第十話 少年Aは罪に沈む 後編
火村と森川が施設へ到着したのはその瞬間だった。
搬入口を塞いでいた錆びた扉を蹴り開ける。
「久世!」
黒い水柱の中で蓮司が必死にもがいていた。
身体は水中へ沈んでいるが、まだ口へ水は入っていない。黒い水が薄い膜となって鼻と唇を避け、蓮司に呼吸と悲鳴を許している。
死因をなぞる本当の処刑は、まだ始まっていなかった。
「桐谷颯斗だな」
「はい……俺が通報しました」
「動画は?」
「これです、原本です」
森川が颯斗を保護し、古い端末を受け取る。
火村は救命用の浮輪を壁から外すと水柱へ向かって投げた。
浮輪は確かに水面へ触れた。
だが次の瞬間、見えない壁に弾かれたように戻ってくる。
「El! 止めろ!」
黒煙が火村へ向き直った。
『またお会いしましたね、火む……なんでしたっけ』
「その動画があれば殺人で再捜査できる! 久世を生きたまま引き渡せ!」
『三年前の三十秒では足りず、今夜の映像なら足りるのですか?』
「ああ。今度は音声も映像も、共犯者の証言もある」
『人間の正義とはファイル容量に左右されるのですね。素晴らしい理念です』
「証拠で裁くのが法だ!」
『証拠がなければ、起きたことも存在しないと?』
「違う。起きたことを、間違いなく裁くために必要なんだ!」
火村は水柱へ近づき、腕を入れようとした。
触れた瞬間巨大な水圧が全身を押し返す。
それでも足を踏ん張り、包帯の巻かれた腕を蓮司へ伸ばした。
「罪人でも助ける。それが俺の仕事だ!」
『あなたは昨夜も、同じことを仰っていました』
「明日も言う!」
火村は歯を食いしばった。
「お前が何人殺しても、俺はそのたびに止める!」
黒煙はしばらく火村を見つめていた。
『では、間に合うよう努力してください』
「何?」
『人間には、やり直す権利があるのでしょう? 無実の白石美月には無かったようですが━━』
黒い水が蓮司の身体を持ち上げた。
胸から上だけが水面へ現れ、砕かれた両手が力なく垂れ下がる。蓮司は大きく息を吸い、咳き込みながら火村へ叫んだ。
「助けて、くれ……全部、認める! 警察に行くから!」
「聞いたな、El! こいつは法廷へ立つと言ってる!」
『誠に残念ですが、購入後のキャンセルは受け付けておりません━━』
黒煙が指を鳴らす。
水柱の表面へ、白石美月の死体検案書が浮かび上がった。
死因━━溺死。
『白石美月は大量の泥水を飲み込み、肺へ吸い込んで亡くなりました』
黒煙の声から先ほどまでの軽い調子が消える。
『貯水槽へ蹴り落とされた挙句、浮かび上がるための指を踏み砕かれ、必死に助けを求めながら肺へ水を吸い込んだ』
死体検案書の隣に三年前の美月の写真が映る。
『あなたはその死を事故と呼び、証拠も責任も更生も、罪すらも水へ流した』
水柱の中で、蓮司の顎が見えない力によって持ち上げられた。
『したがって、あなたが三年間水に流した罪を、すべて体内へ返却します。意識高い女性タレントが昔から行なっている水美容法です』
「待て……何をする気だ……」
『ドリンクバー飲み放題です』
黒い水が一本の細い管となり、蓮司の口元へ集まった。
蓮司は必死に唇を閉じ、顔を背けようとするが顎が強制的に開かれた。
「やm━━ごぼっ!」
黒い水が口の中へ流れ込む。
最初の数秒、蓮司は必死に吐き出そうとした。
だが口から溢れようとする水は見えない壁に押し戻され、喉の奥へ送り込まれていく。
胃へ。
肺へ。
逃げ場を失った黒い水が蓮司の体内へ蓄積し始める。
腹部がゆっくりと膨らんだ。
シャツのボタンが一つ弾け、水中へ飛ぶ。
続いて二つ目、三つ目が飛び、水風船のように張った腹が露出した。
