第五十七話 神は福引を外せない
御堂と木戸美沙の死から数日後の日曜日、和泉七緒は祈の部屋にある衣装箪笥を開けて三秒ほど中を見つめてから静かに扉を閉じた。
そして、もう一度開けた。
中に掛かっているのは学校の制服が二着、ミモザで使う白いシャツが三枚と黒いエプロンが二枚。
引き出しには下着や靴下が整然と畳まれているものの、休日に外へ出られる服と呼べそうなものは七緒が祈を拾った翌日に買った無地のスウェットしかない。
「祈くん」
「はい」
「後で着替えて」
床へ座り、七緒が渡した大盛りの焼きそばを食べていた祈は箸を止めた。
「これから勤務でしょうか」
「今日はお店の昼番を任せてあるから休み。それより、どうして高校生の服が制服とエプロンしかないのよ」
「どちらも身体を覆う用途は満たしています。もしかして著作権を無視したコスプレの方が良かったでしょうか」
「はい? 君はコミケでも行くの? そういう問題じゃありません。今日は買い物に付き合いなさい」
「強制ですか」
「保護者命令」
「随分と横暴な権限です」
祈はそう言いながらも反抗せずに焼きそばを残り三口で平らげた。
七緒が祈を引き取ってから生活に必要なものは少しずつ揃えてきたが、本人に希望を尋ねても毎回〈何でも構いません〉と返ってくる。
食事に関してだけは量、味、次に食べる時刻まで具体的な要求があるのに衣服や家具については驚くほど執着がなかった。
河川敷で暮らしていた頃、祈は身体に着ていた制服以外のほとんどを盗まれている。
必要なものがなくなることに慣れすぎると最初から欲しがらなくなるのかもしれない。
だからそう考えると七緒には『制服だけで十分』だという言葉を聞き流せなかった。
「買うのは普段着とアウターとそれから靴。嫌だって言っても最低二組は選ぶからね」
「服を増やすと、失ったときに困るものも増えます」
「無くなったらまた買えばいいの」
七緒は衣装箪笥の扉を開けたまま祈を見た。
「それに、ここに置いてあるものは勝手になくならないわ。私が捨てない限りね」
「七緒さんが捨てる可能性はあるのですね」
「洗濯籠へ入れずに三日放置したら考えます」
「それは衣服の処分ではなく、僕への処分ではありませんか?」
「分かってるなら片づけなさい」
祈は綺麗に整頓された室内を見回した。
脱いだ衣服を放置したことなど一度もない。
七緒もそれを知っているはずだが、最初から何もなくならないと約束することだけは照れくさかったのだろう。
「承知しました」
祈は立ち上がり、制服へ手を伸ばした。
「だから制服以外に着替えてって言ってるの!」
「では、エプロンでしょうか」
「店から一度離れなさい!」
「では裸エプ……」
「エプロンはもう良い!」
* * *
結局、祈は灰色のスウェットの上へ制服のコートを羽織り、七緒と郊外の大型商業施設へ向かった。
休日の館内は家族連れや若い男女で混み合い、吹き抜けには冬物衣料の値下げを知らせる旗が並んでいる。
七緒は近くの案内板を確認すると、逃げ道を塞ぐように祈の袖をつかんだ。
「最初は二階の服屋ね。そのあと靴を見て、地下で食材を買う」
「はい、提案があります。まず食材を先にしませんか」
「最後まで持ち歩くことになるでしょう?」
「それは僕が持ちます。男の子ですもん」
「そういう問題じゃないの。それに先に食べ物を買ったら、祈くんは目的を達成した顔でさっさと帰ろうとするじゃない」
「随分と僕の行動を理解していらっしゃる」
「一緒に暮らして分かったの。祈くんを動かしたいときは、食べ物を最後に置けばいいって」
「家畜の誘導と同じですね」
「そんなに大食いで綺麗な顔をした家畜がいてたまるものですか」
七緒は言ったあと、自分の口から出た言葉に気づいて前を向いた。
「ほら……今のは、一般論だから」
「家畜の容姿に関する一般論ですか?」
「聞き返さなくていいの!」
二人が入った店は若者向けの衣服を扱う明るい店舗だった。
七緒は迷いなく祈へ似合いそうな服を選び始めた。
