第14話 黒い決意
時は、匠ともみじが出会う三か月前。
四月。
青海野県の山の手エリアに広がる旧市街。その一角に鎮座する広大な湯我原家の本邸は、うららかな春の陽気とは無縁の、重苦しく淀んだ空気に包まれていた。
薄暗い寝室の豪奢なベッドには、表向きは立派な資産家だが、裏では非常に冷酷な顔を持つ主、湯我原京次郎が横たわっている。彼は重い病に伏し、もうすぐ死んでしまう運命にあったが、窪んだ眼窩の奥にある眼光は未だに周囲を激しく威圧していた。
ベッドの脇には、資産家の子供である長男の匠と、長女の澪が静かに立っている。
「匠……お前の会社など、所詮は私の威光に縋るだけの砂上の楼閣だ」
京次郎は掠れた、しかし絶対的な冷酷さを含む声で吐き捨てた。
「表向きは若手実業家などと持て囃されているようだが、裏の汚い金に手を出して首が回らなくなっていることなど、ワシにはすべてお見通しだ。ワシの遺産で負債をどうにかしようなどと、ゆめゆめ思うな」
「……申し訳ありません、お父様。ご心配をおかけして」
匠は恭しく頭を下げ、従順な息子の仮面を被ったまま、静かに微笑んだ。
(この老いぼれが……!もうすぐ病気で死んでしまう分際で、どこまでも僕を見下しやがって。だが、それももうすぐ終わる。親父の莫大な遺産さえ手に入れば……)
匠の内心には、冷酷で支配的な父へのどす黒い憎悪と強烈な欲望が渦巻いていた。
京次郎の鋭い視線は、次に静かに控えている澪へと向けられた。
「澪。お前もだ。キャリア警察官などと言って優秀なふりをしているが、女の分際で一人前に生きられるなどと勘違いするな。死神が訪れるその瞬間まで、ワシをみくびるでないぞ」
「はい、お父様。言われた通りお父様の後ろ盾があっての私です。血圧が上がりますから、あまりお熱くならないでくださいね」
澪は硝子玉のように静かな瞳を伏せ、厳しい父にも尽くす優しい娘を完璧に演じながら、甲斐甲斐しく父の薬を準備した。
(どれだけ偉そうに私を支配しようと、あなたはもうすぐ死ぬ。私は決して、あなたの所有物にはならないし、誰の思い通りにもならないわ)
澪は幼い頃から、父の冷酷な本性を骨の髄まで味わってきた。そして同時に、隣に立つ兄・匠の強欲さや、嘘つきで他者を顧みない人間性の歪みも完全に見抜いていた。
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数十分後。部屋を辞し、薄暗い廊下を歩きながら、澪は足早に去っていく兄の背中を冷ややかな目で見つめていた。
(いずれ匠は、遺産を独り占めするために、私を家から追い出すような強引な手段に出てくるかもしれない)
それは、単なる推測ではなく、幼い頃から兄の冷酷さを見てきた澪の強い警戒心だった。
幼い頃から兄の冷酷さを見てきた澪は、自らの身を守るための知識・権力・人脈を得るためにキャリア警察官の道を歩んだのだった。
澪の警察官としての鋭い観察眼が、兄の不穏な動きを正確に捉えていた。父の死が近づく中、匠の強欲さがついに暴走し始めている。彼女は遺産相続を巡る激しい争いが起きることを予期し、法的な備えを急がなければならないと静かに決意した。
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一方、本邸を出て自身の高級車に乗り込んだ匠は、ハンドルを強く叩き、忌々しげに舌打ちをした。
「あのクソ親父……最後まで僕を認めずにくたばる気かよ」
匠はネクタイを乱暴に緩め、窓の外に広がる青海野の海を睨みつけた。
彼が経営するゆがわら開発株式会社は、メディアの露出で順風満帆に見えるが、実態は黒に近いグレーの金融屋からの資金に依存しており、キャッシュフローは常に綱渡り状態だった。
(親父が死ねば、莫大な遺産が転がり込んでくる。だが、澪と二等分になどされれば、僕の計画は狂ってしまう。遺産はすべて、この僕一人のものだ)
匠は、もうすぐ死んでしまう父の遺産を自分一人で独り占めしたくてたまらなかった。その脳裏に、涼しい顔をして父に従順なふりをする妹の顔が浮かぶ。
(澪……あいつが目障りだ。優秀なキャリア警察官としてチヤホヤされ、親父も心の底では僕よりあいつを評価している。あいつさえいなければ、僕は完全に自由になれるし、負債も清算できる)
匠の父は裏で冷酷な顔を持っていたが、匠もまたその影響を強く受け、裏社会の人間と繋がりを持つ悪徳弁護士やブローカーと密かに親交を持っていた。
(確実に、そして絶対に僕の手が下したとバレない方法で、澪を……葬る)
遺産を独り占めするために、匠は妹・澪の殺害を闇の組織へ依頼することを決意した。彼はすぐさま、ブローカーへと通信を繋いだ。
「澪の殺害を正式に依頼したい。……ああ、金に糸目はつけない」
車内に響く匠の声は、底知れぬ欲望に塗れていた。
(高額な手数料を払えば、奴らは絶対に依頼者の身元が漏れない匿名の窓口を仲介してくれる。報酬の支払いは、会社の経理上表に出せないペーパーカンパニーから行えば完璧だ。警察の澪にすら、絶対に手出しはできない)
車内に響く匠の低く歪んだ笑い声は、これから始まる血塗られた騙し合いの序幕を静かに告げていた。四月の穏やかな春の風は、この歪んだ兄妹の間に横たわる底知れぬ悪意を、決して拭い去ることはできなかった。