「ごぼっ……や、やべ……!」
水の流入が一度止まる。
蓮司は黒い水を吐き出そうと身を折った。しかし胃の中の水は一滴も戻らず、異常に膨らんだ腹だけが痙攣する。
『満腹ですか? ですが美肌にはまだ程遠いですよ』
「出っ……水を、出してくれ……!」
『白石美月も同様に希望したでしょう』
「謝る……親父にも謝る! 金も全部払う……!」
『三年前、彼女は水なんぞ一口も注文していませんでした』
黒煙はコンビニ袋からペットボトルの水を取り出し、蓋を開けた。
『それでもあなたは助けず、無理にこの水を飲ませ続けた』
黒い管が二本に増える。
一本は蓮司の口へ、もう一本は鼻へ入り込んだ。
「ん゛く゛う゛う゛ぉ゛ぉ゛ぉ゛ぁ゛っ!」
再び黒い水が流れ込む。
蓮司の腹部は人間の形を失うほど膨張した。
皮膚の下で血管が浮き上がり、臍の周囲には細かな亀裂が走る。
『人は変われるという講演をまさか身体の形で実演なさるとは、男叩き青バッチアカウント並みに仕事熱心ですね。その熱量を懺悔に当てるべきでした』
胸も内側から押し広げられ、肋骨が一本ずつ軋み始めた。
みしり……。
みしり……。
それは水柱の外にいる者にも聞こえるほど大きな音だった。
森川が顔を青ざめさせる。
「火村さんこのままじゃ……!」
「分かってる!」
火村は水圧へ逆らい、もう一度水柱へ腕を差し込んだ。
包帯が破れて拳の傷口から血が流れる。それでも蓮司へ向けて手を伸ばし続けた。
「久世! こっちを見ろ! 意識を保て!」
蓮司は火村を見た。
蓮司の目は充血して飛び出し始めて頬と首まで不自然に膨らんでいる。
口から漏れるのは言葉ではなく、黒い汚水と血の混じった泡だけだった。
『無駄です』
黒煙が静かに告げる。
『この水は、彼が責任から逃れ続けた分だけ増え続けます。吐くことも排出することもできません』
「そんな理屈があるか!」
『人間の法律にも、よくあることでしょう』
黒煙の中で、白い歯が浮かぶ。
『許容量を超えるまで責任を先送りし、破裂してから問題に気づく。死亡事故が起きてから信号を建てるのと同じです』
水の流入が止まった。
『まもなく満水です。残念ながら、書籍と違って人体は増刷できませんのでそろそろ終わりです』
蓮司は大きく口を開き、ようやく声になった断末魔を上げる。
「いやだあああああっ! 死にたくない! た゛す゛け゛て゛く゛れ゛え゛ぇ゛ぇ゛っ!」
黒煙は蓮司を見上げた。
『白石美月の最後の希望と一致しました』
火村の指先が、蓮司の腕へ届く寸前だった。
『あなたは聞かなかった、なので私も聞きません━━』
黒い水が最後の奔流となって蓮司の口へ流れ込む。
「あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛っ━━!」
腹部の皮膚が裂けた。
内側から押し出された血と水が、細い亀裂から一気に噴き出す。
次の瞬間、膨張した胴体が限界を超えた。
巨大なタイヤがバーストでもしたかのような破裂音が旧浄水施設を揺らし、耳の鼓膜を突き破るような勢いで空気が震えた。
胸から腹にかけて一気に弾け、赤黒い水と血液、砕けた骨、臓器と肉片が四方へ飛散する。
透明な水柱の内壁へ無数の破片が叩きつけられ、黒い水を瞬く間に濁った赤へ染め上げた。
蓮司の断末魔は、肉体が破裂した音に飲み込まれた。
千切れた頭部と両腕が水中へ落ち、残った指先だけが何かへしがみつこうと動いたあと完全に止まった。
火村の伸ばした手は、何もつかめなかった。
「El……!」
黒い水柱の表面へ、講演会で蓮司が語った言葉が浮かび上がった。
