第7話 修羅場の始まりと黒猫ミーちゃん
いよいよゲンの胃痛の原因の一つとなるヒロインたちの修羅場が始まります。
朝靄が立ち込める王宮の庭園。爽やかな朝の空気を切り裂くように、シルヴィが俺の隣を並走していた。……いや、並走というよりは、俺の視界の端で圧倒的な存在感を主張し続けていたと言ったほうが正しい。
彼女の足取りに合わせて、薄手の鍛錬着の上からでもはっきりと分かるその豊満なバストが、大きく、ダイナミックに揺れていた。
うぐっ……!目を向けるな、前方だけを見ろ!なぜ朝一番からこんな視覚的暴力と戦わねばならんのだ……!!俺は必死に正面の並木道を見つめ、前世で培った「業務に集中する目」で一切の表情を殺し、ひたすら耐え忍んでいた。
ランニングを終え、道場の脇にある木陰で息を整える。シルヴィは「あー、暑い!」と豪快に声を上げると、躊躇なく上着を脱ぎ捨て、汗を拭うために胸元の襟をぐっと手で広げた。
「ふぅ……師匠!朝の風が気持ちいいですね!」
薄手の下着一枚になり、汗で生地が肌にぴったりと張り付いている。広がった襟元からは、健康的で引き締まった肌と、どこまでも深い「豊満な谷間」が完全に露わになっていた。
ぐはっ……!?目のやり場が……目のやり場がどこにもない……!!俺は慌ててシルヴィに背を向け、鍛錬着の下の汗を拭うふりをした。その手拭いを持つ指先が、偶然にも養父レナードの形見のペンダントに触れる。
財務省入省後、俺はたびたび地下倉庫を訪れ、レナードが遺したというものを探し求めてきたが、結局それらしきものを見つけることはできずじまいだった。
その一方で、俺は最近ある妙な違和感を覚えていた。古い建築図面と照らし合わせると、地下室の壁はどう考えてももっと厚いはずなのだ。だが、実際に測ってみるとどうにも寸法が合わない。どこかに隠し空間があるのでは?と考えたことも一度や二度ではなかった。
「師匠……どうしましたか?」
地面に腰を下ろして考え込んでいる俺に、シルヴィが声をかけてきた。俺がハッと顔をあげると、かがむように俺の顔を覗き込んでいるシルヴィの胸元がすぐ目の前にあり、図らずもその谷間をまともに覗き込む形になってしまった。
ぐはっ!マ、マズイ!
「だ、大丈夫だ!……そ、それよりシルヴィくん、風邪を引くといけないから、汗を拭いたらすぐに何か羽織りなさい」
「え?私は鍛え方が違いますから平気ですよ!さあ、稽古を始めましょう!」
シルヴィは脱ぎ捨てた上着の代わりに道着をサッと羽織ると、帯を締めるのもそこそこに俺へと向き直った。しかし、まだ襟元が乱れており、構えをとって身を乗り出すたびに、上から危険な谷間が見えそうになる。
「師匠、昨日の『相手の力を利用して崩す』手ほどき、もう一度お願いします!」
「あ、ああ……力を抜いて、相手の正中線を捉えるんだ。こうして手を……」
俺ができる限り視線を外し、彼女の手首を取って教えようとしたその時――シルヴィが俺の戸惑いに気づいた。ニヤリといたずらっぽい笑みを浮かべた彼女は、制止する間もなく、ぐいっと自分の豊満な胸を俺の腕と胸元に密着させてきた。
「ん?師匠、なんでそんなに離れるんですか?合気道は『相手と一体になる』のが極意だって言いましたよね?ほら、もっと密着しないと……っ」
「わっ、わわわっ!?密着しすぎだシルヴィくん!距離感が、距離感が近い!!というか当たっている!柔らかいものが完全に当たっている!!」
あぁぁぁ理性が!こんなところを誰かに見られたら間違いなくコンプライアンス案件になる!!必死に理性のブレーキをかけ、腰を引こうとする俺。まさにその時――。
「……早朝から何をなさっているのですか」
極低音の、冷気すら漂う凍りつくような声が響いた。
手に大量の書類バインダーを抱えたセリアが、般若も青ざめるような凄絶な笑顔で立ち尽くしていた。
――あ、助かった!
