第七話 加害者Aは笑っている 前編
口角を上げる角度は鏡の前で練習した。
失敗を語るときには少しだけ目を伏せ、立ち直った現在を語るときにはまっすぐ相手を見る。過去を悔いる表情と、未来へ希望を抱く表情。その切り替え方も、講演を重ねるうちに自然と身についていた。
「過去は変えられなくても、人は変われる」
後部座席で台本を読み上げると、助手席に座るマネージャーが満足そうに頷いた。
「やっぱり、その言葉は蓮司本人が言うから響くんだよな」
「ありがとうございます」
「今日の高校は君と歳の近い生徒ばかりだ。いつも以上に反応がいいと思うよ」
「俺みたいに一度道を踏み外した人間でも、やり直せる。そのことが一人でも多くの生徒に伝われば嬉しいです」
「立派になったな、本当に」
蓮司は照れたように笑った。
十八歳とは思えないほど落ち着いていて、過去から逃げず、自分の言葉で非行を語る青年。それが世間から見た久世蓮司だった。
中学時代に恐喝と傷害を繰り返し、少年院へ送られたことも隠していない。
むしろ、その過去こそが彼の商品価値を高めていた。
自伝『やり直す勇気』は増刷を重ね、動画配信の登録者数は三十万人を超えている。企業の青少年育成事業にも起用され、来春からは通信制大学へ進学する予定だった。
「着いたら先に校長先生へ挨拶しよう。講演後は生徒会との写真撮影、そのあと地元紙の取材だ」
「分かりました」
車が途中のコンビニへ立ち寄り、マネージャーが飲み物を買うために降りた。
ドアが閉まった瞬間、蓮司の笑顔が消える。
ジャケットの内側で、スマートフォンが震えていた。
画面に表示されたのは、三年前まで同じ中学校に通っていた桐谷颯斗からのメッセージだった。
『もう金は払わない』
『鷺沢怜央の配信を見た』
『俺たちも、いつかElに見つかる』
『警察に全部話した方がいい』
蓮司は鼻で笑った。
『勝手にすれば?』
『ただし、美月が落ちるところを撮っていたのはお前だ』
『動画が警察に渡れば、俺だけじゃなくお前も終わる』
入力欄の上に、相手が文章を書いていることを示す点が浮かんだ。しかし、しばらく待っても返信は届かなかった。
蓮司は桐谷との会話を非表示にし、スマートフォンをポケットへ戻した。
マネージャーが飲み物を二本持って車へ戻ってくる。
「待たせたな。緊張してないか?」
「少しだけ。でも、生徒の皆さんに会えるのが楽しみです」
蓮司は再び、よく練習された笑顔を作った。
* * *
祈たちの高校では、朝から体育館の準備が進められていた。
舞台の上には大きなスクリーンが設置され、その両脇に『青少年更生講演会』と書かれた垂れ幕が下がっている。講師を紹介する立て看板には、自伝を胸に抱いて笑う久世蓮司の写真が印刷されていた。
「何か、アイドルのイベントみたい」
「蓮司くん、普通に格好いいよね」
「動画で見るより大人っぽい」
体育館へ移動する生徒たちの間では、講演内容よりも蓮司本人の話題が多かった。
しかし祈が廊下を通ると、女子生徒たちの視線は一斉にそちらへ移る。
蓮司の写真を見ながら話していた少女も、祈とすれ違った瞬間には言葉を忘れたように黙り込んだ。
祈はその反応に目もくれず、両腕に紙袋を抱えて体育館へ向かった。
中身は七緒が用意したサンドイッチと菓子パン、栄養補助食品、チョコレート、それに水筒へ入れた濃厚なコーンスープだった。
「天羽。それ、全部体育館で食べるつもりか?」
担任が呆れたように尋ねる。
「途中でお腹が鳴ると、講師の方に失礼ですので」
「いやいや、食べながら聞く方が失礼だと思わないのか?」
「ですが講演中に餓死するよりは進行を妨げません」
「二時間で人間は餓死しないぞ」
「個人差があります」
担任は頭痛を堪えるように眉間を押さえたが、最終的には最後列で音を立てずに食べることを条件に許可した。
祈の異常な食事量については七緒から学校へ「療養後の体質変化によるもの」と説明されている。医師の診断書はなかったが半年以上学校から姿を消していた生徒を再び追い出したと批判されることを恐れ、学校側も強く追及できずにいた。
全校生徒が体育館へ集まり始めた頃、校門前で小さな騒ぎが起きていた。
「お願いです。せめて本人に質問をさせてください」
「許可のない方を校内へ入れることはできません!」
「娘のことを一言聞くだけです。講演を邪魔するつもりはありません」
「お引き取りください。従っていただけない場合は警察へ連絡します」
白石孝則は、二人の警備員に行く手を塞がれていた。
三年間で白髪の増えた五十代の男だった。手には中学生の少女の写真と、『久世蓮司に娘の死について説明を求めます』と書かれた紙を持っている。
校門から少し離れた場所に停めた車の中で、その様子を火村と若い刑事が見ていた。
「学校へ来るたびに、何か起きますね」
助手席の若い刑事━━森川恭子がぼやいた。
「校門は人間の事情を止める柵じゃないらしいな」
火村は車を降り、孝則へ近づいた。
「県警の火村です。少しお話を伺っても?」
警察手帳を見せられた孝則の顔に、警戒と期待が同時に浮かぶ。
「警察には、もう何度も話しました」
「白石美月さんの件ですね」
「娘をご存じなんですか」
「今朝、久世蓮司について調べました。三年前、同じ学校に通っていた生徒が浄水施設で亡くなっている」
「事故ではありません」
孝則は即座に言った。
「娘は、あの男たちに殺されたんです」
警備員たちは迷惑そうに顔を見合わせた。
