第3話 複式簿記革命
俺は主計官室の前に立ち、呼吸を整えてから執務室のドアを静かに叩いた。
「ハーゼン主計官、お忙しいところ恐れ入ります。司計課のゲンでございます」
「——入れ」
ドアを開けると、革張りの椅子にふんぞり返っている脂ぎった小太りの男、主計官のハーゼン男爵がこちらをぎろりと睨んだ。
「ありがとうございます。主計官におかれましては、日頃よりの私共へのご指導、深く感謝いたしております」
俺は品位を崩さぬ物腰で一礼し、穏やかな笑みを浮かべて切り出した。それだけで、露骨に面倒臭そうな顔をしていたハーゼン主計官も、わずかに警戒を解く。貴族社会の作法に則った挨拶は、無駄な摩擦を避けるための最良の潤滑油だ。
「何の用だ?どうせまた、どこかの帳簿でも合わないという愚痴か?」
「いいえ。愚痴やお困りごとのご報告ではございません。我が財務課が抱える現状の『課題』について、計測された客観的データと、前向きな解決策をご提案にあがりました」
「ほう……?」
ハーゼン主計官が興味深そうに眉を上げる。俺は不満や感情を一切挟まず、収集しておいた数字を淡々と提示した。
「左様でございます。直近の記録を集計いたしましたところ、我が課における平均残業時間は月間120時間に達しております。そして問題はその内訳にございます。総業務時間のうち、実に約4割にあたる時間――月間にして約50時間以上――が『数字がズレた際の原因追究』や『伝票の重複・不正調査』という後処理に費やされていることが判明いたしました」
「50時間だと……?単なる手違いの確認にそれほどかかっているというのか?」
「はい。これまでのやり方では『どこでいくらズレたのか』を特定する仕組みがないため、数金の差異を探すためだけに過去数ヶ月分の伝票を一枚ずつ手作業で照合せざるを得ないのです。しかし、この無駄な調査時間をゼロに近づける手法がございます。……実は先日、私たちが所属する第3班の伝票処理において、新手法の『試行実験』を密かにおこないました」
「なんだと?実験だと?」
ハーゼン主計官の目が小さく見開かれる。俺はすかさず、その成果を数値で突きつけた。
「はい。結果として、原因特定にかかる調査時間は従来の『月50時間』から『わずか3時間』へと94%削減され、班全体の残業時間も半減いたしました。この新手法――『そろばん』による高速計算と『複式簿記』による管理を課全体に展開すれば、人員や予算を一切増やさずとも業務効率は激変いたします」
説得の要所を押さえつつ、俺は相手の関心を「現場の苦労」から「ハーゼン主計官自身の利益」へと巧みにすり替えていく。
「そして何より重要なのは、この圧倒的な業務改善と財務統制の成果が、すべてハーゼン主計官のご実績となる点にございます。『部下の管理と財務統制を完璧に掌握し、無駄な調査コストを劇的に削ぎ落とした有能な管理者』として、大臣をはじめとする上層部における主計官のご評価は、文字通り比類なきものとなるでしょう」
「ほう……」
ハーゼン主計官の色が変わった。貴族が最も好む「名誉」と「覚えの良さ」という甘い蜜を、確定した数字の裏付けとともに提示する。
「左様でございます。財務報告書の数字の不一致や使途不明金、あるいは膨らみがちな債務の状況を、ハーゼン主計官の下で早期かつ正確に把握・管理できたならば――財務省におけるハーゼン主計官のお立場は盤石のものとなるでしょう。日々の雑務を効率化するのは、あくまでそのための下準備に過ぎません」
「ふむ……」
ハーゼン主計官はあからさまに鼻息を荒くし、顎に手を当てて満足げに微笑んだ。この男が好む体面と功名心を、見事に刺激できたらしい。
思考を巡らせながら、俺はさらに実務的な提案へと舵を切った。
「ですが、現在の記帳方法のままでは、どれほど優秀なご慧眼をお持ちであっても限界がございます」
俺はいかにも残念そうに眉をひそめながら、手元の分厚い帳簿を、音を立てぬよう上品に指先で示した。
「『何にいくら使ったか』という片側だけの記録しか残らないため、金庫の残高と帳簿の数字がズレた際、どこで計算が狂ったのか、あるいは誰かが不正を働いたのかを追跡する術がないのです。それどころか、我が国が現在いくらの借金を抱えているのか、その正確な総額すら――残念ながら、現在のやり方では把握しきれておりません」
ハーゼン主計官は先ほどの機嫌の良さから一転、プライドを傷つけられたように不機嫌そうに手を振った。
「借金の総額だと?くだらん、そんなもの気にしてどうする。たとえ商人どもからの借金がどれだけ膨らもうと、返せなくなれば踏み倒し、理由をつけて帳消しにすれば済む話だろう。国王陛下の御威光の前に、商人など平伏して従えばよいのだ」
権力と武力を笠に着る、いかにも視野の狭い貴族特有の暴論だ。内心で呆れつつも、俺は表向きはあくまで穏やかに、静かに首を振って見せた。
「——ごもっともな御意見ではございますが、ハーゼン主計官。如何なる陛下の御威光といえど、この世の理を無視しては成り立ちません」
俺はあえて語気を弱め、深く静かなお辞儀を挟んでから言葉を続けた。
