第9話 絶望の地下牢と希望の灯
薄暗く湿った王宮の地下牢。ときおり天井から落ちたしずくの音が響く。冷たく湿った石の匂いに加え、カビや汗の混じりあったすえた臭いが鼻を突いた。
俺がこの地下牢に閉じ込められて数日が経過していた。
ついこの間までは、エルディニア王国財務省の主計局長として、この国の傾きかけた財政を立て直そうと躍起になっていた。それが今では、国家転覆および国庫横領罪という身に覚えのない罪で、数日後に迫る死刑を待つ身だ。
セリアとシルヴィ、ロベルトとマルタたちは大丈夫だろうか?……今回のことでとばっちりを受けていなければ良いが……。
——その時、ダンジョンのような冷たい地下牢に、重々しい足音が響いた。
現れたのは、贅沢な毛皮の外套を纏ったマルクス大臣だった。
なぜこの男が自ら地下牢へ……?わざわざ囚われの俺を嘲笑いに来たとも思えないが……。いぶかる俺にマルクス大臣は告げた。
「ゲンよ、王命によりお前の処遇については、3日後の御前会議で裁定することになった」
マルクス大臣は嘲るような笑みを浮かべ、鉄格子越しに俺を見下ろした。
「金勘定が得意なお前をこのまま死なせるのは惜しい。どうだ、ハーゼンのように私の真の『片腕』となり、私の指示通りに裏帳簿を管理すると約束するなら、御前会議で貴様の命乞いをしてやろう。牢から出られるだけでなく、地位も金も女も、すべてお前の思いのままだぞ」
自らが構築した横領システムを管理する番頭になれ、という密やかな調略。だが、俺の心に迷いなど一片も生じなかった。
「お断りします、マルクス大臣」
俺は冷ややかな視線を返した。
「その肥え太ったどんぶり勘定の片棒を担ぐくらいなら、私はこの冷たい床で死刑を待つ方を選びますよ」
毅然と拒絶されたことで思い通りにならなかった伯爵は、顔を真っ赤に染めて激しい怒りを露わにした。
「……フン、馬鹿な奴だ。そういえば25年前にのう、私を告発しようとした愚か者がおったな。そいつも私の誘いを断り、証拠を手渡そうとしなかった。ゆえに手ごと切り落とさせ、哀れな死体にしてやったのだ」
「なに……!その人物はもしやっ……!」
「お前の父、レナードだよ」
「!」
雷に打たれたような衝撃が俺の全身を貫いた。
目の前に立つこの男こそが、25年前に自分を拾い、温かく育ててくれた親父を惨殺した真の仇だったのだ。激しい憎悪と怒りが全身の血を煮やし、俺は手錠の嵌められた両手を鉄格子に叩きつけ、掴みかからんばかりに身を乗り出した。
「あなたを国庫横領罪、ならびに殺人罪で告発する……!」
「グフフ……証拠は何もないぞ。死刑囚の見苦しい言い逃れなど、誰も聞く耳を持たんさ」
マルクス大臣は鉄格子の中から怒り狂う俺を鼻で笑い、歪んだ本性を隠そうともせずに吐き捨てた。
「これまでもな、誰にも信じてもらえず、絶望して死んでいった者が何人もいたのだ。私はな、そいつらの絶望、怒り、失望の顔をこの目で見ることが、たまらなく楽しいのだよ」
さらに男は、狂気を孕んだ笑みを深めて囁いた。
「そうだ!貴様の女部下と女騎士に、『なんでも言うことを聞けば貴様を助けてやる』と言ったらどうするかな?さんざん弄び、絶望させた後で貴様の死体と対面させたら……その顔はさぞかし見ものだろうなぁ。グフフ……」
そんな倒錯した残虐な趣味を語り終えると、奴は満足気な冷笑を残して地下牢から去っていった。
俺は自分の無力さに、鉄格子を握りしめたままがっくりとうなだれるしかなかった。
◇
――それからしばらくして、セリアとシルヴィが、黒猫のミーちゃんを抱えて面会に訪れた。