火村は孝則を車の近くまで連れていき、ほかの人間に聞かれない場所で事情を尋ねた。
「久世が娘さんを突き落としたという証拠はありますか」
「証拠は……あの子たちが消しました」
「では、なぜ久世だと断定できるんです」
孝則は古いスマートフォンを取り出した。
「娘が亡くなる一時間ほど前、私に電話をかけてきたんです。仕事中で出られませんでした。留守番電話に、三十秒だけ音声が残っていました」
震える指で音声を再生する。
最初に聞こえたのは、何かが布へ擦れる音だった。続いて複数人の笑い声と水滴が反響する音。雑音が激しく、言葉のほとんどは聞き取れない。
それでも終わり際に、少女の細い声が入っていた。
『……蓮司先輩、やめてくだ……』
録音はそこで途切れた。
「当時の警察は、名前までは聞き取れないと言いました。私の思い込みかもしれないと」
「音声の原本は残っていますか」
「何も触っていません。娘の声が消えるのが怖くて」
「複製を預からせてください。最新の解析技術でもう一度調べます」
「今さら調べて、何か変わるんですか」
孝則の声には、期待することに疲れた人間の重さがあった。
火村は包帯の巻かれた自分の拳を見る。
「……過去は変えられません」
昨夜、黒煙に言われた言葉を思い出しながら答えた。
「だが、記録の見方は変えられる。見落としていたものがあるなら俺たちが絶対に拾います」
孝則は長いあいだ火村を見つめ、やがて音声データを送信した。
校舎からは講演会の開始を知らせるチャイムが流れた。
* * *
体育館の舞台へ現れた久世蓮司は、大きな拍手で迎えられた。
細身のスーツに清潔感のある髪型。写真よりも整った顔立ちと照明の下でも物怖じしない笑顔には、十八歳とは思えない華がある。
もっとも、蓮司自身が舞台から最初に見つけたのは拍手を送る女子生徒ではなかった。
最後列でこちらには目もくれず、目の前のサンドイッチをモグモグ食べている祈だった。
一度目を向けた瞬間、視線を外せなくなる。
華奢で儚げな高校生、それだけなら珍しくもない。
だが、その少年だけがこの世界の中で異なる密度を持っているように見えた。
蓮司はその姿に思わず一瞬言葉を忘れた。
隣に立つ校長から小声で促され、ようやく笑顔を取り戻す。
「皆さん、こんにちは。久世蓮司です」
マイクを通した声が体育館へ広がった。
「今日は、俺がどうして道を踏み外し、どうやってもう一度歩き始めたのかをお話ししたいと思います」
講演は滞りなく進んだ。
家庭環境への不満。学校に居場所がなかった孤独。
悪い仲間と出会い、後輩から金を奪い、暴力を振るったこと。少年院へ入った当初は社会のすべてを恨んでいたこと。
蓮司は自分の罪を隠さなかった。
ただし、白石美月の名前だけは決して口にしない。
「少年院で俺を見捨てずに叱ってくれた先生がいました。その人に言われたんです。過去に起きたことは消せない、でもこれから何をするかは選べる、と」
生徒たちは静かに聞き入っていた。
「一度の過ちだけで人間の価値が決まるわけではありません。失敗した人間にも、やり直す権利があります」
三年生の列に座る一ノ瀬は、無意識に拳を握った。
失敗した人間にもやり直す権利がある。
その心地よいぬるま湯のような言葉が胸へ染み込んでくる。
祈を殺したのは間違いだったかもしれない。だが、自分もまだ高校生だ。
反省していると伝えればいつか許されるのではないか。
葵を守りたかった。
祈が戻ってくればすべてを奪われると思い、怖くなっただけだ。
そう言えば、誰か一人くらい理解してくれるかもしれない。
一ノ瀬は自分に都合のよい未来へ縋るように蓮司の話を聞いていた。
「過去は変えられなくても、人は変われる」
講演題目と同じ言葉を口にすると、体育館は大きな拍手に包まれた。
祈だけは拍手をしなかった。
空になったサンドイッチの袋を畳み、次の菓子パンを開けている。
「随分と寛容な学校ですね」
祈が小声で呟いた。
隣の席にいた男子生徒が聞き返す。
「何が?」
「更生した加害者には拍手を送り、無実を訴える生徒には反省を要求する。ヨギボーより柔軟な教育方針だと感心していました」
数列前に座る葵の肩がわずかに震えた。
祈は葵へ向けて言ったわけではない。視線すら向けていない。
それでも葵には、その言葉が自分の胸へ突き刺さったように感じられた。
* * *
「では最後に、皆さんから質問を受けたいと思います」
蓮司が呼びかけると、何人もの生徒が手を挙げた。
「少年院で一番つらかったことは何ですか」
「ご家族とは仲直りできましたか」
「将来は何になりたいですか」
蓮司はどの質問にも丁寧に答えた。失敗談には笑いを交え、重い話のあとには必ず希望を添える。
予定された終了時刻が近づいたところで、最後列から一本の手が上がった。
祈だった。
「では、最後の彼━━」
蓮司は笑顔で指名した。
先ほどから自分を見向きもせずに食事を続けていた少年が、どんな質問をするのか興味を持ったのだろう。
祈はゆっくりと立ち上がる。
体育館に集まった生徒たちが一斉に振り返った。祈の姿を初めて正面から見た女子生徒の中には、質問が始まる前から頬を染める者もいた。
「久世さんに質問があります」
「どうぞ」
「過去と向き合うとは、自分が何をしたのか被害者へ正直に話すことでしょうか」
蓮司は爽やかに頷く。
「そうだね。自分の過ちを認めなければ、本当の更生は始まらないと思う」
「では、白石美月さんには何を認めたのですか━━?」




