第19話 ケの憂鬱
自分の気まぐれはロクなことを引き起こさない、というのが短い人生で得てきた彼女の経験則だ。
今朝もそう、久々に歌いたい気分になって朝から聖歌隊の練習所に顔を出したのが悪かった。
引きつった表情、申し訳なさそうに差し出してくる紙。
そんな顔をするならそんなものを出してくるな、だなんて、自分でも理不尽だと分かっている。
吐いたところでスッキリしない。腹痛の方がよほどマシだと常々思っている。
母親はいない。今も昔もいて欲しい時にはいつもいない。
仕方ない、忙しいのだから仕方ない。
だからこうして少し八つ当たりするくらいは許してほしい。
でないとどうにかなりそうだ。
どうなるかは分からないけれど。
途端に予定が空っぽになったので、彼女はぶらぶらと城内を歩いていた。
豊作謝肉祭の前日だけあって、ここからでも賑わい様が聞こえてくる。
行ってみれば何か暇つぶしになるものでもあるだろうかと、しばし足を止めて考える。
『モニカ様!よくぞいらっしゃいました!』
『うちの店の新作です。どうぞ持っていってください!』
『ところで、魔女様は一緒ではないのですか?』
『明日の聖歌隊のパフォーマンス、楽しみに───
がん、と爪先と耳に響く音が彼女を白昼夢から引き戻す。
自分で望んで見ても悪夢になるのだから、ある意味夢を見る天才だ。
そんな自嘲もびっくりするほど笑えなくて、また当て所なく歩き始めた。
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居住区画を降り、今日は賑やかな居城の出入り口に彼女はやって来た。
明日の本番に向けて、誰も彼もがせわしなく行き交っている。
「モニカ様、お出かけですか?」
「ん、そんなとこ」
「いってらっしゃい。前日祭、楽しんできてくださいね」
そんな旨の会話を、人とすれ違うたびに繰り返す。
もし自分の胸の中を開けて見せられるものなら見せてやりたい。
きっと浮かれた雰囲気に似つかわしくないどん曇りの大雨だ。
またそうしてふらふらと歩き回っていると、いやに通りのいい声が通路の奥から聞こえてくる。
無意識に眉をしかめるくらいには、彼女にとってはやや苦手な声。
だがそれでも、足は自然とそちらへ向かう。背けたところで行く当てもない。
「心優しい魔女様のことです、きっと気球に乗る機会も用意していることでしょう」
マルキア。
女性ながらラミアルス護教騎士団の団長を務める若手の俊英。
そして、なぜかよくモニカを構いたがるうっとおしい女。
その隣には、昨日の朝に鉢合わせた、箱入り娘丸出しの聖女がいた。
「っ……!」
今日の彼女の脚はよく勝手に動く。
二人が談笑している姿を見るだけでこうも早く踵を返すとは、彼女自身も思いもよらなかった。
前髪が乱れるまで走った。
息が切れるまで走った。
鼻を鈍い鉄の匂いがくすぐって。
脇腹が縮んでねじ切れるくらいまで走った。
「はぁ……はぁ……なん、っで……」
その言葉の先は色とりどりの毛玉のように縺れて行く。
悲しいのか、一人で誰にも相手にされないことが。
悔しいのか、素直になれずこうして彷徨っていることが。
腹立たしいのか、誰も自分のことを理解してくれないことが。
虚しいのか、こうしてただ、無為に息を切らしていることが。
ひとしきり体力を使いきって、感情の波も時間で鎮めて、ようやく彼女は落ち着くことができた。
落ち着いたところで心の中には何もなく、空っぽを空気で埋めるかのように深くため息を吐く。
そうしてもぎ取った大量の酸素の中に、微かに鼻につく匂いがあった。
「そういえば、この辺って……」
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ブルル、と唇を鳴らす音が響いたのは、先ほどマルキアらが出発したのとは逆方向にある厩。
客車用のあちらとは違い、どちらかと言えば騎馬隊用の馬が揃っており、どの馬を見ても毛艶、体格ともに申し分ない。
飼葉の匂いが立ち込める中をモニカが歩いていると、一匹の馬が彼女に向って首を伸ばした。
「ん……もう、アンタら本当にくっさいわね……ちゃんと毎日洗ってるわけ?」
馬が体を洗うのは、汗で皮膚炎を起こさないようにするためなどが理由である。
