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第1話 孤児と財務次官

 ――俺は、物心ついた時には孤児院にいた。親の顔は覚えていない。

 読み書きや計算が得意だった俺は、10歳の時、財務省の次官だったレナード・アルティザ男爵に引き取られて養子となった。

 レナードは独身で身寄りもなかったため、素質を見出した俺を知識の後継者として、そしてゆくゆくはこの国の財政を担う人材としてじっくり育てようと考えていたらしい。血の繋がらない俺を戸籍上の息子ではなく、一人の人間として真っ直ぐに向き合ってくれた養父のことを、俺はいつしか「親父」と呼び、慕うようになっていた。

 親父はもともと平民だったが、国家財政を立て直した功績により、国王から一代貴族の男爵に叙爵されたのだという。もっとも領地はなく、文官の給金以外に収入がなかったため、生活はどこまでも質素だった。しかも、一代限りの爵位は世襲できない。俺が本当の意味で親父の後継者となり、その背中を継ぐためには、自力で財務省の登用試験に合格するしかなかった。

 ――やはり世の中にそんなにうまい話はないということだ。

 親父は毎晩、仕事から帰って夕食を終えると、俺に会計と財政の知識を徹底的に叩き込んだ。俺もその期待に応えようと必死についていった。

 しかし、平穏な日々は長くは続かなかった。引き取られてから3年後、俺が13歳の時、親父が何者かに殺されてしまったのだ。時を同じくして、屋敷が不審な火事で全焼してしまう。

 再び孤児となった俺は学業をあきらめ、どこかの商会に住み込みで働くことを決意する。そんな俺を押し止めたのが、家宰のロベルトとその妻マルタだった。

 彼らは親父の遺志を継ぎ、外で働きながら親代わりとなって俺のことを育て上げてくれた。俺自身も、昼間は商会や公証人の下働きで汗を流し、夜間や休日は市井の実科学校に通って、実用的な算術や法律、商取引の基礎を必死に学んだ。

 苦労の末にその学校を首席で卒業した俺は、16歳で狭き門だった王国財務省の登用試験に合格する。ロベルトとマルタは泣いて喜んでくれた。溢れるその涙を見た時、俺は思い知らされた。血のつながりなどなくとも、彼らや親父はいつの間にか、俺にとってかけがえのない唯一の家族になっていたのだと。

 俺が財務省を志したのは、自分のスキルを活かせるからだけではない。レナードの遺志を継ぎ、この国を蝕む不正の根源を断つこと、そして何より――親父の死の真相を自分の手で暴いてみせるという強い目的があったからだ。

 実は、親父が亡くなる少し前、俺はペンダントに加工された小さな鍵を受け取っていた。親父は俺の頭を優しくなでながら、こう言い残したのだ。

「――いつの日か財務省の地下で、お前は私の遺したものを見つけるだろう」

 その言葉の意味を、子供だった俺は完全に理解することはできなかった。しかし、親父の手の温もりとともに、胸に刻まれたその声だけは今でもはっきり覚えている。

 ◇

 王国財務省の官吏としての道を歩み出した俺が配属されたのは、主計局司計課だった。ここは各省庁や出納局などから上がってくる歳入・歳出のデータを最終集計し、国王や御前会議に提出する「国家財務報告書」を作成・分析する、財務省の中でも中枢を担う花形部署のはずだった。

 しかし、その実態はエリートとは名ばかりで、正確な報告や業務改善などには一切関心がない貴族官吏たちが幅を利かせ、俺たち平民出身の下級官吏ばかりに仕事が押し付けられる、まさに不条理かつ死屍累々の地獄だった。

 この国における会計システムの根本的な欠陥――それは「国家財務報告書」という歳入歳出の記録と、王宮地下金庫や倉庫の「財産目録や借入金残高」とのあいだに、因果関係のパイプが全く存在しないことだった。

 貴族たちの中には、自分たちの遊興費や私的な買収のために国庫から勝手に金を抜き取り、報告書の上では適当な名目でごまかす者もいると聞く。その結果、「財務報告書の数字上は予算内で収まっているのに、実際に地下金庫を調べてみると、なぜか金貨が足りなくなっている」という異常な乖離が日常茶飯事となっていた。

