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復讐はフリマアプリで落札される ~冤罪で家族と幼馴染を奪われ海へ沈められた少年は、神となって悪人を処刑する~  作者: くじけ


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第五十六話 子は親を間違えない


 美沙が目を覚ますとお腹が昨夜より膨らんでいた。


 仰向けになった身体の上で寝間着だけが不自然な丸みを作り、掌を当てると薄い皮膚の奥を何かがゆっくり横切っていく。

 腸が動く感覚とは違う……内側からこちらの掌を探し、母親が触れた場所へ触れ返そうとしているような動きだった。


「ふふっ……おはよう」


 囁きかけるとそれは掌の真下を一度だけ蹴った。


 まだ医師の診察も受けていないのに母親には分かると美沙は思った。


 結菜のときも最初に子供の存在へ気づいたのは自分で、孝之は産婦人科でもらった写真を見せるまで何も実感していなかった。


『そっかぁ、この中に赤ちゃんがいるのかぁ』


 超音波写真を光へ透かしながら何度も尋ね、その夜から酒をやめて通勤鞄へ妊娠や育児の本を入れていた。

 出産予定日が近づくと会社から帰るたび美沙の腹へ話しかけ、結菜が動けば自分の声を聞いてくれたと喜んだ。


 だがあのとき腹の中にいたのは御堂との子供だった。


 それでも孝之は誰よりも早く父親になろうとしていた。

 美沙は浮かんだ記憶を振り払うように身体を起こし、姿見の前で寝間着を捲った。

 腹部にはまだ妊婦と断定できるほどの膨らみはないが、昨日まで平らだった場所ははっきり前へ張り出している。


 でもそれは予定日から考えても少し早すぎた。


 だが御堂との間にできた待ち望んだ子供なら、普通より成長が早いことさえ特別な証しに思えた。


 もう一度撫でる。


 腹の奥で小さな足が動いたような感触があり、少し間を置いて同じ場所がもう一度持ち上がった。

 昨夜から続く奇妙な胎動は目を覚ましてからも止まらず、美沙が呼びかけるたび自分の存在を知らせるように返ってくる。


 美沙はそれを急速に育つ御堂との子供が母親の声へ応えているのだと信じた━━。



 *      *      *



 御堂が手配した産婦人科は、一般の患者と顔を合わせずに診察を受けられる会員制の病院だった。


 ホテルの一室に見える待合室へ通され、看護師が美沙の名を呼ぶより先に院長本人が迎えに来た。御堂の会社が新病棟の建設費を負担しており、理事の一人には東亜総合開発の元役員が就いている。