黒の細身のパンツ、濃い灰色のニット、白いシャツ、柔らかな生成り色のセーター。
祈が値札を見るたび棚へ戻そうとするため、その手から奪い返して買い物籠へ入れていく。
「七緒さん、これは同じ用途の服が既にあります」
「色が違うでしょう」
「暗い灰色と、少し暗い灰色です。どちらもGLAYです。TERUです」
「全然違うわよ」
「人とは識別能力を衣料品店で無駄遣いしているのですね。コミケでよく見る無課金ユーザーのような男性たちの服装には世知辛いワケです」
近くで商品を畳んでいた女性店員が噴き出した。
「彼氏さん、面白いですね」
「ちがっ……か、彼氏じゃありません!」
七緒が即座に否定すると、店員は申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません、ご姉弟でしたか」
「それも違くて……」
「同じ家で暮らしている方です」
祈が補足した。
店員の目が七緒へ戻り、先ほどより意味のある微笑みに変わる。
「祈くんは黙ってて、余計にややこしくなるから」
「事実関係を正確にしただけですが」
「正確に説明するなら保護者って言いなさい!」
「七緒さんは二十六歳ですので、僕ほど大きな子供がいると色々"変な"誤解が生じます」
「年齢まで発表しなくていい!」
七緒が祈の背中を試着室へ押し込む。
「とにかく全部着て。似合わないものを戻すから」
「すべて同じ人間が着るのですから、大きな違いはないと思います」
「服を選ぶ楽しさを根本から否定しないで……」
カーテンが閉まり、しばらくして再び開いた。
最初に姿を見せた祈は、黒いパンツに濃灰のタートルネックを合わせていた。
余計な装飾がない分細い腰や長い脚、白い肌と赤黒い瞳が際立っている。
制服を着ているときには同年代の中にかろうじて収まっていた美しさが、私服に替わっただけで人間が許された範囲から一歩外へ出た。
祈が試着室を出ると店内の会話が一拍だけ遅れた。
鏡の前にいた女性が振り返り、恋人から呼ばれても気づかない。
別の店員は畳んでいたセーターを落としそうになり、通路を歩いていた少女たちは店へ入る予定もなかったのに足を止めて前髪を整え始めた。
「いかがでしょう」
「……うん」
「七緒さん?」
「似合ってる。ものすごく似合ってるから、そのまま少し動かないで」
「盗撮ですか」
「違う。私の心の準備」
七緒は胸元へ手を当て、一度大きく息を吸った。
自分より年下で保護しなければならない少年である。
毎朝食卓で米を消し、冷蔵庫を空にしては悪びれもせず〈育ち盛りですので〉と太々しい事を言う居候でもある。
何度そう言い聞かせても、鏡越しに目が合うと心臓だけが理解を拒んだ。
「首元が少し寂しいですね」
先ほどの店員が、深い紺色のマフラーを祈へ差し出した。
「よろしければこちらのマフラーも」
「ありがとうございます。チタンマフラーでは無いんですね」
「……は?」
祈が受け取ろうとする前に七緒が横から取った。
「待って、私が巻くからじっとして」
「自分でできます」
「祈くんに任せたら首へ布を一周させたものを完成形と言い張るでしょう。こういうのにもオシャレが肝心なのよ」
七緒は背伸びをし、祈の首へマフラーを回した。
柔らかな布を整えるため、両手を祈の肩へ置く。
近づいた顔に気を取られないよう結び目だけを見ていたが、指先が祈の顎へ僅かに触れた瞬間その冷たさが腕を伝って胸まで届いた。
「本当に体温低いわね。寒くないの?」
「寒さによる不都合はありません」
「感じるかどうかを聞いてるの」
「七緒さんの手と財布の中が冷たいことは感じています」
「私じゃなくて祈くんの話だよ!」
祈はマフラーを整える七緒の横顔を静かに見下ろした。
「今は、温かいですよ」
七緒の指が止まる。
「……マフラーが、でしょう?」
「はい」
「何で一拍置いたのよ」
「質問の意図を考えていました」
「考えなくていいところだけ考えるのね……」
