第九話 少年Aは罪に沈む 前編
二十三時を過ぎた旧浄水施設には水の音が無かった。
三年前まで使われていた巨大な貯水槽は空になり、ひび割れたコンクリートの底には枯れ葉と砂が積もっている。
天井の割れた窓から月光が差し込み、錆びた配管と手すりの影を床へ長く落としていた。
桐谷颯斗は、その手すりの前で何度も時刻を確認していた。
二十二時五十八分━━。
久世蓮司を呼び出した時刻まで、あと二分。
右手には古いスマートフォンを握っている。
画面の角は割れ、電源へつないでいなければ十分と持たない。
三年前に機種変更してから一度も起動していなかった端末だった。
その中に削除したはずの動画が残っている。
当時の自分は動画を消したつもりでいた。
だが数日前、鷺沢怜央の処刑動画を見たあと恐怖に駆られて古いデータを調べ直した。
端末の一時保存領域には、編集前の映像が残されていた。
白石美月が貯水槽へ落ちる瞬間。
縁へしがみついた彼女の手を蓮司が踏みつける瞬間。
自分たちが助けを求める声を聞きながら笑っていた時間。
すべてが映っている。
「俺は……何やってたんだよ」
颯斗は三年前の自分へ問いかけた。
答えは知っている。
面白がって撮影していた。
蓮司が美月を蹴ったときも、落ちた彼女が水面へ上がったときも、スマートフォンを向け続けた。助けようとはしなかった。
警察で事情を聞かれたときには、蓮司に言われたとおりの説明を繰り返した。
『白石が勝手に逃げた』
『足を滑らせて落ちた』
『俺たちは助けようとした』
十五歳だったからではない。
怖かったからでもない。
自分まで殺人犯になるのが嫌で、死んだ美月へすべての責任を押しつけたのだ。
颯斗のスマートフォンには警察へ発信した履歴が残っていた。
一時間前、匿名のつもりで県警へ電話をかけた。
『白石美月の事件について証拠があります』
『今夜十一時に、旧浄水施設へ久世蓮司を呼び出しました』
『三年前のことを全部話します』
自分の名前も伝えた。
逃げるつもりはなかった。
遠くで砂利を踏む音がした。
颯斗が顔を上げると、壊れた搬入口から黒いパーカーを着た蓮司が入ってきた。
「本当に来たんだな」
「動画を見せろ」
蓮司は挨拶もせず手を差し出した。
右手には白い包帯が巻かれている。昼間、祈を殴って痛めた手だった。
「先に話がある」
「動画を見せろって言ってんだよ」
「警察に電話した」
蓮司の足が止まった。
「……何?」
「もう終わりにする。俺が撮影したことも、警察で嘘をついたことも全部話す」
「正義の味方にでもなったつもりか?」
「違う、俺も捕まる」
颯斗は声を震わせながら、それでも蓮司から目を逸らさなかった。
「美月を殺したのはお前だけじゃない。撮影してた俺も同じだ」
「だったら黙ってればいいだろ、三年前に終わった話だ」
「終わってない」
「終わったんだよ!」
蓮司の怒声が、空の貯水槽へ何重にも反響した。
「警察も事故だと認めた! 俺たちはもう処分を受けた! 少年院にも入った! 今さら蒸し返して、誰が得するんだよ!」
「美月の家族に、本当のことを話す」
「死んだ奴のために生きてる俺たちの人生を潰すのか?」
蓮司はゆっくりと颯斗へ近づいた。
「お前、鷺沢の動画を見てビビってるだけだろ」
「……そうだよ」
「Elが俺たちを狙うとでも?」
「お前の予定表にもあの場所が表示されたんだろ」
蓮司の表情が固まった。
「どうして……それを知ってる」
「俺のスマホにも出たんだ」
颯斗が画面を見せる。
黒い予定表には、蓮司と同じ文章が表示されていた。
日時━━本日、二十三時十三分。
場所━━旧浄水施設。
予定━━過去と向き合う。
「これ……お前が仕込んだんじゃないのか」
「俺にそんなことできるわけないだろ」
「だったらスマホを寄越せっ!」
蓮司が颯斗へ飛びかかった。
包帯を巻いていない左手で胸倉をつかみ、コンクリートの床へ押し倒す。颯斗の手から古いスマートフォンが滑り貯水槽の縁近くまで転がった。