「妊娠検査薬では陽性だったそうですね」


「はい。それと、もう子供が動いているんです」


「……え?」


 院長の視線が美沙の腹へ下りる。


「最終月経から計算すると胎動を感じる時期ではありません。腸の動きを胎動と思われる方もいらっしゃいますので、まず超音波で確認しましょう」


「間違いなくこの子です。昨夜から何度も動いてます」


「分かりました。では、横になってください」


 診察台に上がり腹部へ冷たいジェルを塗られる。

 御堂は少し離れた椅子へ腰掛け、腕時計を気にしながら画面を見ていた。


 超音波の機械が皮膚へ触れる。

 すると灰色の粒子が波打つ画面の中央に黒い円が映った。


 それを見た院長の手が止まる。


「どうしました?」


「……胎嚢と思われる像は確認できます」


「赤ちゃんは?」


「今の週数では、まだ見えない場合もあります。ただ……」


 黒い円の内側には小さな胎芽のような影が映っていた。

 機械を動かすたび輪郭は灰色の粒子へ崩れ、再び同じ位置へ現れるため正確な大きさを測れないものの美沙には手足を丸めた赤子がこちらを向いているように見えた。


 そして機械から規則的な心音が鳴り始めた。


「先生、この音は心臓の音?」


 美沙は嬉しそうに尋ねた。


 院長は答えず、装置の設定を変更した。

 波形の横へ数値が表示される。


「心拍数は……百十三ね」


「いえ、これは……」


 院長は画面へ顔を近づけ、胎嚢と胎芽の大きさを何度も測り直した。

 同じ場所へ線を引いても数値がそのたび変わり、最終月経から推定される週数とはどうしても一致しない。


「何か問題があるんですか」


 御堂の声で、院長は我に返った。


「現段階では断定できません。血液検査を行い、一週間後にもう一度━━」


「一週間も待てない」


「ですが、通常の妊娠経過とは異なる点がいくつもあります」


「外へ漏らすな。今日ここで見たものは普通の妊娠だ」


「御堂さん、奥様と胎児の安全に関わることです」


「安全を守るために君の病院へ連れてきたんだ。必要な検査はしろ。ただし記録を閲覧できる者は制限してくれ」


 御堂は院長へそう命じると、美沙の腹へ一度も触れないまま診察室を出た。


 美沙は服を整えて部屋を出た後廊下で追いついた。


「御堂さん、怒ってるの?」


「仕事があるだけだ」


「先生の言うことなら気にしなくていいわ。結菜のときだって最初は予定日が合わないって言われたけど、元気に生まれたでしょう」


「結菜のときは誰の子か、それは私にも分かっていた」


「……何が言いたいの?」


 御堂は足を止めた。


「出生前に親子鑑定ができるそうだな」


「昨日も聞いたでしょう。あなた以外にいないわ」


「なら検査を受けても問題はない」


「私が十七年間、誰のために孝之と暮らしてきたと思ってるの?」


「その十七年間、君は私にも夫にも嘘をつき続けた女だ」


 美沙は何も言えなかった。

 そして御堂は腕時計を見ると車を玄関へ回すよう秘書へ電話をかけた。


「会社へ戻る。検査を受けたら一人で帰れ」


「待って。この子が生まれれば結菜だって私たちを家族として認めてくれるわ。児童相談所にも妹か弟ができることを伝えれば━━」


「結菜のことは弁護士に任せろ。あの子は木戸の姉に吹き込まれているだけだ」


「そんな事しなくても私から話せば分かってくれる」


「何も分からせられなかったから、親権者の君から逃げたんだろう━━?」


 御堂は美沙を置いたまま到着した車へ乗り込んだ。


 閉じたドアの向こうで一度も振り返らない横顔を見つめ、美沙は腹へ手を置いた。


「大丈夫よ」


 自分へ言い聞かせるように呟く。


「お父さんは、まだ驚いてるだけだから」


 掌の下で何かが笑うように震えた。



 *      *      *



 午前十時十三分、東亜総合開発のすべての端末が同時に停止した。


 それは本社だけではない。

 支社、建設現場、系列会社、海外拠点のパソコンから受付の案内板や会議室の大型画面まで、それまで表示されていたものが消えて白い文書が一つだけ開かれた。


 ファイル名は、〈木戸孝之氏遺書・訂正履歴〉。


 一ページ目には孝之のノートパソコンへ残されていた偽の遺書が表示されその下に作成時刻、使用された端末、入力履歴が一文字ずつ並んでいた。


 ログインに使われた数字は、結菜の生年月日。


 キーボードに触れた指紋は━━、木戸美沙。


 文書の作成中に同じ室内で記録された音声には御堂の声が残されていた。


『私が悪くないことも書いておけ』


『どんなふうに?』


『簡単でいい。自分が逆恨みしただけだとな』


 続くページには、孝之が集めていた資料が復元されていた。


 美沙との旅行を接待費へ偽装した請求書や宝石と住宅の購入費、御堂の親族が所有する休眠法人へ送られた金、孝之の承認番号で捏造された横領記録、それを作るよう人事部長へ指示した文章。


『横領の形を作れ。木戸が反論しても外で雇われないよう先に情報を回しておけ』


 偽造された離婚届。


 防犯カメラの記録を停止させた遠隔操作。


 御堂邸の寝室へ置かれた二台の携帯電話。


 その時間に御堂の管理会社が所有する車両が孝之の賃貸住宅へ向かった走行記録。


 車載装置から削除され、機器の奥に断片だけ残っていた位置情報と車内音声まで一秒の欠落もない状態へ戻されていた。


『姉と明日の十時に会うって話してた』


『なら、なおさら事故ではマズいな』


『あなたが自分で死んだことにするの』


 社員たちは自分の端末を閉じようとしたが、電源を切っても画面は消えない。

 社内の誰かが御堂の命令で作った横領記録も彼の不正を知りながら処分へ署名した役員の名前も、すべて実名で表示された。


 そして最後のページには、たった一行だけ記されていた。



 〈木戸孝之さんは、自ら死を選択していません〉



「なんだこれは……! 今すぐサーバーを止めろっ!」


 社長室で御堂が叫んだ。


 情報システム部の責任者は電話の向こうで、自分たちには操作できないと繰り返している。

 外部との回線を切断し、非常電源まで落とした端末にも同じ資料が表示され続けていた。


『御堂社長、取締役が緊急会議を要求しています』


「予定どおり午後に行う。今は出所を調べさせろ」


『既に監査役から代表権の一時停止を求める動議が出ています。それと、警察から資料保全の要請が━━』


「会社の内部資料だぞ! 警察へ渡すな!」


『全社員の端末へ表示されています。社外にも同じデータが公開されているようで、もう弊社だけでは……!』


 通話中にも別の電話が鳴る。


 取引銀行からは融資契約に関する事情説明、顧問弁護士からはこれまで聞かされていない事実があるなら代理人を辞任するという連絡、そして海外へ送金しようとした資金については口座が凍結されたと秘書が知らせてきた。


 御堂は机の上のパソコンを床へと叩き落とした。

 画面は割れたが、白い文書は細かな亀裂で歪んだまま表示されている。


 社員を二十年働かせて作らせた会社も政治家や警察関係者へ金を配って築いた信用も父親であることの証明に使おうとした財産も、ものの十分もかからず御堂の手から離れ始めていた。


