第5話 氷の新人官吏
今回から、いよいよゲンの相棒となるヒロインたちが登場します。
セリアは、36歳で主計官に昇進した俺のもとに部下として配属されてきた。
知的なエメラルドグリーンの瞳を持ち、ショコラブラウンのロングボブを時折上品なクリップで後ろにまとめた彼女は、どことなく前世の部下に似た雰囲気を持っていた。
優秀な成績で登用試験に合格した彼女だったが、入省直後の彼女は冷たく杓子定規で、他人に強い警戒感を持ち、決して心を開こうとしなかった。
俺が気を遣い穏やかに話しかけても、彼女はぴしゃりと言い放つ。
「分からないことがあったら相談しなさい」
「――結構です」
「昼は食べたかね」
「――お気遣いなく」
「体調は」
「――問題ありません」
異世界にもZ世代は存在した……!俺は内心驚いたが、これもジェネレーションギャップというやつか……と冷静に受け止めることにした。上司からの価値観の押しつけは、パワハラになりかねないからな……。
――ある日の業務時間外、セリアの処理した帳票で確認したいことがあった俺は、彼女を探すが見当たらない。他の平民官吏に聞くと、貴族官吏の先輩たちに「歓迎会をやってやるから来い、これは命令だ」と言われて半ば強制的に連れていかれたという。
彼らは日頃から特に女性絡みの素行が悪く、平民出身で後ろ盾のないセリアは格好の標的になったのだろうという噂だった。
その話を聞いた瞬間、俺の脳裏には過去の苦い記憶が鮮烈に蘇った。前世で、自分の女性部下が社内のセクハラでメンタルを病み、退職に追い込まれてしまった、あの悲劇の記憶が頭をよぎったのだ。
相手が貴族官吏ということもあり、これまでは無用なトラブルを避けるためにあまり関わりを持たないようにしていたが、そうもいっていられない。あんな痛ましいことはもう二度とごめんだ。俺は葛藤を振り払い、歓迎会の場所を聞き出すと、迷うことなく財務省を飛び出した。
たどり着いた歓迎会場の入り口からそっと中の様子を覗くと、案の定、セリアが貴族子弟のリーダー、アーベルの隣に無理やり座らされていた。アーベルは酒に酔った様子で、彼女にこう囁いている。
「お前のような平民の庶子が、我が財務省に入省できたのは、俺のおかげだぞ。いいか、これからもここでやっていきたいのなら、俺たちの言うことを聞いておいた方が身のためだ。おっと、ゲン主計官に告げ口したら……わかっているな?」
「わかったら、その野暮な上着を脱いで、俺に酒をつげ!」
アーベルが、恐怖に震え身を縮こまらせているセリアの上着を無理やり脱がそうとした瞬間、俺の中で何かが切れ、考えるより早く会場へと踏み込んでいた。
突然の乱入に、アーベルをはじめ貴族子弟たちは顔面を青ざめさせて叫んだ。
「ゲ、ゲン主計官!?なぜここに……?」
俺は冷ややかな視線をアーベルたちに向けながら、平然とした声音で言い放った。
「……セリアくんに頼みたい仕事があって探していた。セリアくん、至急戻ってやってもらいたい仕事がある」
俺がそう告げると、酔った貴族子弟の1人が喚いた。
「無礼だろう!歓迎会の最中だぞ!」
俺は圧倒的な圧をもって貴族子弟たちにくぎを刺す。
「我が王国財務省の職員は公務の執行者であり、個人の酌婦ではない。……それとも、陛下から命じられた公務をないがしろにしてまで、夜会での酌を優先せよと仰せですか?」
俺が凛とした声で問いかけると、貴族子弟たちは圧され、誰も反論できずに沈黙した。俺は怯えるセリアの手を取ると、拒む隙も与えずその場から連れ出した。
店を出た途端、緊張の糸が切れたのか、セリアは「あ……」と小さな声を漏らしてその場に膝から崩れ落ちてしまった。足がすくんで立ち上がることすらできないらしい。
俺は自分の上着を脱いで彼女の華奢な肩に掛けると、背中を向けた。
「つかまりなさい。家まで送る」
「……ありがとうございます。……私……っ」
「何も言わなくていい。……気付くのが遅れてすまなかったね」
背中につかまる彼女から、押し殺したような小さいすすり泣きが聞こえた。
街灯の少ない夜道を歩くうち、揺られている安心感からか、セリアの規則正しい寝息が聞こえ始めた。……と同時に、背中にふにっと柔らかい感触が押し付けられる。
し、しまった……!健全な男子として、いや前世の倫理観としてこれはマズい……!