〈過去は変えられなくても人は変われる〉
その下へ、別の文章が追加される。
〈ただし、死者の未来は変わりません〉
水柱が崩れた。
何千トンもあったはずの水は周囲へ溢れず、黒い粒子となって空中へと消えていく。
支えを失った肉片と骨が乾いた貯水槽の底へ降り注いだ。
濡れた音を立てて散らばる残骸の中央に久世蓮司の顔だけが辛うじて原形を留めている。
視聴者が最後まで本人だと確認できるよう、そこだけは神の力で破壊されずに残されていた。
片方だけの黒いローファーがその顔の隣へ落ちる。
『以上で『明日から使える挽肉実演講座』の講演を終了します。ご清聴ありがとうございました』
蓮司のスマートフォンもコンクリートへ着地した。
生配信は彼の本名と告白、三年前の未編集動画、そして処刑の一部始終を保存して終了する。
━━取引を完了しました。
* * *
黒煙はコンビニ袋を折り畳み、貯水槽の縁へ置いた。
火村が振り返る。
「待て!」
『まだ何か?』
「桐谷を殺さなかったのは、なぜだ」
『彼は自分の罪を認め、証拠を提出し、人間の法へ裁きを求めた』
「反省したから許したのか」
『いいえ。許す資格を持つ方は……もうこの世に存在しません』
黒煙の輪郭が夜気の中で揺れる。
『私は取引条件に従っただけです』
「条件?」
『人間の法律では裁くことができない、逃げ切った悪人』
黒煙は貯水槽の底にある蓮司の遺体を見下ろした。
『自ら法廷へ戻る者まで奪えば、あなたの仕事がなくなってしまうでしょう?』
「っ……余計なお世話だ」
『失礼しました。非番でも働くほどお仕事がお好きですもんね』
火村が黒煙へ一歩近づく。
「お前は、誰が反省していて誰が逃げているのかどうやって決めている」
『商品の説明と記録を調べ、本人の言葉を確認します』
「間違えることはないのか」
『私は全知ではありません』
「神様ともあろう奴が、ずいぶん弱気だな」
『慎重と言ってください。誤配送は信用に関わりますので』
「それでも間違えたら?」
赤黒い雷が、黒煙の内側で一度だけ瞬いた。
『そのときは、あなたが私を裁けばよろしい』
「言われなくてもそうするよ」
『では今夜は、桐谷颯斗をお願いします。そちらは人間の法へ返却済みです』
黒煙の身体が、夜の闇へ溶け始める。
「待て!」
火村が手を伸ばしたときには、黒い粒子が指の間を通り抜けただけだった。
あとには、折り畳まれたコンビニ袋が残されている。
火村はそれを拾わず暗闇を睨み続けた。
Elは無差別に人を殺しているのではない。
独自の基準で罪を調べ、人間の法へ戻ろうとする者とそこから逃げ切った者を選別している。
だが、その基準がどれほど精密であろうと人間を殺す権利まで正当化されるわけではない。
「次は必ず止める」
誰もいない夜気の中で、黒い粒子が一瞬だけ赤く瞬いた。
* * *
白石孝則は自宅の居間で取引終了の通知を見ていた。
生配信を最後まで見ることはできなかった。
未編集動画に美月の声が流れた瞬間、スマートフォンを伏せて耳を塞いだ。それでも三年前に聞けなかった娘の「助けて」という声が、耳の奥へ残り続けている。
テーブルの上には、片方だけのローファーが置かれていた。
孝則はそれを抱き締める。
「遅くなってごめんな……美月……」
久世蓮司が死んでも娘は帰ってこない。
復讐を終えた満足も、喜びもなかった。
ただ、娘が事故で死んだという偽りだけは今夜ようやく消えた。
窓の外で雨が降り始める。
乾いた町を濡らす静かな雨音の中、孝則は三年ぶりに娘の名前を声にして泣いた。
水に流された罪は、三年かけて岸へ戻った━━。