七緒が逃げるように試着室のカーテンを閉めようとしたとき、通路の向こうで見ていた二人の女子高校生と目が合った。
二人とも祈と同じ学校の制服を着ている。
「え、あれ天羽君じゃない?」
「隣の人、彼女? 年上だよね」
「一緒に服選んで、マフラーまで巻いてたよ」
聞こえないよう声を落としているつもりらしいが、祈にはすべて聞こえていた。
「あの方達に誤解を訂正してきましょうか」
「行かなくていい! 祈くんが説明すると悪化するから!」
七緒は似合わない服だけを戻すという当初の予定を忘れ、祈が試着した服をほとんど買い物籠へ入れた。
* * *
同じ頃、吹き抜けを挟んだ反対側の通路を一ノ瀬と葵が歩いていた━━。
一ノ瀬が選んだ映画を見終えて予約してある店で昼食を取るまでの時間を潰している。
葵は隣を歩きながら何度もスマートフォンを確認していたが、誰からも新しい連絡は届いていなかった。
「何か見たいものある?」
「別に」
「じゃあ次の階へ行こう。葵が好きそうなアクセサリーの店があったから」
一ノ瀬が自然な動きで葵の手を握る。
以前なら嬉しかったはずの温度だったのに、今は指を閉じ込められている感覚しかなかった。
エスカレーターへ向かおうとしたとき、葵は女性たちが一方向を見ていることに気づいた。
その視線の先に、葵なら見間違えるはずのない少年がいた。
「祈……」
学校では制服以外の姿を一度も見たことがない。
それが今は黒に近い灰色の服を着て首には紺のマフラーが巻かれている。
その正面に立つ綺麗な女性が結び目を直し、祈はされるがまま相手を見下ろしていた。
女性が何かを言う。
祈が微笑む。
葵の知っている笑顔とは違った、そして美玲さんに向けているソレとも違う。
以前の祈は誰に対しても優しく笑った。
傷ついても怒らず、相手が自分を嫌っていると分かってもその人を困らせないために笑顔を作った。
だが今、女性へ向けた表情には我慢も怯えもない。
隣にいることを当然のように受け入れ、自分が戻る場所を知っている人間の穏やかさがあった。
葵の胸に、遅すぎる痛みが刺さった。
祈を信じなかった自分が、今さらあの笑顔を惜しむ資格などない。それでも半年前まで自分の隣にあったものを別の誰かが受け取っている光景から目を離せなかった。
「行こう、葵」
一ノ瀬が握った手へ力を込めた。
「待って……」
「何を待つんだよ」
穏やかな声だったが、葵の手首へ食い込む親指は痛いほど強かった。
「祈がいる」
「だから?」
「少しだけ、話を……」
「せっかく二人で来たのに、俺を置いてあいつのところへ行くのか?」
一ノ瀬は微笑んだまま葵の進路を塞いだ。
「天羽には、もう一緒に暮らしてる女がいるみたいだ。葵が心配する必要なんてないだろう」
その言葉が聞こえたのか衣料品店の中で祈が顔を上げた。
吹き抜けを挟み、二人の目が合う。
葵は反射的に手を上げようとしたが、一ノ瀬に握られた腕は動かなかった。
祈は葵を見ても驚かなかった。
助けを求めることも、一ノ瀬の指が手首へ食い込んでいることを責めることもない。
ただ一度だけ静かに目を伏せ、七緒から渡された紙袋を受け取った。
「祈くん、次は靴ね」
「食料品売り場が先では」
「まだ諦めてなかったの?」
二人が店を出て、人の流れへ消えていく。
葵の手首には一ノ瀬の指の形が赤く残っていた。
「葵」
一ノ瀬に名を呼ばれ、葵はようやく彼を見た。
「俺といるときに、あいつのことを見るなよ」
その口元は笑っていた。
河川敷の夜、祈を殴らせながら笑っていたことを葵だけはまだ知らなかった━━。
* * *
靴を二足、冬用のコートと普段着を三組買ったあと七緒は祈を連れて一階のペットショップへ立ち寄った。
「見るだけ、見るだけだからね」
「どなたに言い聞かせているのですか」
「私。目が合った子を全員連れて帰りたくなるから」
「一人分の食費で既に店の経営を圧迫していると伺いました」
「おやおや? それは誰のことかしらねぇ?」
「成長期の善良な高校生でしょうか」
