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第4話 改善の成果とロマンスグレーの日常

 俺はハーゼン主計官に礼を述べると、主計官室を退出した。

 実際のところ、日々の入出金を追うだけの単なる「予算管理」であれば、従来の現金の流れだけを追う記帳でも十分に機能する。現に、俺がいた前世の日本の公会計だって、長らく現金主義の単純な記帳が主流だったのだから。

 だが、この方法には致命的な欠点がある。それは「資産」と「負債」の全体像が見えず、財政の本当の姿を覆い隠してしまうことだ。収支の帳尻を合わせるだけでは、この国のボロボロに傾いた財政を根本から立て直すことなど不可能だ。

 そのため、財政再建を成し遂げるには、どうしても複式簿記の導入が不可欠だった。

 幸いこの国では、予算制度を導入した際に国家と王室の財布が完全に分離されていた。そのおかげで、過去の資産を総ざらえするような完璧主義を捨てて運用可能なスピード感を優先すれば、複式簿記を十分に導入可能だった。

 ――これは国家財政を立て直すための第一段階だ。数字の力で、この国の腐った財政を叩き直してやる。廊下を歩きながら俺はそんな決意を固めていた。

 ◇

 主計官室を出た俺は、さっそく副主計官と筆頭主事へハーゼン主計官の許可を取り付けた旨を報告する。

 すると、彼らは手のひらを返したように「私も常々この方法しかないと思っていた」「やはり主計官も我々の着眼点を評価されたか」などと、白々しく口々に言い出した。

 あきれつつも、現場へ複式簿記とそろばんを導入する具体的な手順やスケジュールについて意見を求めると、途端に彼らは口を濁した。

「それは……まあ、発案者であるお前に任せる。我々の顔をつぶさないよう、お前の責任でしっかり全うせよ」

 要するに、手柄の形だけは自分たちのものにしつつ、実務の面倒と失敗した際のリスクはすべて俺に背負わせようという腹づもりだ。だが、俺にとってみれば実質的な「白紙委任」を得たようなものだった。現場の改革を自分の裁量で自由に進められるのだから、これで良しとすべきだろう。

 ◇

 俺はまず、現場で実務を担う平民の下級官吏たちを中心に指導を開始した。

 最初に徹底してレクチャーしたのは、そろばんの基本的な使い方だ。まずは足し算と引き算から叩き込む。掛け算と割り算には九九の習得が不可欠だったため、記憶が怪しい者には九九の一覧表を紙に書いて配り、反復練習させた。

 同時に、複式簿記の運用に不可欠な勘定科目の体系化や、流動・固定(長期・短期)の区分概念の整理を進めていく。

 最初は新しい計算道具と概念に戸惑う者もいた。だが、過酷な選抜を勝ち抜いてきた平民官吏たちはもともと極めて優秀だった。彼らは驚くべき速度でそろばんと複式簿記をマスターし、これまで残業の山だった王国財務省の業務生産性は、劇的と言えるレベルで跳ね上がっていった。

 一方で、面白くないのは貴族やその子弟の貴族官吏たちだ。

 これまで、財務省に数台しかない高価な機械式計算機は、貴族官吏たちが独占して使用していたため、平民官吏たちは、桁の大きな複雑な計算が必要になるたび、彼らに頭を下げて処理を頼むしかなかった。

 しかし、平民官吏たちがそろばんの熟練度を上げるにつれ、状況は一変した。

 ガチャガチャと重い歯車を回して数値を合わせる機械式計算機よりも、指先一つで弾くそろばんの方が、桁の大きな足し算や引き算、掛け算に至るまで桁違いに高速かつ正確だったからだ。おまけに安いので1人1台ずつ使用できる。貴族官吏に頼む必要どころか、機械式計算機に勝る処理速度を叩き出したことで、彼らの誇る優位性はあっけなく崩壊した。

 貴族官吏たちの反応は最初、俺を「蔑視する者」と、「駒として取り込もうとする者」の2通りに分かれた。前者からは露骨な嫌がらせや侮蔑を受け、後者からは露骨なご機嫌取りや懐柔の打診をされた。

 ……まあ、前世のサラリーマン生活でも見慣れた光景だ。自分の地位やプライドを脅かしそうな優秀な部下が現れると、冷遇して子会社に追いやるか、徹底的に叩きのめして服従させようとする上司はどこにでもいた。

 しかし、俺を取り込もうとした貴族官吏たちも、俺が頑なに数字の規律を守り、意のままに操れない扱いづらい存在だと分かると、早々に諦めて離れていった。

 ……甘い顔などできるはずもない。前世で「コンプライアンスの鬼」の異名をとった俺から言わせれば、規律やガバナンスというものは例外なく厳格に運用されてこそ意味を成すのだ。一度でも便宜を図り、数字の不正や妥協を許せば、組織の統制は底なしに腐敗していく。どれだけ権力者に疎まれようが、数字とルールの絶対性だけは譲るわけにはいかない。

 しかしその結果、俺は「蔑視派」と「懐柔失敗派」の両方の貴族官吏から疎まれることとなった。

「そんなに仕事ができるのなら、これも終わらせられるだろう」

 と嫌がらせ交じりに、山のような過去の不透明な帳簿の精査を丸投げされる羽目になったのだ。

 何事も目立ちすぎるのは良くない。特に、後ろ盾のない平民官吏であればなおさらだ。

 前世での経験に増して、「人間というものは安易に信用してはならない」という不信の念を冷たく胸に刻み込みながら、俺は押し付けられた帳簿の山へと1人静かに向かい合ったのだった。

 ◇

 そんな俺も、自宅の借家に戻れば、養父の代から仕え、自分を育て上げてくれたロベルトとマルタには頭が上がらない。2人は今でも俺を「ゲン坊ちゃま」と呼び、「早くお嫁さんを貰って可愛いお子様の顔を見せてください。でないと私たちは安心してあの世へ逝けませんよ」などと毎日のように結婚を迫ってくる。

 俺はその気遣いに感謝しつつも前世のトラウマから、どうしても結婚には前向きになれずにいた。

 前世のバツイチ経験を知る由もない周囲からは「若い頃から浮いた話が一切ない、仕事好きの独身者」と見られている。しかも、入省以来の激務が祟ったのか、若白髪どころか30代で立派なロマンスグレーだ。

「落ち着いている」

「貫禄がある」

「歴戦の文官」

 周りからは事あるごとにそう言われる。

 ……言いたいことはわかる。要するに「老け込んでいる」のだろう。

 前世と合わせればそろそろ100年近い人生なのだから、実年齢より上に見られるのは当然かもしれないが、それでも少し複雑な気分になるのは仕方ないと思う……。

初回の掲載はここまでです。

次は明日の18:10頃に掲載します。

いよいよヒロインたちが登場しますのでお楽しみに!

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