どうやら、「処刑前に最期の挨拶をしたい」と看守を泣き落とし、金貨を握らせて買収したらしい。
だが、俺の心は漆黒の暗雲に覆われていた。養父の残虐な死の真相。過去の犠牲者たちの絶望の重み。そして何より、あの悪魔のような男がセリアとシルヴィまで毒牙にかけようとしているという事実。
2人をこれ以上巻き込むことだけは、何としても避けなければならない。
「もういいんだ、2人とも……。私に関われば、君たちまで不幸になる。……私のことは諦めて、ここから去りなさい」
俺の突き放すような言葉に、2人は言葉を失った。
なおも話しかけようとする2人を拒むように俺は背を向ける。
2人の声は次第に泣き声に変わり、俺は胸が張り裂けそうになったが、やがて諦めるだろう。こうすることが彼女たちにとって最善なんだ……。
俺がそう自分に言い聞かせようとした、その時だった。
シルヴィの腕に抱かれていたミーちゃんが俺に向かって声を上げた。
「みゃー……」
ひどく寂しそうに、切なく響くその鳴き声。
その瞬間、俺の頭の中で、前世の記憶が鮮烈にフラッシュバックした。
かつて妻に手を引かれて自分の元を離れていった実の娘の涙。そして、――あの雨の夜の迫り来るヘッドライト。直前まで自分を信じ、腕の中で震えていたあの猫の瞳……。
……ダメだ!ここで俺が諦めたら、前世のあの夜と全く同じじゃないか!
俺を信じてくれている彼女たちを、今度こそ絶対に裏切ってたまるかっ……!
胸の奥底から、ドス黒い絶望を突き破るように熱い闘志が爆発的に湧き上がった。俺は冷たい鉄格子を手錠のかかった両手で掴み、立ち去ろうとする2人の背中に向かって声を上げた。
「セリアくん!シルヴィくん!待ってくれ!」
2人が驚いたように足を止め、振り返る。俺は戻ってきた2人を手招きし、鉄格子の隙間から耳元へ強く囁きかけた。
「私の刑を決める御前会議まで、まだ3日ある。……我が財務省の『過去の帳簿』を洗ってほしい。特に多額の使途不明金が発生した年のヴァルデン商会との取引を重点的に、だ。それから、病死や事故死も含めて、在職中に亡くなった財務省の役人をすべて調べてくれ!」
大臣の失言から確信したのだ。少なくとも20年前から同様の不審な横領が発生しており、その都度、真相に気づいた優秀な官吏たちが「スケープゴート」として抹殺されてきたのだと。
「君たちに、こんな危険な真似をさせるのは本当に心苦しいが……」
申し訳なさから声を詰まらせる俺に、セリアは涙を拭うと、きっぱりと言い放った。
「何を言っているんですか、局長!上司のフォローをするのは、部下の役目なんですから!」
「そうだ!弟子が師匠のために命を懸けるのに、理由なんかいるか!」
シルヴィも胸を張り、不敵で最高の笑顔を浮かべて見せた。
去っていく2人の凛々しい背中を、俺は鉄格子の間から見送った。
「人間は最後に必ず裏切る」という前世から俺を縛り続けていた氷のような呪縛が解け去っていくのを俺は感じていた。今世で初めて、俺の心に「俺のことを信じてくれる彼女たちを心から信じる」という温かく強い感情が芽生え始めていたのだった。
◇
「閣下、例の元財務省の男――ゲンを捕らえたことで、街では25年前のレナード殺害事件が再び噂になり始めております」
重厚な執務室の暗がりの中、ヴァルデン商会の会長は声をひそめて切り出した。その顔には焦りの色が滲み出ている。
「……万が一にも、あの時我々がレナードの遺体から回収し、閣下へお渡しした『例の品』の存在が明るみに出れば、私どもだけでなく閣下のお立場すら危うくなります。今すぐ破棄・処分していただけませんか?」