「商人というものは、自らの身と財産が守られ、安心して商売ができる場所にこそ店を構えます。そして商人が集まれば、自ずと人が集まり、金が回り出します。金が集まるところにはさらに人が集まって街は急速に発展し、流れる富の量に比例して国庫に入る税もまた格段に潤っていくのです。かつて異国の地では、新しく造った城下町を発展させるため、領主が町ごと商人を丸ごと引っ越しさせた事例すらあったと聞き及びます」
前世で徳川家康が尾張国・清洲の城下町を丸ごと名古屋へ移転させた「清州越」を引き合いに、ハーゼン主計官の表情を盗み見ながら、俺は優しく、しかし確信を込めて語りかける。
「逆に、この国では安心して商売ができないと商人が感じれば、いくら歴史ある大都市であっても、民は次々と去っていき、やがて衰退してしまうでしょう。国王陛下の御威光の下で手厚く守られ、安心して商売に励む商人を減らすようなことがあっては、逆に国王陛下の御威光を傷つけてしまうことにもなりかねません。彼らを惹きつけ、数を増やしていくことこそが、結果としてハーゼン様の執り行う財政を最も豊かにする道ではないかと、愚考する次第にございます」
「ぬ、ぬう……」
ハーゼン主計官は不満そうに眉をひそめ、ぐぬぬと口を結んだ。権力でねじ伏せようとすれば商人は逃げ、国が衰退する。俺の持ち出した前世の歴史と論理的な経済の仕組みは、権威至上主義のこの男にも一理あると思わせるだけの説得力があったようだ。だが、だからといって商人に歩み寄るような姿勢を見せるのは、彼自身の貴族としてのプライドが許さないのだろう。
葛藤と悔しさが入り混じったその表情を冷静に見定めつつ、俺はすかさず包み込むような笑みを浮かべた。
「もちろん、商人どもに好き勝手を許せとお伝えしたいわけではございません。だからこそ、主導権を完全にこちらが握るための『仕組み』が必要となるのでございます」
「主導権を握る……仕組みだと?」
——よし、喰いついた!
「左様でございます。感情や権力で抑えつけるのではなく、圧倒的な『数字の管理』によって彼らを掌握するのです。その核心となるのが、先ほどの問題を解決する新しい記帳方法、『複式簿記』にございます」
俺は手元の紙と羽ペンを取ると、ハーゼン主計官の視線を惹きつけるように、滑らかな手つきでシンプルな表を描き始めた。
「言葉でお伝えするよりも、具体的な事例をご覧いただいた方が早いでしょう。たとえば……そうですね、王宮で『馬車』を1台調達したといたします」
俺は描いた表の各部分を指で示しながら説明を重ねる。
「現金でお支払いの場合は、左下に『馬車』という資産が増える代わりに、左上の『現金』が同じ額だけ減ります。一方、ツケ……すなわち債務としてお迎えした場合は、左下に『馬車』が増えると同時に、右上の『債務』が同じ額だけ増えるのです。このように、すべての取引を二面から捉えることで、表の右と左の合計数値は必ず美しく一致します」
「右と左が……必ず一致する……?」
「左様でございます。さらにこの複式簿記は、1年の収支という『流れ』と、累積された財産や借金という『蓄積』を見事に結びつけます。1年の収支が赤字であれば、その分だけ右上の『債務』が増加していることが一目瞭然となり、黒字であれば左上の『現金』と右下の『利益』が美しく膨らむことになります」
「これが『複式簿記』です。これまでの方法が『財布の残高』しか見ないのに対し、複式簿記では日常の取引から、『金が出た・入った』だけでなく、『なぜ動いたのか、それによって手元の財産や借金がどう変わったのか』を左右に同時に書き込みます。これにより『王国の財産と借金の全体像』を常に一目で浮き彫りにできます」
「……ふむ…」
複雑な理屈に目を白黒させるハーゼン主計官に、俺は切り札とばかりに、低く洗練された声音で声を潜めてささやいた。
「そして……この複式簿記を導入すれば、我が国の財政に巣食う不透明な闇は、もはや一切の逃げ場を失います。右と左の数字が寸分の狂いもなく一致する構造上、公金を私的に流用している者や、裏で隠し口座を設けている者がいれば――例外なく、その全貌が明らかになることでしょう」
「なっ……!全貌だと……!?」
ハーゼン主計官は息を呑み、血の気が引いた顔で俺が示した試算表を見つめた。宮廷の枢要を占める重鎮から大臣の側近に至るまで、身内の不正が一網打尽にされる大粛清の未来図を脳裏に描き、恐怖に震えている。
だが――俺はその微小な変化を逃さなかった。
恐怖に引きつっていたはずのハーゼン主計官の瞳が、欲望という名の怪しい光を帯びていくのを。冷や汗を拭いながら、その脳裏で猛烈な計算が始まり、圧倒的な「旨味」に気づいた瞬間の顔を。
表に出る前の「全員の不正リスト」という、またとない最強の脅迫材料。それを誰よりも早く握りしめたとき、どれほどの莫大な利権と権力が自分の掌に転がり込んでくるか。この強欲な男は、そこに思い至ったのだ。
ハーゼン主計官は胸中の下卑た企みを完璧なまでの上流階級の仮面で押し隠すと、ふん、と鼻を鳴らして鷹揚に頷いてみせた。
「わかった……日々の記帳については、その……複式簿記とやらで行うことを認める。ただし、大臣に報告する公式な書類は、これまで通りの方法で記帳するように。それから、お前が責任を持って、他の職員に新しい記帳方法を指導しろ。その、『そろばん』とやらもだ」
——目的を達成することができて、俺は内心で安堵のため息をついた。