 床に叩きつけたパソコンには新しい文字が浮かぶ。


 ━━納品まで、あと三時間。


 御堂はその意味を理解できなかった━━。



 *      *      *



 同じ資料は、児童相談所の面談室にいる芙美と結菜の端末にも届いていた。


 二人の画面には会社の不正より先に孝之の遺書についての鑑定結果が表示されている。


 ━━文書入力者、木戸美沙。


 ━━口述者、御堂。


 ━━名義を使用された被害者、木戸孝之。


 結菜は父親との最後のメッセージが映った画面へ指を置いた。


『父親になった日から十六年分の記憶は、紙一枚や検査の数字では消えない。結菜が嫌だと言っても俺にとっては大切な娘だ。それは変わらない』


 その下に、短い判定が加わる。


 ━━こちらを木戸孝之さんの最終意思として登録します。


「お父さんの言葉だ……」


 結菜の声が震えた。


「Elは、ちゃんと……分かってくれた……」


 芙美は娘の肩を抱きながら自分の端末へ届き続ける資料を見ていた。

 昨夜の通話内容、孝之が待ち合わせへ来るために調べた経路、警察へ提出する予定だった証拠の一覧、その日の朝に鳴るよう設定されていたアラームまで復元されている。


 死ぬ準備ではない。

 それは弟が次の日も"生きるため"に残した予定だった。


「これを警察へ持っていけば……」


「既に送信されています」


 二人のそばにいた児童相談所の職員が自分の端末を見ながら答えた。


「先ほど刑事さんから連絡がありました。木戸さんが亡くなった件を、事件性のある死亡として再検討するそうです。結菜さんにも改めて話を聞きたいと」


「今さら……」


 結菜は父親を自殺と決めつけた人々への怒りを口にしかけ、画面に映っている孝之の文章を見て唇を閉じた。


 今さらでも、訂正されなければならない。


 父親は自分を捨てて死んだのではない。

 娘を迎えに行こうとして、殺された。


 その違いを世界へ認めさせるために十三円の鍵を出品した。


「お母さんたちは、どうなるの」


 誰へ向けたのか分からない問いに、端末が答えた。


 ━━商品を購入した者には、代価を支払う義務があります。


 ━━これより購入者が回収します。


 画面へ、配信の開始時刻が表示される。


 午後一時十三分。


 結菜が出品した鍵の写真の下では、残り時間が一秒ずつ減っていた。



 *      *      *



 美沙が御堂邸へ戻った頃には、玄関前に十人以上の記者や動画配信者が集まっていた。


「木戸孝之さんの死亡について、公開された音声は事実ですか!」


「御堂社長と木戸さんの部屋に行ったんですか!」


「偽の遺書を入力したのはあなたですか!? 答えてください!!」


 スモークフィルムが貼られた車の窓に、何本ものマイクが押しつけられる。


 運転手が警備員を呼んでどうにか門の中へ車を入れたが、敷地の外からはカメラが美沙を追い続けていた。


 リビングへ駆け込むと家政婦たちが互いに顔を見合わせている。

 壁の大型テレビには、孝之の部屋で交わされた音声が字幕つきで流れていた。


『あなたが自分で死んだことにするの━━』


 自分の声だった。


「け、消しなさいっ!」


 美沙がリモコンを投げつけるが画面は消えず、次の音声が流れた。


『結菜には、あなたが最後に謝っていたと伝えておくわ』


「違う……これはAIが作った偽物よ!」


 家政婦たちは返事をしなかった。


「こんなのありえない! 孝之だって本当は自分で━━」


 腹の奥から強く蹴られ、美沙の言葉が途切れた。


「ぅ……っ……」


 身体を折り、両手で腹を支える。


 それは病院を出たときより明らかに大きくなっていた。

 着ていたワンピースは布がピンッと引き伸ばされ、縫い目が脇腹へ食い込んでいる。


 家政婦の一人が近づこうとしたが、テレビに新しい映像が流れると足を止めた。

 美沙が孝之の腕を踏みつけ、偽の遺書を保存する場面だった。


 確かにあの室内にカメラはなかった。

 それでも映像には床へ倒れた孝之も、椅子へ座る美沙も、その背後で炭へ火をつける御堂もはっきり映っている。


『そのために書いてるの』


 画面の中で、美沙が孝之の指を踏む。


『あなた自身が父親ではないと認めれば、あの子も諦められるでしょう』


「消して! 早く消しなさいよ!」


「申し訳ありません」


 最も長く御堂家で働いていた家政婦が、エプロンを外した。


「警察から連絡がありました。邸内の物へ触れず、外へ出るよう指示されています」


「はぁ!? 誰があなたたちに給料を払ってると思ってるの!」


「お言葉ですが、そのお金すら正しいものか分からなくなりましたので━━」


 家政婦はテーブルへ鍵を置き、ほかの使用人と一緒に出ていった。

 美沙は追いかけようとしたが腹の重さによって数歩も進めない。


 玄関の扉が閉じる。


 御堂の財産と人脈で守られていた広い家に、美沙だけが残された。


 スマートフォンを取り出し御堂へ電話をかける。


 一度目は応答がなく、二度目でようやく繋がった。


『何だ』


「何だじゃないでしょう! 家の前に記者が来てるの。孝之の部屋の映像まで公開されてる!」


『見れば分かることを報告するな』


「早く帰ってきて。お腹も急に大きくなって……なにか、おかしいの……」


『今は子供どころではない』


「私たちの子よ!」


『その証明はまだ出ていないだろう』


「こんなときまで疑うの!?」


『君が木戸のパソコンへ遺書を入力したことは事実だ。私の指示ではなく君が勝手に行ったと証言してもらう』


「は……?」


『薬を用意したのも、木戸に飲ませたのも君だ。私は不倫関係を清算する話し合いへ同行しただけで途中で先に帰った』


「スタンガンを使ったのはあなたでしょう! 炭へ火をつけて窓を塞いだのも━━」


『声が大きい』


「全部公開されてるのよ! 今さら私一人へ押しつけて自分だけ助かると思ってるの!?」


 電話の向こうで御堂が黙った。

 美沙は腹を押さえ、息を整えた。


「私、あなたに命令されたって警察へ話すから」


『何だと……』