思わず動揺した俺は、意識を逸らすために心の中でひたすら般若心経を唱え始めた。
……かんじーざいぼーさつ、ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー……
だが、必死に雑念を払おうとする中で、ふと気づく。背中に感じる彼女の体が、驚くほど軽くて華奢だということに。こんな小さな身体で、どれほど肩肘を張って生きてきたのだろうか。
その時だった。耳元で、セリアの小さく掠れた寝言が漏れた。
「……お父さん……」
俺は思わず足を止めた。
庶子として生まれ、父親に認知されず母子家庭で苦労して育った彼女だ。父親の背中に負われた記憶など、最初から無かったはずだというのに。
「弱みを見せればつけ込まれる」という恐怖から「冷徹で隙のない女性」という仮面を被り、必死に自分を守ってきた彼女。だが今、俺の背中で父を呼ぶその姿は、あまりにも小さく、守られることを望んでいる幼子そのものだった。
前世では、傷ついていく部下を救えなかった……。だが、今度は絶対に違う。
せめて職場では、自分が彼女の親代わりになろう。いや――この不条理な組織から彼女を守り抜き、胸を張って一人前だといえるまでに育て上げるのが、上司としての俺の使命だ。
夜風の中、背中の温もりを確かめるように少しだけ背負い直し、俺は前を向いて静かに歩みを進めたのだった。
◇
――ある夜、セリアがフロアで1人、ズレのある山のような伝票を前に泣きかけていたのを見かけると、俺は静かに歩み寄った。
俺を見上げる彼女の目に、怒られるのではないかという不安を感じた俺は、マグカップを差し出し温かいお茶を飲むよう勧めると、優しく語りかけた。
「焦る必要はない。数字は正直だから、正しい手順を踏みさえすれば必ず君に味方してくれるよ」
俺はそう言って、そろばんの弾き方と仕訳の基本を丁寧かつロジカルに教え込んだ。
さらに後日、夜遅く書類のチェックをしていた俺は、セリアが彼女らしくない転記ミスをしているのを発見する。俺は彼女のミスをカバーするため、徹夜で修正書類を作成した。
翌日、自分のせいで迷惑をかけたと思い込み、青ざめて謝罪するセリアに対し、俺は頭をぽんと軽く撫でてこう告げた。
「気にするな。部下のミスをカバーするために我々管理職がいるんだ。君が普段どれだけ頑張っているか、私はちゃんと数字で見ているよ」
彼女が不意に涙ぐんだのを見て、俺はハッとした。「不必要な身体接触は原則としてセクハラとみなされる」という前世での鉄の掟が脳裏をかすめたのだ。
し、しまった!つ、ついやってしまった……!
激しく狼狽える俺の前で、セリアは小さな声でつぶやいた。
「……ありがとうございました……」
彼女はそれだけ言うと、顔を真っ赤に染めたまま足早に職務へと戻っていった。その様子を見て、俺は冷や汗を流しながら内心で頭を抱えた。
セクハラ案件になったらどうしよう……。
◇
――しかし、その日を境に、セリアは少しずつ心を開くようになった。
いや、開きすぎた気もする。
「お茶をお持ちしました」
「――ありがとう」
「それから昨日も残業されたそうですね」
「――少しだけだ」
「11時まで残っていたと聞きました」
「……少しではなかったかもしれない」
セリアはじっとこちらを見る。
怖い。監査より怖い。
「主計官」
「――何かな」
「ご自身の健康も管理してください」
そう言って弁当箱を差し出した。最近のセリアは何故かこうだ。
――お茶を淹れる。
――昼食を作る。
――残業を監視する。
――胃薬を補充する。
……俺が父親代わりどころか、彼女の方が俺のオカンみたいになってないか……?
