第五十五話 自殺なんかしてない
午前十時を過ぎても、木戸孝之は現れなかった。
駅前交番の脇に立つ佐伯芙美は、改札から絶え間なく吐き出される人の波へ何度も弟の姿を探した。
待ち合わせは午前十時、場所を間違える余地のない駅前交番の正面で昨夜の電話でも二度確認している。
孝之は十五分前には着いて相手を待つ人間で、学生時代に電車が止まって約束へ二十分遅れただけでも公衆電話を見つけるたび姉の自宅へ三度も謝罪を入れたほどだった。
十時五分。
芙美は孝之へ電話をかけた。
呼び出し音は鳴ったが出ない。
十時十分にもう一度かけてメッセージを送った。
『着いてるよ。何かあった?』
画面へ表示されたのは送信済みを示す小さな印だけだった。
昨夜の孝之の声を思い返す。
『警察へ行く。御堂が会社の金を使った記録も美沙とのやり取りも揃った。俺を横領犯にした記録と離婚届を偽造するよう指示した文章もある』
『一人で行かない方がいい。私も一緒に行く』
『そのつもりで電話した』
声はひどく疲れていた。
だがそれは絶望した人間の声ではなく、ようやく戦うための材料を揃えた人間の声だった。
結菜を迎えに行く、奪われた仕事と名誉を取り戻す、明日の十時には警察へ入る。
その先にある予定を一つずつ確かめて孝之は最後に〈全部終わらせる〉と言った。
芙美が〈終わらせるんじゃなくて、取り戻すの〉と言い直すと、弟は子供の頃に叱られたときと同じように笑っていた。
その笑い声を死ぬつもりだった人間の別れの挨拶へ変えさせてはいけない━━。
十時十三分、芙美は交番に入った。
「弟とここで待ち合わせているんです。昨夜から連絡が取れません」
応対した若い警察官は最初、成人男性の連絡が半日途絶えただけでは直ちに行方不明として扱えないと説明した。
仕事を失い家族と別れた直後なら一人になりたい可能性もある、少し時間を置いてもう一度連絡してはどうかと決められた案内を読み上げるように話す。
「弟は今日、会社社長の不正と離婚届の偽造を訴えるためにここへ来る予定だったんです。自分が事故に遭うかもしれないとも言っていました」
「事故に遭う?」
「元妻と、その不倫相手の社長に尾行されているかもしれないと。証拠を全部消される前に警察へ行くから、私にも同行してほしいと頼まれました」
警察官の表情が僅かに変わった。
「弟さんのお名前と住所をお願いします」
芙美は木戸孝之の氏名、生年月日、現在暮らしている賃貸住宅の住所を伝えた。
警察官が端末へ入力し、照会結果を待つ数秒のあいだにもガラス越しに駅を行き交う人々が見える。
孝之だけがいないという事実が朝の街から弟一人を切り取ったように感じられた。
画面を見ていた警察官の指が止まった。
「……佐伯さん、こちらへ」
「弟に何かあったんですか」
「奥の者が説明しますので」
「今ここで教えてください」
警察官は答えず相談室の扉を開けた。
その態度だけで芙美には間に合わなかったのだと分かってしまった。
机を挟んで座らされ、氏名と孝之との関係をもう一度確認されたあと奥から出てきた年配の警察官が事故や死亡を家族へ伝えるために何度も使ってきたのだろう慎重な声で告げた。
「今朝、木戸孝之さんがご自宅で亡くなっているのが発見されました」
芙美は相手の口が動いたことだけを見ていた。
言葉の意味が耳から頭へ届かない。
「……誰が?」
「木戸孝之さんです」
「そんなわけない……誰が弟を見つけたんですか」
「建物の管理会社です。午前八時過ぎに室内の警報設備から異常通知があり、応答がなかったため管理人が合鍵で確認しました。消防と警察が到着した時点で既に心肺停止の状態だったと聞いています」
「病院は……」
「搬送先で死亡が確認されました」
「どうして……っ……」
「室内では炭を燃焼させた器具と睡眠薬、酒が見つかっています。窓と換気口には目張りがされ、本人のノートパソコンには遺書と思われる文書が残されていました」
「自殺じゃありません……!」
「現時点では断定していません。これから現場の状況と遺体を詳しく━━」
「違います! 弟は自殺なんかしていません!」
声が狭い相談室へ反響した。
芙美はスマートフォンを取り出し、昨夜の通話履歴を表示する。午後十一時四十八分、通話時間十一分二十七秒。そこに残っているのは数字だけだったが芙美には一言ずつ思い出せた。
「昨夜、弟から電話がありました。今日の十時に私と会って二人で警察へ行く約束をしたんです。証拠が揃った、娘を迎えに行く、今度こそ取り戻すって話していました。死ぬ人がどうして翌朝の待ち合わせをするんですか!」
「自死を選ばれる方が直前まで普段と変わらない予定を立てたり、ご家族を安心させる言葉を残したりすることはあります」
「弟は私を安心させようとしたんじゃない……助けを求めたんですよ!」
「通話の録音はありますか」
「録音は……していません。でも履歴があります。弟が私へ電話をかけてきたことは分かるでしょう」