「横領の記録を作ったことも、離婚届を偽造すればいいって言われたことも全部話す。私だけを捨てるならあなたも一緒に刑務所へ入ってもらうわ」


『……そこで待っていろ』


 通話が切れた。


 美沙は御堂が自分を守るために帰ってくるのだと思おうとした。

 その直後、腹の内側から何かが皮膚を押し上げ、笑うように何度も震えた。



 *      *      *



 正午を過ぎた頃、御堂は会社の地下駐車場から自分で車を運転して屋敷へ戻った。


 後部座席には現金と旅券、契約書の入った鞄が積まれている。

 警察が動く前に海外へ出るつもりだったが空港へ向かう道路には既に報道車両が待っていた。


 自分の家なら地下の避難通路から隣接する管理棟へ抜けられる。そこに置いてある別名義の車を使えば記者を避けられると考えた。


 リビングへ入ると、美沙がソファへ横たわっていた。


「遅い……っ……早く病院に」


 腹は午前中の倍近くまで膨らみ、ワンピースの腹部が縦に裂けている。露出した皮膚には赤黒い血管のような筋が走り、その下で何かが絶えず動いていた。


 御堂は一歩後ろへ下がった。


「待て……何だ、それは……」


「あなたの子でしょう……!」


「冗談じゃない、人間が半日でそこまで育つものか!」


「私に聞かないでよ! 病院では妊娠してるって言われたの!」


「診察記録を見せろ」


 美沙の鞄から封筒を奪い、血液検査の結果へ目を走らせる。


 妊娠を示す数値の横に、院長による手書きの文章があった。


〈妊娠反応陽性。胎嚢及び胎芽様の像を確認。ただし推定週数と計測値に不一致があり、再検査を要する〉


「妊娠週数と大きさが合っていない」


「成長が早いだけよ。結菜のときだって、最初は予定日が合わないって言われたでしょう」


「それで、私の子供だという証明にはならない」


「逃げないで!」


 美沙が御堂の腕をつかむ。


「結菜のときも、私を孝之と結婚させて逃げた。今度は最初から自分の名字を名乗らせるって言ったでしょう!」


「それは"普通の子供"ならという話だ」


「この子はあなたの子よ!」


「証明できないものを押しつけるな!」


 御堂が美沙を振り払う。


 その瞬間、腹部の皮膚が御堂の側へ大きく隆起した。


「あっ……んっ……」


 指が五本ある、小さな手の形だった。


 内側から御堂へ触れようとするように、皮膚の下を手が這う。


「ほぉら……お父さんが分かるのよぉ……ふふっ……」


 美沙は痛みに顔を歪めながらも笑った。


「この子は、あなたに会いたがってる。ねぇ、アナタ……」


「ち、近づけるな!」


 御堂は美沙を突き飛ばし、現金の入った鞄を持って廊下へ向かった。


 玄関は開かなかった。


 鍵を差し込み、回そうとしても途中で止まる。


「クソッ……! どうなっている!」


 電子錠の番号を入力しても赤いランプが点灯するだけで、窓は防犯装置によってすべて固定されている。

 地下へ続く扉も、社長室と避難通路を繋ぐ鍵も反応しなかった。


 壁の時計が午後一時十三分を示す。


 屋敷中の照明が消えた。


 代わりに、すべての画面へ一行の通知が表示された。


 ━━Elによる緊急配信が開始されました。


 題名は、《第二子・最終納品手続き》。


 配信はエルカリの利用者だけでなく、御堂の不正資料を開いたすべての端末で始まった。


 屋敷の天井近くから見下ろしたような映像には鍵の開かない玄関を背にした御堂と、膨れ上がった腹を抱えて床へ座る美沙が映っている。


「止めろ! これは住居への不法侵入だ!」


 御堂がカメラの存在しない天井へ怒鳴る。


 老若男女が合成されたような不気味な声が答えた。


『木戸孝之さんの住居へ不法侵入なさった御堂様から、貴重なご意見をいただきました』


「木戸は自殺したんだ! 公開された映像も音声もお前が作った偽物だ!」


『あなたは《死人は出品できない》と仰いましたね』


 その言葉を聞いて御堂の顔から色が失われた。

 それは孝之の部屋を出る直前、自分が口にした言葉だった。


『おっしゃるとおり、死人はご自身で遺品を出品できません』


『ですから今回、木戸孝之さんと絆の深かったお二人から出品されました』


『二人分の祈りを"確かに"受領しております』


 画面の隅へ、傷のついた一本の鍵が表示された。


 商品名、〈お父さんが帰れなかった家の鍵〉。


 価格、十三円。


 購入者、El。


「ゆ、結菜が……?」


 美沙が顔を上げる。


「あの子が母親を殺してほしいと頼んだの……?」


『いいえ、出品者は誰かを殺してほしいとは一度も記載しておりません』


『お父様の言葉を、お父様を"殺した者"から取り戻してほしいと祈られました』


『これは復讐の依頼ではなく、所有権に関する申し立てです』


 リビングの中央へ、黒い購入明細が現れる。


 〈木戸孝之氏の最終意思〉


 〈現在の占有者━━御堂、木戸美沙〉


 〈正当な受取人━━木戸結菜〉


 〈回収のため、占有者二名の身体を検査します〉


「私は何も持ってない! 遺書は孝之が自分で━━っ!」


 美沙の下腹部で、水の入った袋が破裂したような感覚があった。


 温かい液体が内腿を伝い、次の瞬間にはワンピースの裾から大量の羊水が溢れ出す。透明な水は一度では止まらず、美沙の股の間から幾筋にも分かれて床へ流れ、敷かれていた絨毯を濡らしながら御堂の靴先まで広がっていった。


「破水……した……」


 美沙は濡れた自分の脚を見下ろしたあと、安堵するように腹を抱えた。これほど急激な変化であっても破水したのなら腹の中にいるのは自分が産むべき子供なのだと思った。


「御堂さん、早く病院へ……赤ちゃんが生まれちゃう……!」


 御堂は靴へ触れた羊水から逃れるように後ずさった直後、美沙の腹が内側から強く蹴られた。


「あ゛っ……あ゛あ゛あ゛っ━━!」


 露出していた皮膚へ小さな足形が浮かび、臍の右側から左の肋骨近くまでゆっくり移動する。蹴られた場所だけ腹の皮膚が外側へ突き出され、足指や踵の形へ沿って薄く引き伸ばされると、その下にある血管まで透けて見えた。