◇
――なんて温かいんだろう……
セリアは、自分を貴族官吏から救い出すために駆け付けてくれた上司の背中に揺られながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
幼い頃から「平民のくせに」「父親の顔も知らない身分の低い女」と陰口を叩かれ、財務省に入ってからも、いつまた理不尽な理由で切り捨てられるかと恐怖に震える毎日だった。
誰も自分を助けてくれない。誰も個人の尊厳なんて見てくれない。そう諦めかけていた暗闇の中で、そのロマンスグレーの男性――ゲン主計官は、まるで絵本に出てくる「白馬の王子様」のように現れたのだ。
威圧的な貴族たちを、暴力ではなく正論と知性だけで言い負かし、怯える自分の肩にそっと温かい上着をかけ、大きくて頑丈な背中に背負って夜道を歩いてくれる。その背中は、セリアがかつて一度も感じたことのなかった「絶対的な安心感」と「父親のような温もり」に満ちていた。
(私を、道具としてではなく……1人の人間として守ってくれた……)
安心感から緊張の糸がプツリと切れたセリアは、ゲンの背中でそのまま穏やかな眠りに落ちていった。
それからというもの、セリアの瞳にはゲン以外の人間が映らなくなっていった。ある夜、山のような伝票のズレに絶望し、フロアの隅で1人泣きかけていた時、静かに足音が近づいてきた。顔を上げると、そこには疲れた様子を見せながらも優しくマグカップを差し出すゲンの姿があった。
「焦る必要はない」
そう言って、ゲンはセリアの冷えた手を取り、そろばんの正しい弾き方と、基本を一つひとつ手取り足取り教えてくれた。ゲンが自分の手に重ねてそろばんの玉の位置を正した時、その手のひらから伝わってきた確かな体温と、仕事に向き合う真剣で美しい横顔に、セリアの胸は激しくドクンと跳ねた。
(お父様のような安心感だと思っていたのに……。こんなに近くで、真剣な瞳で見つめられたら……胸が苦しくなる……?私、いったい何を考えてるの……っ!?)
さらに数日後、先輩貴族たちから嫌がらせのちょっかいを出され、動揺したセリアは痛恨の転記ミスを犯してしまった。自分のせいでゲンに途方もない迷惑をかけたと思い込み、青ざめて謝罪するセリアに対し、ゲンは徹夜の疲れすら微塵も見せず、「気にするな」と言って彼女の頭をぽんと軽く撫でたのだ。
「部下のミスをカバーするために我々管理職がいるんだ。君が普段どれだけ頑張っているか、私はちゃんと数字で見ているよ」
その言葉を聞いた瞬間、セリアの胸の中で張り詰めていた感情のダムが決壊した。
「数字で見ている」――それは周囲から能力を値踏みされ続けてきた彼女にとって、何よりも尊い肯定だった。「守られるだけの子供」から、「1人の女性として見られたい、隣に立ちたい」という恋心へと、感情が完全に塗り替わった瞬間だった。
(この人は、私個人の努力を見ていてくれた。……もっとこの人の隣にいたい。この人の一番近くで、私がこの人を支えて、いつかこの人をお守りしたい……!)
そして、ふと冷静になって頭に浮かんだ疑問に、セリアは顔を真っ赤にして悶絶することになる。
(えっ……!?ゲン主計官って、まだ30代なの!?もっと年上の渋いおじ様だと思っていたけど……。待って、だとしたら年の差は……バ、バカ、私ったら何を考えてるのよぅ……っ!?)
それ以降、セリアはいそいそとかいがいしくゲンの世話を焼き始めるのだった。