「善良な高校生は朝から焼きそばを三人前食べないの」
二人が自動扉を通った瞬間、店内の音が消えた。
来客へ吠えていた小型犬が声を止め、ガラスへ前脚をついていた子犬たちは一斉に座る。
眠っていた猫まで目を開け、すべての動物が祈のいる方向へ顔を向けた。
止まり木にいた鳥は羽を畳み、籠の底に向けて頭を下げる。
水槽の魚は種類に関係なく祈の正面へ集まり、顔を向けたまま一列に並んだ。
爬虫類の展示棚ではとぐろを巻いていた白い蛇がゆっくり頭を伏せる。
「……祈くん」
「はい」
「何かした?」
「何もしていません」
「なんか全員、あなたに頭を下げてるように見えるんだけど」
「店の教育が行き届いているのでしょう」
「魚にまで接客教育してる店なんて存在しません」
店員たちも異変に気づき、祈と動物を交互に見ている。
その時、奥の手入れ室から大型犬が係員の腕をすり抜けた。
「あっ、待って!」
黒い犬は客を避けながら祈の前まで走ると勢いよく腹を見せて床へ寝転んだ。
太い尾が床を叩き、祈が手を伸ばすまで一歩も動こうとしない。
祈はしゃがみ、犬の頭へ触れた。
「僕は、あなた方の主人になった覚えはないのですが。Wanち◯〜るもジャーキーも持っていませんよ」
それでも犬は嬉しそうに鼻を鳴らした。
周囲の檻からは我も我もと前脚で扉を掻く音が鳴り始める。
鳥は祈の名を知らないはずなのに〈イノリ、イノリ〉と囀り、水槽の魚は触れてほしいように水面から跳ねた。
「で、出るわよ……!」
七緒が祈の腕をつかんだ。
「見るだけではなかったのですか」
「このままいたら店ごと家までついてきそうだから!」
祈が外へ出ると、動物たちは再び静かになった。
ただし大型犬だけは入口のガラスに顔を押しつけ、七緒に連れ去られる祈の背中をいつまでも見送っていた。
* * *
最後に向かった地下の食品売り場で、七緒は日用品を選ぶときとは別人になった。
米、肉、卵、野菜、調味料。家庭用の籠では足りず、途中から業務用の台車へ切り替える。
祈が食べる分とミモザで使う分をまとめて買うため、三十キロの米袋が四つ、冷凍肉の箱が三つ、麺や缶詰を入れた段ボールまで積み上がった。
「少し多くありませんか」
「あのね、誰のせいでこの量になったと思ってるの?」
「それはやはり、最近のミモザの繁盛でしょうか」
「いいえ違います。半分以上あなたの胃袋です」
「なるほど、僕は地域経済にも貢献していたのですね」
「食費の請求書見ても同じ顔で言える?」
「雇用主による賃金交渉であれば、労働組合へ相談します」
「組合員、一人もいないでしょう」
「火村さんを勧誘しておきます」
「あの人は従業員じゃない!」
会計を終えると祈は四つの米袋を左腕へ重ね、その上に冷凍肉の箱を載せた。
右手には衣服や靴の紙袋と残りの食材を提げている。
総重量は百キロを優に超えているはずだが、祈の肩は少しも下がらなかった。
「祈くん、さすがに台車を使って」
「駐車場までですので、こちらの方が早いです」
「見ている私の心が痛くなるのよ」
「羞恥心以外に共感すると痛む症例は初めて聞きました。僕は以前、中◯JPでそうなりました」
二人が地下駐車場へ続くエレベーターへ乗る。
扉の上には積載状況を示す表示があり、七緒が先に乗ると〈乗員一名〉と点灯した。
大量の荷物を抱えた祈が続く。
表示は〈乗員一名〉のまま変わらなかった。
七緒が一度外へ出る。
表示は〈乗員なし〉に戻った。
「……祈くん」
「はい」
「今、あなた一人で乗ってるわよね」
「そのようですね」
「荷物だけで百キロ以上あるのに、どうして無人なの」
「機械にも、直視したくない現実があるのでしょう」
「現実の方が機械に遠慮してどうするのよ」
七緒が再び乗ると、表示は律儀に〈乗員一名〉へ戻った。
「私の体重だけ数えられてる……」
「七緒さんは、この世界から確かな存在として認められています」
「慰めになってない!」
祈は無表情のまま、ほんの少しだけ目元を和らげた。
* * *