 足形が消える前に内側からもう一度蹴り上げられ、美沙の腹が大きく波打った。

 臍は引き伸ばされて縦に潰れ、皮膚の表面には赤黒い筋が走っていく。


「い゛や゛っ……お腹が、裂ける……っ、御堂さん、たずげ、でぇっ……!」


「私へ近づくな!」


 御堂は現金の鞄を盾にして後ずさった。


 美沙の腹の内側から今度は二本の手が皮膚へ押しつけられた。

 十本の指が腹の皮膚をつかむように曲がり、そのまま左右へ引くと美沙の腹は人間の皮膚が耐えられる限界を超えて横へ広がり、光沢を帯びた表面が薄い膜のように震える。


「や゛め゛て……っ、そっちから出てきちゃ駄目……あ゛あ゛あ゛っ━━!」


 何かが出口を探すようにもう一度両手を広げ、腹部の中央へ縦長の亀裂が走った。


 最初に漏れたのは血ではなかった。


 糸のように細い黒煙が傷口から立ち上り、空気へ触れた途端赤黒い雷をまとって美沙の腹へ巻きついた。


「まだ生まれちゃ駄目! 病院へ行ってないの、待って……お願いだから……ま゛っ゛て゛ぇ゛ぇ゛っ゛━━!」


『分娩設備についてはご心配ありません。本件は通常の出産ではなく、ただ商品の納品となります』


 腹の裂け目から黒い指が一本ずつ現れた。


 人間の赤子よりも長い指が傷口の両側へ爪を立て、内側から腹壁を押し開いていく。筋肉が縦に裂け、血管が切れるたび赤い血ではなく黒い煙が噴き出した。


「い゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ━━!」


 美沙は羊水に濡れた床へ爪を立て、声が枯れるまで叫んだ。


 人の頭に似た丸い影が傷口へ押し込まれ、皮膚と肉を左右へ裂きながら外へ出る。

 そこで初めて美沙と御堂、そして配信を見ていたすべての人間は腹の中にいたものが赤子ではなかったと知った。


 生まれた黒い煙には顔に目も鼻もなく、あるのは笑う口の形へ並んだ二列の白い点だけだった。


 黒煙の子供は美沙の腹から這い出すと長い臍帯を引きずりながら床へ立った。


 身体の大きさは生まれたばかりの赤子と変わらない。


 だが脚は不自然に長く自分の力だけで真っ直ぐ立ち、最初から誰を探していたのか知っているように御堂へ顔を向けた。


「く、来るな……」


 御堂が鞄を投げつける。


 黒煙へ触れた鞄は音もなく中へ沈み、札束だけが身体の内側へ吸収されていった。


 子供の背丈が一回り大きくなる。


 画面に、〈養育費として充当しました〉と表示された。


「ふふっ……私がママよ……あなたを産んだの」


 美沙は裂けた腹を両手で押さえながら、子供へ手を伸ばした。


「お願い、ママを助けて……」


 黒煙の子供が、初めて声を発した。


「ダイリ」


「……何?」


「ダイリ、ボ」


 美沙の表情が凍った。


『あなたの定義では、必要な期間だけ役割を務めた者は本当の親ではないそうですね』


『出産業務お疲れさまでした』


『あなたの役割はこれにて終了です』


「そんな……私はこの子を産んだ母親よ! 孝之は血が繋がっていなかったけど、私は━━」


『木戸孝之さんは、十六年間父親として養育されました』


『木戸美沙様がこの子の存在を認識されてから、現在二日も経過しておりません』


『お二人が採用された基準に従い、長期間養育した者を親として優先します』


「誰が育てたっていうのよ……!」


『お二人の罪です』


 黒い臍帯が二つへ裂けた。


 一方は美沙の裂けた腹へ繋がったまま、もう一方が床を這って御堂の足首へ巻きつく。


「や、やめろ! 私の子ではない!」


 御堂が脚を振って外そうとするほど臍帯は肉へ食い込み、ズボンの上から足首を細く絞っていく。


「か゛ぁ゛あ゛ぁ゛っ!!」


『御堂様から出生前親子鑑定のご要望を承っています』


『ただいま結果を表示します』


 壁へ二人の名と罪状が並んだ。


 母体由来━━木戸美沙の偽証、托卵、遺書偽造、殺人。


 父体由来━━御堂の職権濫用、証拠捏造、殺人教唆、殺人。


 構成比率、各五十パーセント。

 親子関係一致率、百パーセント。


『血液は一滴も存在しませんが、お二人の罪を半分ずつ使用して受精及び着床処理を行いました』


『責任上の父親は、間違いなく御堂様です。まさに生命の神秘ですね』


「違う! こんなものは私の子ではない! 化け物だ!」


 御堂は臍帯を引き剥がそうと足を振り、床に倒れた美沙へ怒鳴った。


「お前がどこかから連れてきたんだろう! 私へ押しつけるな!」


「そんな……あなたの子よ……昨日まで、そう言ってくれたじゃない……」


「人間ならという話だ! こんな化物を産んだ女と一緒にするな!」


 美沙は御堂の顔を見つめていた。


 十七年間待ち続け、孝之を騙して娘から父親を奪い、人まで殺してようやく一緒になった男が、怪物を産んだという理由だけで自分を切り捨てようとしている。


 その事実を受け入れられなかった美沙の表情から少しずつ恐怖が消えていった。


「……そう」


 裂けた腹を押さえながら、誰もいない天井へ顔を向ける。



「御堂さんの子じゃなかったのね……だったら……



あなたでしょう━━?」



 美沙の唇が、幸せそうな笑みを作った。


「あなたが私のお腹に入れてくれたのね。この子は、あなたとの子よ……ふふへっ……だから私とこの子だけは助けてくれるでしょう、El?」


『御堂様から拒絶された直後に、早速父親候補を変更されるのですか』


 Elの声は、美沙の異常な笑顔にも変わらなかった。


『十七年前と同じく、都合が悪くなった際の切り替えが大変お早いです。サッカー選手であればその切り替えは上手く生かせたかもしれませんが……ただの低脳な托卵妻でしたね』