春から初夏にかけての時期は、シャワーは多くても月に一度あるかないか程度の頻度で実施されていた。
鼻面を撫でる彼女はそんなことを知る由もなく、無邪気に甘えてくる大きな頭と匂いに辟易している。
がしゃがしゃと強い毛皮にこれでもかと指を突き立てていたが、しばらくして我慢の限界が来たようだ。
「あーもう、やっぱ無理!ピピィ、お風呂から『石鹸』と『お湯』連れて来て!」
ピピィとは彼女が妖精を呼ぶときの渾名である。
魔女の居城にはそこかしこに妖精がいるため、適当に呼べば何かしらは反応する。
厩も当然のごとくして、飼葉の隙間、馬の鬣、掃除用具入れから馬糞の中からまでわらわらと光る球体が湧きだしてきた。
一団が列を成して厩を出て行って数分後、僅かに規模を増して帰ってきた集団から、モニカはスポンジを受け取る。
「ほら、さっさと出なさい……っ」
無断で柵を開け、大人しくしている馬を引っ張り出してその場に立たせるとそれはぶるりと首を振った。
悪戦苦闘しながら馬着を脱がし、適当に打ち捨てると、スポンジを片手に妖精に命じる。
「ほら、思いっきりやっちゃいなさい!」
合図に合わせて妖精が石鹸を馬の身体に噴射した。
鹿毛の色がみるみるうちに白で塗りつぶされ、床に爽やかなハーブの香りが広がっていく。
袖をまくったモニカは馬の脇腹に飛びつき、服が汚れるのも構わず毛皮をスポンジでこすり始めた。
本当は毛皮の奥の表皮を擦る必要があるため、ただ毛の表面を擦るだけの洗い方は効果が薄い。
とはいえそれなりに気持ちいいのか、馬は静かになされるがままである。
洗っている方も、腕の動きに合わせて鼻歌が混じり出す。
「~♪……ちょっと、届かない。しゃがんで」
背中をばしばしと叩くと、意図を察したのかどうかは分からないが、馬は膝を折って床に横たわった。
行儀よく言うことを聞く様子に鼻を膨らませた彼女は、泡だらけの背中に飛び乗って洗体を続ける。
時折滑り落ちそうになりながらも一通り洗い終えたモニカは、跨ったまま額に滲んだ汗を拭った。
「ふふん、これでちょっとはマシになったでしょ。じゃ、後は『お湯』係が……」
「きゃあーっ!!モニカ様!?」
悲鳴が厩に響き渡る。
様子を見に来た飼育員の視界に、魔女の息女が泡だらけになって馬に跨っている姿が映ればさもありなんと言ったところである。
「げっ、見つ───」
慌てて逃げようとしたモニカは、浮遊感に言葉を詰まらせる。
直後襲い掛かる重力に慌てて手元の何かを掴んだ。
が、次の瞬間、今度は横殴りの重力に全身を思い切り振り回される。
「───ぅぅううううあああああ!?」
突然の騒音は馬の精神には刺激が強すぎる。
リラックス状態から急に興奮状態に陥った馬は、一目散に厩を飛び出していた。
背中に泡と、泡まみれの少女を乗せたまま。
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「─────────っ~~~~!!!」
暴れ馬は少女を乗せたまま、浮かれる市内を滅茶苦茶に走り回った。
馬具が多少付いていたのは少女にとっては幸いだったのだろう。
おかげで指がひっかかり、ぬるぬると滑る毛皮を使わずとも振り落とされずにすんでいる。
あるいは、馬具に指がひっかかったせいでこうして市内を引き回されているのかもしれない。
屋台の商品に泡が散って台無しになる。
蹄が看板を蹴飛ばして粉々にする。
すさまじい勢いで晴れ舞台が台無しになり、過ぎ去っていく。
(また……っ)
必死で馬具を掴むモニカから涙がこぼれる。
どうして、こうなってしまうのだろうか。
こんなに咎められるようなことをしたのだろうか。
また、悲鳴が聞こえる。
ただ馬を洗ってあげようとしたことが、晴れの日を台無しにする罰に値するのだろうか───
「瞬け!」
疾駆する馬体に、頭上から何かが交錯する。
何が何やら分からず、少女はぎゅっと目を閉じた。
しかし自分が握っているのが、革ではなく布であることに気が付くと、そっと瞼を開いていく。
「御無事ですか、モニカ様」
「マルキア……?」
白いコートで少女の身体を包み、抱きかかえていたのは、先ほど見送った騎士団長マルキアだった。