駐車場へ戻る途中、吹き抜けの広場に作られた福引き会場の前で七緒が呼び止められた。
「本日のお買い上げ分ですと……二十六回引けますよ」
係員が帯のように長いレシートを確認し、抽選券の束を渡す。
特賞は温泉旅館のペア宿泊券。一等は高級肉、二等は商品券で、最下位はポケットティッシュだった。
「二十六回ですって。祈くん、引いてみる?」
「僕は遠慮します」
「珍しい。食べ物が当たるのに」
「公平性に問題が生じる可能性があります」
「そんな福引き一回に何を大げさな……」
七緒は祈が抱えていた荷物の一部を足元へ置かせ、抽選器の取っ手を握らせた。
「ほら、一回だけ」
「結果について責任は負いません」
「外れても怒らないわよ」
祈が取っ手を回す。
木製の抽選器が一度鳴り、受け皿へ金色の玉が落ちた。
係員が鐘を鳴らす。
「おめでとうございます! 特賞、温泉旅館のペア宿泊券です!」
周囲から拍手が起こった。
「えっ!! すごい! 祈くん特賞だよ!」
「そのようですね」
「もう少し喜びなさいよ」
「温泉で煮ても僕の味は大きく変わらないと思います」
「自分を温泉卵みたいに言わないで」
七緒は係員から豪華な封筒を受け取った。
表には〈二名様〉と大きく記され、近くにいた客が二人を見比べて微笑んでいる。
「ご夫婦か恋人同士ですか? ぜひお楽しみください」
「ち、違います!」
「どちらでもありませんが、同居はしています」
「祈くん!」
衣料品店と同じ誤解が再発し、七緒の頬が赤くなる。
「まだ二十五回ございますよ」
係員に促され、祈がもう一度取っ手を回した。
金色の玉が落ちた。
会場が静まり返る。
「……特賞、です」
「金色の玉、一つだけじゃなかったんですか」
「いえ、そのはずなのですが……おかしいな」
係員が抽選器の蓋を開け、中を確かめる。
白や赤の玉の中に金色は残っていない。
「ま、まぁ、何かの手違いでしょう。こちらも特賞としてお渡しします!」
「祈くん、次は私が引くから」
「まだ外れと決まったわけでは」
「外れない気がするから言ってるの!」
七緒が取っ手へ手を伸ばすより先に事情を知らない別の係員が、機器の故障を確かめるため祈へもう一度回すよう頼んだ。
隣の福引き会場から持ってきた別の抽選器が置かれる。
「えっと……こちらなら金色の玉は一つだけです」
「先ほども伺いました」
祈が回した。
三つ目の金色が落ちた。
鐘を持った係員は鳴らすことも忘れ、受け皿と祈の顔を交互に見た。
「何もしてないのに、確率が勝手に従う方が怖い……」
七緒が呟く。
「やはり、日頃の行いというものがあるのでしょう」
「自分で言う!?」
「謙遜すると、追加で何か当たりそうですので」
「それはもう脅迫なのよ」
結局、七緒は祈から残りの抽選券を取り上げた。
「私が引く。ここで普通の確率へ戻すから」
七緒が取っ手を回す。
白い玉が落ちた。
係員は心の底から安心した顔で、小さく鐘を鳴らした。
「さ、参加賞のポケットティッシュです」
七緒も胸を撫で下ろす。
「よかった……外れた」
「七緒さんの日頃の行いが反映されましたね」
「その温泉券返してきなさい」
「善意で得た景品を返却するのは、却って失礼かと」
「都合のいいときだけ礼儀正しくなるんだから!」
残りの抽選券は、祈が触れないことを条件に七緒がすべて引いた。
結果はポケットティッシュが二十二個と、台所用洗剤が一つだった。
足元には温泉旅館のペア宿泊券が三組並んでいる。
「六人で行けますね」
「誰を連れていくつもりなのよ」
「そうですねぇ、七緒さんが三分割になればなんの問題ありません」
「祈くんの中で、私以外の選択肢はないの?」
何気なく尋ねてから七緒は自分の言葉に気づいた。
それ対して祈もすぐには答えなかった。
人のざわめきの中で数秒だけ、二人の間に妙な沈黙が生まれる。
「その……店のみなさんへ配りましょう!」
七緒は封筒をまとめ、勢いよく紙袋へ押し込んだ。
「承知しました」
祈の声は普段どおりだった。