「やめろ、蓮司!」
「これさえ壊せば終わるんだよ!」
蓮司はポケットから折り畳み式のナイフを取り出した。
講演会で命の大切さを語った人間が、わずか半日後には同級生の喉元へ刃を向けている。
「警察が来る……!」
「来る前に、お前が勝手に貯水槽へ落ちればいい」
蓮司は笑った。
「三年前と同じだ、事故なら俺は悪くない。ふっ、ははははっ!」
その言葉が反響した直後、施設内の照明が一斉に点灯した。
「何だ……?」
電気は三年前に止められている。
それでも天井に並ぶ古い照明は、一つずつ赤黒い光を放ち始めた。
蓮司のスマートフォンが二十三時十三分を表示する。
取引を開始します━━。
* * *
空だったはずの貯水槽から水音が聞こえた。
それは最初は雨漏りのような小さな音だった。
だがやがて地の底から無数の泡が浮かぶ音へ変わり、乾いたコンクリートの中央に黒い染みが広がっていく。
染みは水となり、重力へ逆らうように立ち上がった。
壁も容器もない。
それなのに黒い水は崩れることなく巨大な円柱となって貯水槽の中央へそびえ立つ。
内部では赤黒い雷が魚のように泳ぎ、表面には無数の文字が浮かんでいた。
〈少年A〉
〈少年B〉
蓮司は颯斗を突き飛ばし、搬入口へ走ろうとした。
しかし床から伸びた黒い水が足首へ絡みつき、蓮司はその場に倒れた結果その身体だけを円柱の中へ引きずり込む。
「離せ! 何だよこれ!」
蓮司は水中でも呼吸ができた。
いや、正確にはまだ溺れることを許されていなかった。
黒い水は蓮司の身体を持ち上げ、貯水槽の縁と同じ高さまで運ぶ。両手の前に白いコンクリートの足場が作られ、蓮司は反射的にその縁へしがみついた。
それはまさにあの日の白石美月のようだった━━。
水面は蓮司の胸元にある。だがその下は真っ黒な水に閉ざされ、底どころか自分の脚さえ見えない。
靴底は何にも触れず、今にも闇の底へ引きずり込まれそうな恐怖が背筋を這い上がった。
颯斗の前には黒煙が集まり、人間の輪郭を作り始めた。
顔も服も存在しない。頭、肩、二本の腕だけが辛うじて人型を保ち、内部では赤黒い雷が血管のように明滅している。
右手には、コンビニの大きな袋が提げられていた。
黒煙は袋から焼きそばパンを取り出し、包装を開ける。
『こんばんは、久世蓮司』
あの日のように男とも女とも、老人とも子供とも判別できない声が施設内のすべてのスマートフォンから同時に流れた。
蓮司の顔から血の気が引く。
「El……」
『正解です。講演内容をよく復習されていますね』
「待て! 俺は何もしてないっ!」
『そうですか。では今から一緒に過去と向き合いましょう』
蓮司のスマートフォンが宙へ浮かんだ。
動画配信アプリが勝手に起動し、登録者三十万人のアカウントで生配信を開始する。
配信題名は━━《少年Aの特別講演》。
視聴者数が百人、千人、一万人と増えていく。
「やめろ! 配信を切れっ!」
『講演者が途中退席するのは、生徒の皆様に失礼です。それと小さいことで怒らないで下さい、睡眠不足ですか?』
黒煙は焼きそばパンを一口かじった。
『人間の皆様、最後までよろしくお願いします』
* * *
県警へかかってきた颯斗の通報を受け、火村と森川は旧浄水施設へ向かっていた。
助手席の森川のスマートフォンが震える。
「火村さん、久世蓮司のアカウントで生配信が始まりました!」
「見せろ」
火村に向かって画面を開く。
黒い水柱の中で蓮司がコンクリートの縁へしがみついている。画面の端には黒煙の人影も映っていた。
「またElです」
「分かってる、応援を回せ。消防と救急それから潜水隊もだ」
「空の貯水槽に潜水隊ですか?」
「よく見ろ、今はカラじゃないらしい」
森川が無線で応援を要請する。
火村は配信を見ながら、包帯の巻かれた拳を握った。
画面の中の黒煙は昨夜と同じように食事をしている。