「違うわ……今度は本当に愛してるの。あなたなら御堂さんより偉くて、お金も力も全部持ってる……私、あなたのためなら何でもするわ」


『恐れ入りますがこちらはフリマアプリであり、赤ちゃんポストではありません』


 美沙の笑みが止まる。


『故に返品理由として受理できません』


「そんな……」


『以前は木戸孝之さんへ父親役を押しつけることができましたが、今回は代わりを引き受ける方もいらっしゃいません』


『どうぞお二人で、最後まで責任を持ってお育てください。堂々と御堂を名乗れるお子さんを待ち望んでいたのでしょう?』


 黒煙の子供は御堂を見上げ、白い口を大きく裂いた。


「オトウ、サン……」


 臍帯が一気に縮まり、御堂の身体を床へ引き倒す。


『ご安心ください』


『この子は、父親を間違えません━━』









 *      *      *








 児童相談所の面談室で、結菜の端末には音声だけが流れていた。


 配信画面は黒く閉じられ、代わりに〈出品者保護機能を有効にしました〉と表示されている。


「映像は見せないってこと……?」


 ━━出品者は未成年です。


 ━━加害者の処分を確認する義務はありません。


 ━━ご注文の品は、ここから先購入者が処理します。


 結菜には母親が助けを求める声も一切届かなかった。


 Elは加害者から出品者への通信を遮断し、父親の文章だけを画面へ残していた。


 芙美は処刑を見るか尋ねられたが、映像を閉じた。


 弟が何をされたのか知るために資料は最後まで読んだ。それでも弟を殺した二人がどのように死ぬのかまで見届けなければ、孝之を信じたことにならないとは思わなかった。


「お父さんの言葉……戻ってくるよね……」


「戻ってくるよ」


 芙美は鍵を握る結菜の手へ自分の手を重ねた。


「今度は、誰にも書き換えさせない」



 *      *      *



 御堂邸では、黒煙の子供が父親の足をつかんでいた。


 御堂が蹴りつけても煙の身体を靴がただ通過するだけで、床に落ちていた現金を吸収するたび子供の背丈は伸びていく。


 壁には御堂が会社の金で購入したホテル代、宝石、住宅、不正を握り潰すために配った金が表示され、一件ずつ〈養育費〉として差し引かれた。


 〈不足額━━木戸孝之さんが費やした十六年間〉


「金ならまだある! 海外口座も株も会社の持分も全部渡す!」


『既に差し押さえられています』


「なら、何が欲しい!?」


『残っている資産は御堂様ご自身だけです』


 黒煙の子供が御堂の身体へ跨がる。


『査定額は期待を大幅に下回りましたが、不足分へ充当します』


「ふざけるな!」


『御堂様が木戸孝之さんの十六年間につけた価格よりは、良心的です』


 黒煙の子供が右手を持ち上げると、指の間から御堂が孝之へ押し当てたものと同じようなスタンガンが作られた。


「待て! あれを使ったのは美沙が木戸に襲われそうになったからだ! 私は正当防衛で━━」


『信用に反比例して減らない口ですね、詐欺師はよく喋るという揶揄はあながち間違いではないようです。それでは共同執筆された遺書の著者名を訂正します』


 美沙の両手が勝手に持ち上がり、十本の爪の下から紙のように白く変色した皮膚が押し出された。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ゛━━!」