「セ、セリアくん!早いな!」
「ええ、早起きは三文の徳と言いますが……まさか朝から『雌の顔をした女騎士が自分の上司に抱きついている現場』を目撃するとは思いませんでした」
「なっ……!抱きついてなんてないぞ!武芸の手ほどきだ!」
「手ほどきで胸を押し付ける流派がどこにありますか!!離れなさいこの脳筋騎士!!ゲン主計官が困っているでしょう!!」
「いや、師匠の視線は私の体に釘付けだったぞ!」
シルヴィがそう言って誇らしげに胸を張って見せると、セリアは自分の胸元に視線を落とし……一瞬、その瞳からスッと光が失せる。
俺は悲痛な叫びを上げる。
「シルヴィくん、挑発しないで!セリアくん、誤解だ!そのようなことは決して……!」
俺の言葉に気を取り直したのか、セリアは手に持っていた書類バインダーを武器のように構え、俺とシルヴィの間に割って入った。
「ゲン主計官!このような破廉恥な暴挙、お怪我はありませんでしたか!?今すぐ温かいお茶をお淹れします!消毒のために!」
「ちぇっ……いいところだったのに邪魔が入ったか……。師匠、明日の朝も稽古よろしくお願いしますね!騎士団の訓練が終わったら執務室にお邪魔します」
「明日からは私も朝のランニングにも同行します!!ゲン主計官の周囲のガバナンスは私が守りますから!!」
激しい怒号を交わし合う2人を背に、俺は引きつった苦笑いを浮かべながら、そっと胸を撫で下ろした。ふぅ……セリアくんのおかげで私の理性は保たれたが、朝から心拍数が上がりすぎて心臓に悪い……。
こうして、仕事の弟子であるセリアと、自称・合気道の弟子となったシルヴィが、俺の執務室で顔を合わせては口喧嘩する日常が完成したのだった。
「ちょっと脳筋騎士!ゲン主計官の執務の邪魔をしないでください!」
「何だと絶壁文官!私はゲン師匠から武の真髄を学んでいるのだ!」
「誰が絶壁ですか!足し算引き算もできないくせに!」
「頭の固いもやしっ子が!」
2人から「脳筋!」「絶壁!」という罵り合いの挟み撃ちにされながら、俺は黙々と書類に目を通し、そろばんを弾く。
最初のうちは、どっちもコンプラ的にアウトだろ……頼むから自分のいないところでやってくれ……と頭を抱えて深いため息をついていた俺だが、いつの間にか慣れてしまっているのだから、人間の適応力というのは恐ろしい。
こうして、2人の口喧嘩は、いつしか俺の変わらない日常風景となっていったのだ。
◇
ある雨の日のこと。シルヴィが1匹の小さな黒い子猫をタオルに包んで執務室へ連れてきた。
聞けば、王国財務省の勝手口で、ずぶ濡れになって震えていたという。最初は警戒していた子猫だったが、俺がそっと手を差し出すと吸い寄せられるようにすり寄り、膝の上から離れようとしなくなった。
俺の脳裏に、前世の最後の瞬間――雨の中で必死に抱きしめたあの猫の瞳が鮮烈にオーバーラップした。……俺は飼ってあげることができなかったが、無事に生き延びてくれただろうか……?
「……この子は私が引き取る」
俺はそう即決して2人に告げた。
俺が子猫を連れて帰ると、ロベルトとマルタは最初驚いていたが、すぐに温かいミルクとタオルを持ってきてくれた。俺たちの懸命な介護の甲斐もあって、やがて子猫は元気を取り戻す。俺は子猫を「ミーちゃん」と名付け、俺は毎日抱っこして執務室へ連れてくるようになった。
前世で猛烈な仕事人間だった反動と、前世からのトラウマを癒やしてくれる存在として、俺はミーちゃんを溺愛することになる。
「ミーちゃん、今日もお利口さんでちゅね〜。おやつ食べまちゅか〜?」
普段は「規律とコンプライアンス」を厳格に説く俺が、ミーちゃんを抱っこしている時だけは目尻を下げまくり、赤ちゃん言葉でデレデレに甘やかす。
ハッと気づくと、執務室の入り口でセリアとシルヴィが目を点にしてこちらを見ていた。
「……ゴホン!……公務に戻る」
俺は咳払いをして取り繕う。
2人はドン引きするかと思いきや、俺の想像の斜め上を行く言葉が飛び出した。
「なっ……!ゲン主計官、私にもそんな甘い声でささやいてほしい……!」
「くっ……羨ましい!私も師匠に『お利口さんでちゅね』と撫で回されたい……!」
……いや、子猫相手ならともかく、君たちにそんなことをしているところを誰かに見られたら、完全にアウトだからね……?
いつしか、執務室でセリアとシルヴィが、どちらが俺のパートナーにふさわしいかでキーキーと喧嘩を始め、挟み撃ちになった俺はため息をついて膝の上のミーちゃんに「助けてくれ……!」と切実な視線を送った。
しかしミーちゃんは、俺の膝の上で「フイッ」とあくびをして優雅に毛繕いを始め、知らんぷりを決め込むのだった。
セリアとシルヴィ、どちらも個性的ですが、どっちが人気が出るんでしょうかね?