神を名乗る怪物がなぜ処刑の最中に食事をするのか。
火村には、その異様な習性の意味が分からなかった━━。
「急ぐぞ」
火村はさらにアクセルを踏み込んだ。
* * *
黒い水柱の表面に白石美月の事件資料が映し出された。
十三歳の少女の顔写真。
傷ついた制服。
片方だけのローファー。
学校へ提出された相談記録と、それを受け取っていないと主張した教師の証言。
そしてニュース記事に書かれた二つの呼び名。
少年A。
少年B。
『当時の報道は、あなた方の名前を公表しませんでした』
「少年法で決まってるんだ! 俺が悪いわけじゃない!」
『そうですね。万能且つ強固であるはずの法律は、頭のネジが緩いあなたの名前を守った』
水面の〈少年A〉という文字が剥がれ、蓮司の顔に張りつく。
そして赤い文字が皮膚へ溶け込み新しい名前を形作った。
〈久世蓮司〉
『ですが、当店では匿名配送を承っておりません』
配信画面へ蓮司の本名、現在の顔、過去の事件との関係が表示される。
「消せぇっ! 俺はもう処分を受けたんだぞ!」
『恐喝と傷害については』
「三年も少年院に入った! もう償った!」
『白石美月を殺害した代金が未払いです。只今、延滞金が三年分発生しております』
『自伝の題名は《やり直す勇気》でしたね。今夜は《飲み干す勇気》を実演していただきます』
「殺してない! あれは事故だ!」
黒煙の顔が颯斗へ向いた。
『桐谷颯斗。商品の確認にご協力ください』
「お、俺……?」
『あなたは三年前、この場所で何をしましたか』
颯斗は古いスマートフォンを拾い上げた。
逃げようとはしなかった。
「美月を囲んで、殴るところを撮影しました」
『その後は?』
「蓮司が美月の背中を蹴った。美月は貯水槽へ落ちました」
「嘘をつくな、颯斗!」
「水から上がろうとした美月の手を蓮司が思いっきり踏んだ。俺はそれも撮ってました」
颯斗の声が震える。
「助けてって言ってた。でも俺は、ずっと撮影してた。警察では動画を消して、事故だったって嘘をついた」
涙を拭うこともせず、古い端末を黒煙へ差し出す。
「俺も同じだ。俺も美月を殺した」
黒煙は端末へ触れなかった。
だが古いスマートフォンが颯斗の手から浮かび上がり、水柱の前で停止する。
画面の中から削除されなかった動画が再生された。
それは三年前の映像。
床へ倒れた美月を二人の少年が囲んでいる━━。
『先生に言うなよ』
『絶対言いません。だから……帰して、ください……っ……』
泣きながら頼む美月へ、十五歳の蓮司が笑いかける。
『そりゃ信用できねえな』
『いや、やめ……!』
逃げようとした美月の背中を蓮司が蹴った。
細い身体が貯水槽の縁を越え、水音とともに画面から消える。
数秒後、美月の手が縁をつかんだ。
『たず、たすげで……!』
蓮司の靴がそのか細い指を踏みつける。
『お前さぁ、足元を見て歩けって親に教わらなかった?』
少年たちの笑い声。
指が縁から外れ、美月は再び水中へ沈んだ。
そして映像は波紋が消えるまで続いていた。
配信のコメント欄から、言葉が一斉に消えた。
そこから数秒の沈黙のあと激しい勢いで新しい文字が流れ始める。
〈は? これが事故?〉
〈女の子の指踏んづけて沈めてるじゃねーか〉
〈完全に殺人だろ〉
〈久世蓮司が少年Aだったのか〉
〈更生どころか今も遺族を脅してた。とんだクソ野郎じゃん〉
〈動画保存した〉
〈警察に送るわ〉
「違う!」
蓮司は縁へしがみついたまま叫んだ。
「颯斗が撮影してた! こいつだって同罪だ!」
『そのとおりです』
黒煙が颯斗へ向き直る。
『悔恨は免罪符ではありません』
颯斗は俯いた。
「……分かってます」
『あなたが記録を提出し、自ら罪を認めた事実は量刑へ反映されるでしょう』
「俺も……殺すんですか」
『いいえ』
黒煙の内部で、赤黒い雷が瞬いた。
『あなたの判決は、人間共へ返却します』
颯斗の前にあった黒い水が退き、搬入口まで一本の道を作る。