ヴァルデンの必死の訴えに対し、マルクスは嘲るような鼻笑いを漏らしただけであった。革張りの椅子に深く腰掛け、グラスの酒を揺らしながら冷ややかに見下ろす。
「ハッ、相変わらず臆病な男だな、ヴァルデン。あのブツについては心配いらん。奴らのような嗅ぎまわる害虫どもには、逆立ちしても絶対に分からない場所に厳重に保管してある。処分などという野蛮な真似をしなくとも、私の手元にある限り完璧だ。余計な口を挟むな」
尊大な態度の裏にある揺るぎない自信。マルクスの冷徹な眼光に射抜かれ、ヴァルデンはそれ以上言葉を重ねることができなかった。
「……左様でございますか。閣下がそうおっしゃるのであれば……」
深く頭を下げたその時――窓の外で、かすかにカタリと小さな物音が響いた。
「誰だ!?」
マルクスとヴァルデンは一瞬で表情をこわばらせ、窓辺へと駆け寄った。荒々しく窓の戸を開け放つと、夜の暗闇の中、1匹の黒猫が軽やかに塀を飛び越え、「みゃー」と小さく鳴いて走り去っていく姿が見えた。ほっと胸を撫で下ろしながらも、緊張感の冷めやらぬまま面会は終わりを告げた。
◇
マルクスとの不毛な面会を終えたヴァルデンは、邸宅の前に待たせていた馬車へと乗り込んだ。重い扉が閉まると同時に、長年の従者が静かに問いかけてくる。
「……伯爵は何と?」
「取り付く島もなかった。ちっ、あの狸親父め……『絶対に分からない場所』だと?もし捜査が入って洗いざらい調べられたらどうする気だ!?」
ヴァルデンは苛立ちを隠そうともせず、座席のクッションを強く拳で叩いた。すると、従者は思慮深げに顎に手を当て、低い声で思いを巡らせる。
「会長……大臣の猜疑心の強さからして、本邸や公的な金庫のような目立つ場所に置くはずがございません。かと言って、裏金を管理させている愛人の屋敷の中に置けば、あの強欲な女に盗まれる危険がある……」
「ふむ……では、どこだと言うのだ?」
ヴァルデンの問いかけに、従者は薄く不敵な笑みを浮かべて答えた。
「愛人宅の『裏庭』ではないでしょうか?それも……我が商会が遥か遠方より取り寄せ、あの屋敷の裏庭に植えさせた『あの珍しい花木』の根元かと」
「なに?日陰でも鮮やかに咲き続ける、あの遠国の花木か……!」
「ええ。日陰の裏庭であれほど長く色鮮やかに咲く花は、この国には他にございません。大臣は大層お気に召し、ご自身のお抱え庭師以外には指一つ触れさせぬよう厳命しておられます。愛人も使用人も近づけぬあの場所なら、絶対に人に気づかれません。それに、万が一暴かれた際も『愛人が勝手に埋めた』と言い逃れができます」
従者の推測を聞き、ヴァルデンの顔に感嘆と納得の色が広がった。
「なるほど……あり得るな!我が商会が運ばせた希少な花を、自分だけの隠し場所にするとは……相変わらず嫌味なほど隙のない男だ」
ヴァルデンは感心と呆れが混ざり合った溜息をついた。
会話が途切れる頃、やがて馬車は静かにヴァルデン商会の敷地内へと滑り込んだ。ヴァルデンと従者は馬車を降り、足早に商会の建物の中へと消えていく。
ーー御者が馬車を整備のために厩舎へ回送しようとした、その時だった。
馬車の屋根の上から、ひらりと小さな影が舞い降りた。先ほど大臣の館の窓辺にいた、あの小柄な黒猫だった。黒猫は静かに着地すると、気配もなく夜の静寂の中に消えていったのだった。
いよいよゲンたちの逆転に向けた反撃が始まります。
可能な限り1日1話ずつ更新していきたいと思っていますので、次回の更新をお楽しみにしてください。