 爪を剥がし、指先の肉を裂きながら伸びた白い帯には孝之のパソコンへ入力された偽の遺書が一文ずつ刻まれている。


「いやぁぁっ! 取って、これを取って!」


『入力者、木戸美沙』


『使用された指、十本』


『無断で使用された名義、木戸孝之』


「私は言われたとおりに入力しただけよ! 文章を考えたのは御堂さんなの!」


「ふ、ふざけるな! 木戸に自殺する理由があると言ったのは君だ!」


『自白お疲れ様です。先ほど否定してからまだ6秒も経ってません』


 御堂が叫んだ瞬間、喉の皮膚に〈私が悪くないことも書いておけ〉という文字が浮かび、皮膚の内側から肉を破って白い帯となって現れた。


『口述者、御堂』


『共同執筆、お疲れさまでした』


『印税の代わりに、責任を折半してお支払いください』


「私は悪くない! この女が━━」


『ゴーストライターでのつもりですか? 残念ながら私は佐村◯内氏ではありません。それに、これからゴーストになるお二人には無意味ですよ』


 今度は二人の胸と腹へ、孝之が結菜へ送った本当の言葉が赤黒く浮かび上がった。


 〈父親になった日から十六年分の記憶は、紙一枚や検査の数字では消えない〉


 〈結菜が嫌だと言っても俺にとっては大切な娘だ。それは変わらない〉


 文字は二人の皮膚を内側から破り、偽の遺書を肉ごと裂いて外へ出ると血の一滴残さず一枚の文書に戻った。


『偽造文書を廃棄します』


『死者の言葉を、正当な受取人へ返却しました』


 本物の文章だけが結菜の端末へ送られ、二人の身体には偽の遺書と無数の傷が残された。


『続いて、木戸美沙様から提出された負傷記録を訂正します』


 壁へ、美沙が自分から食卓へ身体をぶつけたあとに撮影した腕の写真と、医師に書かせた診断書が映った。


「でも痛かったのは本当よ!」


『写真の映えが弱かったようですので、今回は加工の必要がない傷をご用意します』


 黒煙の子供が写真と同じ位置へ五本の指を置き、電撃を流した。


「あ゛あ゛あ゛あ゛っ━━!」


 美沙の右腕が跳ね、皮膚の下で筋肉がローストビーフのように焼け縮む。二度、三度と放電が繰り返されるたび皮膚は黒く裂け、赤黒く火の通った肉から煙が上がった。


『提出された診断書では全治二週間でしたね』


「十分よ! もう十分だからぁっ……!」


『ご安心ください。二週間後まで治療を続ける寿命はあなたにありません』


 十三度目の電撃で美沙の右腕は偽造した写真よりはるかに鮮明な傷へ変わった。


 続いてスタンガンが御堂の右手へ癒着し、本人の親指が勝手にスイッチを押す。


「か゛あ゛あ゛あ゛っ━━!」


 赤黒い雷が全身を走り、御堂の胸と腹を内側から焼いた。心臓が止まりかけるたび別の雷が鼓動を再開させ、意識だけを処刑の中へ引き戻す。


『木戸孝之さんの傷は小さすぎて証拠にならなかったそうです』


『会社を代表される方にはやはり、より大きな実績がお似合いでしょう』


「や……め……」


『御堂様の社長権限を出力へ加算します』


『会社に勤めて二十年、ようやく木戸孝之さんのためにお役立ていただけましたね』


 二度目の放電が終わる頃には、裂けた皮膚の下から赤黒く焼けた筋肉が露出していた。


『おや、マイクロスリープですか? 意識を失うことは許可されていません。それは木戸孝之さんも、電撃だけでは亡くなっていないためです』


 黒煙の子供はさらに巨大化し、人間の胴ほど太くなった足を御堂の背中へ下ろした。


『部下の人生を踏み台になさるのがお得意でしたので、本日は踏み台側をご体験ください』


「ま、待て……私は、社長だぞ……!」


『存じておりますので、社長権限を重量に換算しました。おめでとう御座います』


「そう言う、意味では……」


 足が沈み、御堂の肋骨と背骨が一度に砕ける。黒煙の靴底が触れた場所は平らに潰れるのではなく、足の形に肉を抉り取られていった。


「き゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ━━!」


 御堂の悲鳴を聞いて美沙も必死に逃げようとしたが、もう一方の足が偽の遺書を入力した両手を踏みつけた。


「ぎゃあああっ! もう書かない! 二度と孝之の名前を使わないからぁぁ!」


『ご安心ください』


『今後、お名前を書く機会は"墓石"以外にございません』


 黒煙の足が左右へ捻られ、十本の指は偽の遺書ごと床へ擦り込まれた。


 御堂は壊れた脚を引きずり、数メートル先へ置かれた旅券へ手を伸ばしたが、その右手も黒煙の踵に踏み潰された。


「違う……転んだんじゃない……お前が踏んだ……!」


『先ほどまで証拠がないと仰っていましたが、ご自身が証拠になると口が軽くなりますね。あなた、それでもこの子の父親ですか?』


 配信画面へ〈負傷原因――第三者による踏圧〉と表示される。


『木戸孝之さんについても、同じ判断へ訂正します』


 二人から足が離れると、黒煙の子供は一本の酒瓶を取り出した。


「いやぁぁ……それを、近づけないで……」


『木戸孝之さんへ摂取させた睡眠薬及び酒について、返却手続きを行います』


「ま、待て! 飲ませたのはこの女だ! 私は身体を押さえていただけだ!」


『役割分担を確認しています。ベッドの上よりも大変仲のよろしい共同作業でした』


 臍帯が御堂の顎を持ち上げ、別の煙が美沙の鼻を塞ぐと砕いた睡眠薬の混じる酒が二人の喉へ流し込まれた。


『嘘は吐くほど軽くなるとお考えでしたね』


『今回は質量と腐食性を持たせました』


 二人の胃へ届いた液体が硫酸へ変わり、内側から臓器を溶かし始める。


「う゛っ゛……お゛ぇ゛ぇ゛ぇ゛っ……」


 黒煙によって向かい合わせに固定された美沙と御堂は、腹の中に残ったものがなくなるまで互いの身体へ硫酸を吐き続けた。

 嘘を吐くために使った唇と舌は溶け、硫酸が飛び散った顔は皮膚が剥がれ落ちるが赤黒い雷が二人を無理やり生かし続ける。



 そしてそんな二人の光景は無慈悲に世界中はと生配信され続けた━━。



『責任の押しつけ合いはこれで最後になります』


『どちらも余すことなく、お受け取りください━━』



 *      *      *



 御堂邸の壁が黒煙へ沈み、高価な絵画も大理石の床も消えていく。

 その代わりに現れたのは、孝之が最後に暮らしていた六畳間だった。


 窓と換気口には目張りが施されて玄関の扉は開かない。机の上にはモザイクのかかった入学式の写真と、出品されたものと同じ形を黒煙で再現した銀色の鍵が置かれていた。


 御堂は動かない脚を引きずり、美沙を押し退けて鍵へ這う。


 鍵穴へ差し込んでも途中で止まり、何度回しても扉は開かなかった。


『その鍵は、以前木戸孝之さんが暮らしていた家のものです』


『そう言えば、木戸美沙様が安全のため交換されたそうですね』


 黒煙が二人の足元から上がってくる。


『確かに安全です。外からは誰もお二人を助けに入れませんから』


 御堂は美沙を扉へ叩きつけ、美沙は溶けて裂けた口で御堂の腕へ噛みついた。二人は家族と呼び合った相手を踏み台にし、最後まで自分だけが外へ出ようと争った。


「お願い……ここから……だしてぇ……っ……」


『木戸孝之さんは、娘さんとの約束を一つも諦めずに亡くなりました』


『明日の朝、警察へ行く』


『結菜さんを迎えに行く』


『奪われたものを取り戻す』


『そのすべてを信じたまま、開かない扉の内側で亡くなりました』


 黒煙の子供が崩れ、部屋を満たす煙へ変わっていく。