 そして、その因果関係の分からない数字の「穴」のツケをすべて背負わされたのが、俺たち平民出身の下級官吏だった。貴族官吏たちは自らの横領を棚に上げて激怒する。

「報告書の額と実際の金貨の枚数が合わないのは、貴様ら下級官吏の計算漏れだ!朝までに辻褄を合わせろ!」

 帳簿には「お金が出た・入った」しか記録されないため、理由もなく金庫から金貨が消えても、どの取引が原因で目減りしたのかを追いかける追跡線が存在しない。正解が存在しない不条理なパズルを無理やり解かされ、不条理な冤罪と徹夜作業にすり潰されていく同僚たちの悲鳴。

 俺が若手時代に過酷な残業と過労で身体を壊しかけ、すり減る思いで連夜過去の伝票をめくり続けた根本的原因こそ、この「財務の分断」という構造的な問題にあったのだ。

 入省から2年が経った18歳のある夜。連日の過酷な徹夜作業で疲労が限界に達した俺は、鉛のように重い足で帰宅すると、着替える力すらなくベッドに倒れ込み、そのまま意識を手放すように眠りについた。

 ◇

 ――気が付くと、俺は机に向かって仕事をしていた。しかし、どうも様子がいつもと異なる。周りの人たちは皆、無言で机の上に設置された不思議な道具のボタンをカタカタと叩き仕事に集中している。しかし、彼らの顔や服装さらにこの場所すらも、俺には全く記憶がなかった。俺の手元にある資料すら、見慣れぬ文字が並んでおり、まったく意味がつかめない。

 これは……夢なのか……?

 ——その時、不意に呼ばれた気がして顔を上げると、髪を後ろでまとめた若い女性と目が合った。

「部長、お忙しいところ恐れ入ります。――来月のご出張の航空券を予約したいのですが、部長のお名前のフリガナを確認させていただけますか?」

「――ああ、私の名前は『タカハシ・ゲンイチロウ』だよ……」

 その瞬間、俺は脳内に雷光が走ったかのような衝撃を受けた。

 タカハシ・ゲンイチロウ?それが……俺の名前……?

 その瞬間、目の前の光景が暗転したかと思うと、足元が砂の崩れるように崩れて俺を飲み込んだ。俺は自分の体が砂粒のようにバラバラになるような感覚に襲われ、そのまま意識が薄れていった。

 ◇

 ――目を覚ますと、俺は昨夜帰ってきたときの格好のままベッドで寝ていた。

 あれは夢だったのか……?……いや、違う。ぼんやりしていた意識がはっきりしてくるにつれて、さまざまなことが明確に思い出せるようになってくる。

 俺にはゲンとしての記憶はそのままに、前世の記憶が蘇っていたのだ。

 そうだ、俺の名は高橋厳一郎。日本の上場企業で経理部長を勤め上げ、社内では「コンプライアンスの鬼」と呼ばれ、一目置かれたサラリーマンだった。

 しかし、プライベートは決して順調とはいえず、仕事優先だった俺に愛想をつかした妻は浮気。幼い娘を連れて家を出て行ってしまう。妻に手を引かれて家を出ていく幼い娘が、別れ際に見せた泣き顔が、脳裏にこびりついて離れなかった。

「もしあの時、引き止めておけば……」

 という自責の念に駆られ続け、それが何十年も俺の心を蝕み続けていた。

 この経験から、俺の胸には重度の人間不信と「幸せな家庭を築けなかった」という拭い難い罪悪感のトラウマが刻まれていたのだ。

 定年退職を迎えた日の夜。冷たい雨が降る中を家路についた俺は、明日から何をして過ごそうか……などとぼんやり考えながら歩いていた。

 その時、道路脇の暗がりで、1匹の黒い子猫が雨に打たれながら身を縮めてうずくまっているのを目にする。その震える小さな姿に、かつて別れた幼い娘の涙が鮮烈にオーバーラップした瞬間、俺は迷わず鞄と傘を放り出し、濡れた子猫を両手でしっかりと抱き抱えた。直後、視界を真っ白に染め上げたのは、大型SUVの強烈なヘッドライトだった。

 ——子猫を胸に抱きかかえたまま、俺は意識を絶たれた。「数字は裏切らないが、人間は裏切る」という残酷な教訓を胸に刻みつつも、最後に小さな命を救ったことが、巡り巡ってこの異世界への転生へと繋がっていたのかもしれない。

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