プロローグ
今日から掲載していきます。
よろしくお願いします。
「なぜ数字が合わないんだ!」
怒鳴り声が執務室に響き渡る。
ここは王国財務省司計課。日付が変わろうとする月末の深夜、恒例の過酷な帳簿照合と地下金庫の残高確認作業――いわゆる「徹夜の辻褄合わせ」の地獄であった。
俺――ゲン・アルティザは小さなため息をつく。
また始まった……。
入省して2年、この光景だけはどうしても見慣れてしまう。
若い貴族官吏であるアーベル・ランツ男爵子息は、机を叩きながら部下たちを険しい目でにらみつけていた。
その前には、平民出身の下級官吏たちが控えている。
皆一様に顔色が悪いのは、昨夜から帰れておらず一睡もしていないためだった。
「地下金庫の残高が合わん!」
アーベルが試算表を激しく振り回す。
「たった20枚の誤差だぞ!それすら合わせられんのか!」
平民官吏たちが申し訳なさそうに頭を下げる。
「申し訳ございません……現在確認中で……」
「言い訳はいらん!」
アーベルは鼻で笑った。
「だから平民は駄目なのだ」
執務室が異様なまでに静まり返る。
「計算もできない!まともな教育も受けていない!お前たちを使うといつもこうだ!」
俺の隣で、年配の官吏が悔しそうに唇を噛み締めていた。
だが、その原因は決して平民ではない。ここにいる誰もがそれを知っている。
3ヶ月連続で同じ問題が起きているのだ。それなのに一向に改善されない。
だが、誰も声を大にして言うことはできない。相手が絶対的な権力を持つ貴族だからだ。
「明日の朝までに合わせろ」
アーベルが冷たく言い放つ。
「帰宅は禁止だ」
一同に絶望の空気が走る。俺は手元の帳簿へと目を落とした。
……やはりおかしい。数字そのものは合っている。伝票の内容も間違っていない。なのに、結果だけが食い違っている。
俺はゆっくりと立ち上がった。
「申し上げます」
全員が驚いたように振り向く。
アーベルが不機嫌そうに眉をひそめた。
「何だ、平民」
平民、か。……どうやら俺には名前すら無いらしい。俺はあくまで冷静に答えた。
「計算結果が間違っています」
執務室が再び水を打ったように静まり返った。
「何だと?」
「残高は3,400枚ではありません」
アーベルが鼻でせせら笑う。
「計算機では3,400枚だ」
それは主計課の奥に鎮座している機械式計算機のことだった。
王都最高の職人が歯車とレバーを組み合わせて製作した、途方もなく高価な機械である。平民官吏は触ることすら許されない、アーベルお気に入りの代物だった。
「つまり」
アーベルが見下すような視線を向けて言う。
「お前は計算機より賢いと?」
周囲の貴族官吏たちから失笑が漏れる。俺は静かに首を振った。
「いいえ」
アーベルが勝ち誇ったように笑う。俺は続けて言葉を紡いだ。
「計算機は正確です……ですが、それは不具合がなければの話です」
周囲の笑い声がピタリと止まる。アーベルの顔がわずかに引きつった。
「なら証明してみろ」
「いいでしょう」
俺は机の引き出しから、あるものを取り出した。
「何だそれは?」
「そろばんです」
「おもちゃか?」
「計算道具です」
再び執務室に失笑が起きる。だが、構わない。俺は目の上に伝票を並べた。
指を滑らせる。パチッ。パチパチッ。乾いた音が執務室に響く。
数秒後、俺は告げた。
「事前に確認済みですが、残高は3,420枚です」
アーベルが声を上げて大笑いした。
「ははは!そんなおもちゃで計算機と勝負するつもりか!平民らしい滑稽な発想だ!」
取り巻きの貴族官吏たちも同調して笑う。
だが、俺は動じず、淡々と帳簿のページをめくった。
「……ですが、興味深いことが分かります」
「何だ、まだ言い訳をする気か?」
アーベルが眉をひそめる。俺は次々と帳簿を示しながら指摘した。
「今月は金庫の残高が3,420枚なのに対し、計算機の結果は3,400枚。先月は2,185枚に対して2,105枚。その前の月は1,762枚に対して1,702枚……」
年配の官吏が思わず首を傾げた。
「待て、数字のズレ方がバラバラではないか?」
「いいえ」
俺は課の奥に鎮座する計算機を指差した。
「誤差は一見して不規則に見えますが、すべて『同じ桁』に異常が発生しています。本来なら繰り上がるはずの数が、そのまま抜け落ちています」
「つまり……?」
「特定の歯車が、正しく回転していないのです」
執務室の空気が張り詰める。技官の顔色がみるみる変わっていった。
「まさか……」
俺は静かに頷く。
「10桁目です」
沈黙。技官が慌てて計算機へ駆け寄り、分解を始めた。
数分後、技官の顔は完全に青ざめていた。
「そんな……本当に、10桁目の歯車が欠けています」
完全な静寂が訪れた。執務室中のすべての視線が、一斉にアーベルへと集中する。
彼は完全に言葉を失っていた。
3ヶ月。3ヶ月にわたり平民官吏を罵倒し続けたその原因が、他ならぬ自分が管理していた計算機の故障だったのだから。
形勢は完全に逆転した。
俺は静かな眼差しでアーベルを見据えた。
「ところで……先ほど、おっしゃいましたね」
アーベルがびくりと肩を大きく震わせる。
「平民は計算ができない、と」
重苦しい沈黙が落ちる。
「――では、失礼ながらお伺いします」
俺は改めて大型計算機に目を向けた。
「3ヶ月間、その故障に気づけなかったのは、一体どこのどなたでしょうか?」
完璧な静寂が場を支配する。誰も笑う者はおらず、誰も彼を助けようとはしない。
アーベルの顔だけが、悔しさと恥ずかしさで真っ赤に染まっていく。
俺はさらに言葉を重ねた。
「もっとも……本当の問題は、計算機ではありません」
全員がふたたびこちらを向く。
「問題なのは、今の帳簿のあり方です」
「今の方法では金の流れを一切追跡できません。だから計算機が壊れていても気付けず、毎月同じ地獄を繰り返すことになるのです」
年配の官吏が、恐る恐るといった様子で尋ねてきた。
「……では、どうすればいいんだ?」
俺はまっすぐに答える。前世の記憶と知識。……そして、ここ最近ずっと考え続けてきたことの結論を。
「帳簿の付け方そのものを変えます」
静まり返る執務室に向けて言い放つ。
「数字が二度と逃げられない仕組みがあります」
その小さな一言がやがて、
――王国最大の汚職を暴き、
――25年前の暗い殺人事件を掘り起こし、
――やがて王国と帝国の巨大な経済戦争へと繋がっていく。
この時の俺は、まだ知る由もなかった。
――自分がやがて財務大臣になることも。
――死刑囚として冷たい地下牢に繋がれることも。
そして、
――生涯をかけて守りたいと思えるパートナーたちと出会うことも。