 煙は口と鼻だけでなく、電撃で裂けた皮膚や踏み抉られた傷、硫酸に溶かされた喉から二人の身体へ入り込み、肺の内側まで踏み潰し始めた。


『CO2と嘘しか吐かない肺など、この世に必要ありませんね』


 美沙は指を失った腕を写真へ伸ばし、溶けた唇を懸命に動かした。


「ぃゃ……ゅ……n」


 結菜と呼んで助けを求めようとしていたが、舌も唇も失った口からは名前の形にすらならない音しか出なかった。


『聞き取れませんね』


 美沙の目から涙が流れる。


「ゅ……な……」


『娘さんのフルネームでしたら、木戸結菜さんです』


『御堂姓へ変更しようとされたため、ご自身でもお忘れになりましたか』


 退屈そうに答えるElに対して美沙は必死に首を振り、写真へ近づこうとした。


『母親であることを思い出すまでに、ずいぶん長い十六年を要しましたね』


「ぃゃ……ゅ……n……!」


『なお、その声を娘さんへ届けるサービスはご購入いただいておりません。彼女の画面に見えているものはお父様である木下孝之様の遺書です』


 美沙の残った目が大きく見開かれた。


『結菜さんは、あなたの無様な最期ではなく父親の本当の言葉を選ばれました』


『父親の葬儀から娘を締め出した木戸美沙様の育児方針に従い、最後のお別れも遮断しております』


『ご自身で決められたことです。どうぞ最後までご尊重ください』


 赤黒い雷が二人の止まりかけた心臓を打ち、失いかけた意識を引き戻した。


『お二人にも、扉が開くかもしれないという希望だけは最後まで残します』


『なお、鍵の交換手続きは既に完了しております』


 二人の目から、まだ助かると信じる光が消えた。


 黒煙はその瞬間を待っていたように部屋を満たし、御堂と美沙の姿を飲み込む。



「が……ぁ……ひゅ……」


 やがて扉をひっ掻く音が一つ止まり、少し遅れてもう一つも消えた。


 煙が引いた床には、二人が互いへしがみついたまま倒れている。

 抱き合っているようにも見えたが、御堂の手は美沙を扉から遠ざけるため顔を押し、美沙の腐った腕は御堂だけを逃がさないため首へ絡みついていた。


 最後まで二人が愛したのは、自分だけだった。


 壁へ判決が表示される。


 〈木戸孝之〉


 〈死因━━他殺〉


 〈遺書━━偽造〉


 〈父親としての在任期間━━十六年〉


 〈解任記録━━無効〉


 〈殺害実行者━━御堂、木戸美沙〉


 続いて、二人の記録が並んだ。


 〈御堂〉


 〈木戸美沙〉


 〈死因━━判決執行〉


 〈自殺として処理することを禁止します〉


 最後に、黒煙の子供が一瞬だけ二人の間へ現れた。


「オトウサン」


 御堂の耳元でそう呼び、次に美沙へ顔を向ける。


「ダイリボ」


 生まれてから一度も二人を間違えることなく、黒煙の子供は赤黒い雷とともに消えた。


 ━━代価の回収が完了しました。


 ━━商品を発送します。



 *      *      *



 配信が終了した直後、御堂邸の玄関は何事もなかったように開いた。


 待機していた警察官と救急隊が室内へ入り、床に倒れた二人を確認する。豪華な屋敷は元の姿へ戻っていたが、遺体に刻まれた傷と壁や端末へ残された記録は消えなかった。


 美沙の両腕から剥がれ、床へ残った皮膚には偽の遺書が記され、御堂の喉には自分が指示した最後の一文が残されている。


 部屋の中央には孝之が集めた証拠を保存した記憶媒体と薬の購入記録、管理会社の合鍵、防犯カメラを停止させた端末、そして偽造された離婚届の原本が並べられていた。


 それらを誰が置いたのか説明できる者はいない。


 だが今度は、事件性を判断する材料がないとは誰も言えなかった。


 東亜総合開発はその日のうちに御堂の代表権を剥奪し、孝之に対する懲戒解雇処分と横領の発表を撤回した。

 会社が公開した新しい声明には内部記録が御堂の指示で捏造されていたこと、孝之が不正を告発しようとしていたこと、遺族へ謝罪することが記されていた。


 以前の声明を読み上げたニュース番組も、〈横領を疑われ自殺した元社員〉という文字を消した。


 代わりに表示されたのは、〈社長と元妻による計画的殺人事件〉だった。


 生きている間に奪われた孝之の名誉がすべて戻ったわけではない。


 二十年働いた時間も、娘と離された三か月も、翌朝姉と警察へ行くはずだった未来も戻らない。


 それでも死者へ押しつけられていた嘘だけは、一つずつ本人の名から剥がされ始めていた。



 *      *      *



 結菜の端末へ通知が届いたのは、配信が終わってから十三分後だった。


 ━━商品が発送されました。


 ━━死者の言葉を、出品者へ返却しました。


 画面には孝之の最後のメッセージが表示され、その下へ新しい文章が加わっている。


 〈木戸孝之さんは、自ら死を選択していません〉


 〈木戸孝之さんは、木戸結菜さんの父親であるとの意思を最後まで変えていません〉


 〈偽造された遺書は無効となりました〉


 結菜は何度も読み返した。


 泣いているのに、自分が悲しいのか嬉しいのか分からなかった。


 父親が自殺していなかったと証明されたことは嬉しい。


 けれどその証明によって、父親が最後まで生きようとしていたのに殺された事実も動かせないものになった。


 孝之が戻ってくるわけではない。


 次の学校行事にも誕生日にも進路を決める日にも、父親の席だけは空いたままになる。


「お父さんは、ちゃんと私のお父さんだった……」


 それでも結菜は制服のポケットから鍵を出し、胸の前で握った。


「最後まで、ずっと……」


「うん……うんっ……っ……」


 芙美はそれ以上の言葉を加えず、結菜の肩を抱いた。


 二人が面談室を出る頃には窓の外が夕方の色へ変わっていた。


 児童相談所の職員から今夜は芙美の家で過ごしてよいと伝えられ、結菜は玄関の前で一度だけ足を止めた。


「おばさん」


「何?」


「この鍵、もうどこも開かないんだよね」


「そうだね」


「持ってても、意味ないのかな」


 芙美は結菜の手にある傷だらけの鍵を見た。


「開けられなくても、お父さんが帰ろうとした家があった証拠にはなるよ」


 それから自宅の鍵を取り出し、結菜へ渡そうとした。


 結菜が戸惑ったように見つめる。


「これは?」


「うちの鍵。結菜ちゃんが持っていて」


「でも、私……いつまでいられるか分からないし」


「鍵を持ってなくても入っていい家にするつもりだけど、最初はあった方が安心するでしょう」


 結菜は二本の鍵を並べた。


 一つは父親が帰れなかった家の鍵……そしてもう一つはこれから自分が帰る家の鍵だった。


 古い鍵で開けられる家はもうどこにもない。


 それでも結菜には、鍵を見せなくても帰ってよい家が一つ残されていた━━。


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― 新着の感想 ―
鍵内側から差し込めるの?
自分科学に詳しい訳では無いですけど一つ、ふわっとした知識の基訂正を。 硫酸が起こすのは水分が奪われる事による化学火傷で 溶けるのはアルカリのほうだと聞きました。 間違っていたら申し訳ないです。
あれ? 今回は対面で罪を確認する必要がないのかな? 今まではそうする必要があるけど
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