷酷な支配に耐えながらも、いつも澪を優しく抱きしめ、微笑みかけてくれた母。その母の胸元で、いつも同じようなオパールが揺れていたのを、澪ははっきりと覚えていた。
澪はペンダントを箱から取り出し、そっと指先でオパールの表面を撫でた。冷たい石の感触が、なぜか少しだけ温かく感じられた。
(お父様は、お母様のことを覚えていてくださったのね。わざわざ特注で、似たデザインのペンダントを作らせるなんて)
澪は静かに顔を上げ、病床で息を吐く老いた父を見つめた。
冷酷で支配的だった父。自分や匠を愛玩物のように扱い、決して人間としての温かみを見せなかった男。しかし、その心の奥底には、亡き妻に対する彼なりのいびつな愛情と、不器用な優しさが隠されていたのかもしれない。
(お父様にも、こんな優しい一面があったのね……)
澪は物思いにふけり、胸の中にほんのわずかな波紋が広がった。
もしかしたら、彼にも普通の父親としての感情があったのかもしれない。
もし、もっと違う形で向き合うことができていたら。
もう少しだけ時間があれば、私たち親子は、本当の意味で分かり合えたのかもしれない。
澪はペンダントを握りしめ、しばし父の横顔を見つめた。
だが、その感傷は数秒と持たなかった。
ベッドで苦しそうに息をする京次郎の命の灯火は、すでに消えかかっている。彼が今まで自分や母に強いてきた苦痛と支配の年月は、この小さな贈り物一つで帳消しになるようなものではない。
(……でも、もう手遅れなのね)
澪は静かに目を伏せ、心の中に芽生えかけた温かい感情を、自らの手で冷徹に押し殺した。冷たい感情だけを内に秘める。
(もうすぐ父は死ぬ。そして、父が死ねば、遺産を独り占めしようとする兄の匠との対立は避けられない。
感傷に浸っている暇などない。私は私の力で、この家での自分の立場を守り抜かなければならないのだ)
「ありがとうございます、お父様。お母様の形見のように、大切に身につけさせていただきます」
澪は再び顔を上げ、完璧な笑みを浮かべて一礼した。
彼女はペンダントを自らの首にかけ、冷たい金属の感触を肌で受け止めながら、内に秘めた決意をさらに強く固めていた。