だが荷物を持ち直すため七緒の横へ並んだとき、その唇に僅かな笑みが残っていた。
* * *
商業施設を出ると、夕方の空気は午前中より冷たくなっていた。
七緒は車の荷台へ食材を積み終え、両手へ息を吐いた。館内では気にならなかった寒さが指先から一気に入り込んでくる。
「あれ、祈くん?」
振り返ると、祈の姿がない。
数十秒後、建物の入口から紙袋を一つ提げて戻ってきた。
「どこへ行ってたの?」
「忘れ物です」
「何を忘れたの」
祈は答えず、紙袋から淡い茶色の手袋を取り出した。
七緒が衣服を選んでいる間、何度か手に取っては値札を見て戻していたものだった。
「これ、いつ買ったの?」
「七緒さんが福引きの係員と争っている間です」
「争ってないわよ。確率が壊れてただけ」
「朝から手が冷たかったので」
祈は七緒の右手を取り、手袋へ指を通した。
一つずつ布の中へ収め、最後に手首の縁を整える。神と融合した祈の手は外気より冷たいはずなのに、触れられた場所だけ熱を持つように感じた。
「自分でつけられるわよ」
「先ほど僕へマフラーを巻かれましたので、同じです」
「あれは祈くんが適当に巻くからでしょう」
「七緒さんも、右手を左手用へ入れようとしていました」
「今ちょっと動揺してるだけであって……」
「何か問題が?」
「祈くんが急にこういうことをするのが問題なの!」
「不要でしたか」
祈の指が止まった。
七緒は新しい手袋へ包まれた手と僅かに目を伏せた祈を見比べた。
「……必要」
左手も差し出す。
「すごく温かい。ありがとう」
祈は何も言わず、もう片方の手袋をはめた。
駐車場の上階にある連絡通路からその姿を葵が見ていた。
七緒の手を取る祈の横顔は、自分が知っていた頃より静かでそれでいて優しかった。
一ノ瀬は買い忘れたものがあると言い、少し離れた店へ戻っている。
今なら一人で祈のもとへ行ける。
葵は階段へと一歩近づいた。
しかし七緒が祈から手袋を受け取って笑うと足が止まった。
祈が誰かへ同じ優しさを向けることは裏切りではない。自分には引き留める権利も、傷ついた顔を見せる資格もない。
分かっているのに、目の奥が熱くなった。
「葵、何を見てるんだ?」
戻ってきた一ノ瀬の声に、葵は慌てて顔を背けた。
「何でもない」
「天羽か?」
「違うって言ってるでしょ……」
一ノ瀬は駐車場を見下ろし、車へ乗り込む祈と七緒を見つけた。
口元から笑みが消える。
「あいつは、葵が思ってるような人間じゃないよ」
「……じゃあ、どんな人なの」
「人のものを欲しがる奴だ」
葵は一ノ瀬を見た。
祈が誰から何を奪ったというのだろう。
半年以上前、一ノ瀬の言葉を信じて祈を切り捨てた自分こそ彼から居場所も家族も、人を信じる理由も奪った側ではないのか。
「葵?」
一ノ瀬が伸ばした手を、葵は初めて避けた。
「先に帰る」
そう告げて歩き出す。
一ノ瀬は追いかけずその背中を見つめていた。
怒りを隠すときだけ浮かべる、綺麗な笑顔で━━。
* * *
夜の営業が始まる頃、祈は新しく買った濃灰のニットへ黒いエプロンを重ね、いつものようにミモザの客席へ立っていた。
「それ、本当に仕事着にするの?」
厨房から出てきた七緒が、僅かに眉を寄せた。
「汚れても洗えます」
「今日買ったばかりなのに……」
「服は身体を覆うためのものだと申し上げました」
「分かった。今度から祈くんの服は全部観賞用と仕事用で二着ずつ買う」
「服飾費が二倍になりますね」
「誰のせいよ」
三番テーブルへ座っていた火村陣が、珈琲から顔を上げた。
「それで、休日に二人で色々な買い物しに行ったのか」
「違いますぅ、必要なものを揃えただけですぅー」
「俺はまだ何も言ってないが」
「顔が言ってますぅ」
「俺の顔に感情を表示するディスプレイがあったとは知らなかったな」
火村は祈の新しい服と七緒がつけたまま外そうとしない手袋を順番に見た。
「で、福引きの温泉券が三組当たったと」
「どうして知ってるんですか」