『逃げるか、法廷へ向かうかは、ご自分でお選びください』
颯斗は道を見たあと古いスマートフォンへ目を向けた。
「俺は、警察を待ちます」
『承知しました』
黒煙は焼きそばパンの最後の一口を食べた。
『では、購入商品の確認へ戻ります━━』
* * *
黒い水柱の中に新しい足場が生まれたが、それは白石美月が最後につかんだものと同じ幅の濡れたコンクリートの縁だった。
そして蓮司の身体がまるで渦巻きの中にいるかのように水中へ引き込まれる。
「ま、待てっ! 動画は出ただろ! もう全部分かったんだから警察に任せろよ!」
『あなたは講演で過去と向き合う必要があると仰っていました。まさか、もう忘れちゃいました?』
「だからって、こんなこと……!」
『ご安心ください』
黒煙はコンビニ袋から大きなおにぎりを取り出した。
『今夜の講演内容はあなたご自身です』
どんな力かわからないが自身を引きずり込むブラックホールのような水が蓮司の胸、肩、顎まで上がっていく。
蓮司は両手で縁へしがみつき、辛うじて顔だけを水面へ出した。
蓮司の足元には何もない。
身体の重さのすべてが、十本の指へかかっている。
「お、俺は十五歳だったんだぞ!」
『十五歳であれば、人間は水の中では呼吸できないことをご存じだったはずです』
『少年法はあなたの氏名を守りましたが、浮力までは保証していません』
「子供だった! 判断力がなかったんだ!」
『確かにまともな判断力は無いようです。まともなら三年後の現在も、遺族へ写真を送り続けませんもの』
「そ、それは……あの親父がしつこかったからだ!」
『やはり、判断力と頭の緩さは現在も更生していないようです。この世からBANすべきですね』
黒い水の表面から一足のローファーが現れた。
泥と藻に汚れた片方だけの黒い靴。
それは白石美月の遺品と同じ形だった。
ローファーは見えない足に履かれているように水面をまるで地面のように歩き、蓮司の右手の前で止まった。
「やめろ……」
『三年前、白石美月は何と頼みましたか』
「……覚えてない」
ローファーの爪先が、蓮司の右手の小指へ載った。
『嘘をつきました』
「し、知らない!」
靴底が小指に向けて沈む。
小指の骨が砕け、爪と皮膚の隙間から血が噴き出した。
「く゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ━━!」
蓮司の右手が反射的に縁から離れる。
左手だけで身体を支えることになり、水面が口元まで上がった。
『もう一度伺います。彼女は何と?』
「た、助けてって……言っtぐぶぉ……! はぁ、はぁ……」
『あなたは?』
「……何も、してない」
無言のままローファーが薬指へ移る。
「待て! 待てって! 言う……言うから!」
『早く』
「足元を見て歩けって……言った」
『よくできました』
黒煙の中で、白い歯だけが笑った。
『三年越しの復習としては上出来です。犬と同じ、IQ75程度はありそうですね。おっと、ピンク色の青筋を立てないでくださいね』
ローファーは蓮司の右手から離れ、今度は左手の前へ移動した。
「全部認める! 俺が蹴った! 俺が手を踏んだ! だからたす、助けてくれぇっ!」
『……謝罪ですか?』
「悪かった! 本当に反省してる!」
『宛先が違います』
「は?」
『その謝罪を受け取る方は、三年前にあなたがこの場所で水中へ沈めました』
ローファーが左手の甲を思いっきり踏みつける。
「き゛ゃ あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛っ━━!」
乾いた破裂音とともに中手骨がまとめて砕けた。
蓮司の両手が縁から離れる。
『さぁこれで、白石美月が最後に置かれていた状況と同じです』
黒煙が片方だけのローファーを見下ろした。
『ここからは、彼女の死因をお返しします』
黒い水が頭上で閉じた━━。