「店へ入ってから十分、あんたが全員に話して回ってたからだよ」
「あれは聞いてほしかったんじゃなくて、祈くんを二度と福引きへ近づけないよう注意喚起を━━」
「世間ではな、それを自慢と言うんだよ」
「七緒さんは、僕と温泉へ行けることが嬉しいようです」
「違う!」
「否定が早いな。しかしおじさんには眩しいよ、お前ら二人は━━」
「火村さんまで面白がらないでください!」
七緒が頬を赤くして厨房へ戻る。
火村は僅かに笑ったあと、テーブルの端に置いていた厚い封筒へ目を落とした。
表には木戸孝之の名と警察の管理番号が記されている。
「今日、二人がここへ来る」
「もしかして……木戸孝之さんのご遺族ですか」
「ああ。姉の佐伯芙美さんと娘の結菜さんだ。改めて署で話を聞いた帰りでな」
火村の声から先ほどまでの軽さが消えた。
「署の近くには記者が張ってる。食事も取らずに何時間も同じ説明をさせられて、二人とも疲れてるはずだ。ここなら騒がれずに休めると思って俺が誘った」
「承知しました」
「それと……二人に話さなきゃならないことがある」
火村は封筒の上へ片手を置いた。
「公開された証拠のおかげで、木戸さんの事件は殺人として扱われることになった。だが、本当はその前に俺たち警察が見つけなきゃならなかった。姉と娘が何度も訴えていたのに自殺の筋書きへ当てはめ、あの人が生きようとしていた証拠まで見落とした」
疲れた顔には言い訳ではなく、これから頭を下げる人間の覚悟があった。
「警察の負けだ。二人には、それを誤魔化さずに謝る」
「謝罪によって、木戸孝之さんは戻りません」
「分かってる」
「それでも、謝られるのですね」
「戻らないからこそだよ。失敗した側まで何もなかった顔をしたら、あの人が見捨てられた事実だけが残る……」
祈は火村を見た。
警察は自分の言葉も信じなかった。
証拠があっても誰かに都合のよい形へ変え、被害を受けた者が諦めるまで同じ説明を繰り返させる。
それでも目の前の男は組織を言い訳に使わず、自分も負けた側へ立とうとしていた。
「火村さん」
「何だ」
「煮込みハンバーグが冷めています」
「今それを言うのか?」
「謝罪は空腹で行うと、悲壮感を演出しているように見えます。食べてからの方がよろしいかと」
「……君なりに気を遣ってるのか? それは」
「追加料金はいただきません」
「ふっ……そうか」
火村は小さく笑い、冷めかけたハンバーグへ箸を入れた。
数分後、ミモザのドアベルが鳴った。
入口に黒いコートを着た佐伯芙美と、制服姿の木戸結菜が立っている。
二人とも目の下に薄い影を作り、誰かに見られていないか確かめるように一度だけ背後を振り返った。結菜は制服のポケットへ右手を入れたまま、何かを確かめるように強く握っている。
「こっちです」
火村が立ち上がった。
その声より先に祈が入口へ向かう。
「いらっしゃいませ」
結菜は顔を上げた。
白いシャツではなく、濃い灰色のニットに黒いエプロンを重ねた自分とそれほど歳の変わらない少年が立っている。
綺麗な顔だと思った。
ただ整っているという言葉では足りない。
祈の周囲だけ照明の光が澄み、その姿を一度見たあとでは店内の色も人の輪郭も僅かに薄くぼやけたように感じられた。
結菜は返事をしようとした。
だが目が合った瞬間、言葉より先に心臓が強く鳴った。
父親を失ってから、胸の中にあるのは悲しみと怒りだけだった。
何を食べても味がせず、誰かが笑っていてもその人がどうして笑えるのか分からなかった。
自分の心臓がまだ別の理由で動けることなど考えたこともない。
祈が僅かに首を傾げる。
「お席へご案内します」
「あ……はいっ……」
ようやく声を出した結菜の耳まで赤くなっている。
芙美はその変化に気づいたが、何も言わず娘の背中に手を添えた。
結菜は三番テーブルへ向かいながら一度だけ祈を振り返った。
父親を亡くしてから初めて、自分の心臓が悲しみ以外の理由で鳴ったことに、結菜自身が最も驚いていた━━。