「内容については、佐伯さんのお話として記録します」
「私の話じゃありません。弟の話です」
「ええ」
「なら信じてください……!」
警察官は否定しなかった。
だが、信じた顔もしなかった。
* * *
芙美が孝之の暮らしていた賃貸住宅へ案内されたのは、午後一時を過ぎてからだった。
古い三階建ての建物の前には規制線が張られ、二階の一室だけ窓が開け放たれている。
風が吹くたびに焦げた炭と薬品、消臭剤では隠しきれない異様に甘い匂いが廊下まで流れてきた。
室内へ入ることは許されなかった。
開いた玄関の向こうでは鑑識員が写真を撮り、床へ番号札を置いている。
玄関から数歩で小さな台所がありその先の六畳間には安いベッドと机に古い冷蔵庫、段ボール箱が三つだけ置かれていた。
十八年間暮らした家から追い出された弟が持ち出せた人生はそれだけの広さに収まっている。
部屋の中央には小型の炭燃焼器があり、近くの床には孝之の身体が倒れていた位置を示す印が残されていた。
机の上には、結菜の高校入学式に撮った写真がある。
少し大きな制服を着た娘の隣で孝之は自分が入学するような緊張した顔をしていた。
写真を撮った芙美は、もっと笑いなさいと何度も弟へ声をかけた。
そのたび孝之は〈結菜の制服が汚れないか気になって笑えない〉と答え、本人から〈お父さんの方が緊張してる〉と笑われていた。
「弟は、どこで見つかったんですか」
同行した刑事は室内の床へ目を向けた。
「机と燃焼器の間です」
「写真の前?」
「写真へ手を伸ばしたような姿勢だったと、最初に入った管理人は話しています」
芙美は唇を噛んだ。
自分で死を選んだ人間が最後に娘の写真へ手を伸ばすこともあるのかもしれない。
それでも孝之の場合は違う━━。
結菜を置いて死のうとしたのではなく、結菜のもとへ帰ろうとして届かなかったのだ。
「玄関は施錠されていたんですか」
「はい」
「内側から?」
「通常のシリンダー錠なので、内外のどちらからでも施錠できます。ただし扉や窓を壊して侵入した形跡はなく、室内が荒らされた様子もありません」
「合鍵があれば、外から入って鍵をかけられます」
「そのとおりです」
「この建物は御堂の関連会社が所有しています。管理会社なら合鍵を用意できるはずです」
刑事は手帳へ書き込んだ。
「昨夜の防犯カメラを確認してください。御堂か美沙が映っているはずです!」
「既に管理会社へ映像の提出を求めています」
「なら、弟の身体に怪我はありませんでしたか」
刑事の返答が僅かに遅れた。
「右手の指と前腕、脇腹に皮下出血があります。右手の指については一部骨折している可能性があるため、画像検査を行います」
「どうして自殺する人が指を折るんですか?」
「薬とアルコールで意識が混濁し、室内で転倒した際に家具へぶつけた可能性があります」
「脇腹は?」
「二点の小さな変色が確認されていますが、現時点では原因を特定できません」
「それって……スタンガンとかを使われた痕じゃないんですか」
「可能性だけで申し上げることはできません」
「なら司法解剖してください!」
「まず検視官と担当医が事件性を判断します」
「調べなければ事件性があるか分からないのに、事件性がなければ詳しく調べないんですか!?」
「そういう意味ではありません」
「同じです……!」
芙美の声が震えた。
「弟を殺した人たちはそれを知っているんです。どこまで証拠を消せば自殺として扱われるか知っていて、弟の人生を全部自殺する理由へ作り替えたんです」
懲戒解雇。
横領の疑い。
偽造された離婚届。
家からの追放。
娘との接触禁止。
そして御堂の会社から届いた損害賠償請求。
それらは孝之が死を選んだ理由ではない。
孝之を殺しても疑われないようクズ二人が先に用意した死亡理由だった。
刑事は否定しなかったが、すぐに御堂を逮捕するとも言わなかった。
「遺書を見せてください」
「捜査資料ですので、今ここで全体をお見せすることはできません」
「弟が何を残したのかは姉の私にも知る権利があるでしょう!?」
「元配偶者と娘さんにも確認したうえで必要な手続きをご案内します」
「はぁ!? あの女に先に見せるんですか!?」
「木戸さんの娘さんは未成年で、現在の親権者は母親です」
偽造された離婚届によって奪われた親権が死んだ孝之の言葉を確認する権利まで美沙へ与えていた。
法律は一度書類へ記された嘘を訂正されるまでは事実として扱う。
そして、訂正しようとしていた人間はもう話せなかった━━。
* * *
孝之の遺体と対面できたのは、その日の夕方だった。
白い布を胸までかけられた弟は眠っているようには見えなかった。
頬は生前より痩せえ唇には僅かな色もなく、額の髪は搬送時に整えられたまま不自然な方向へ流れている。
芙美は名前を呼んだ。
「孝之……」
返事はない。
子供の頃、押し入れへ隠れた弟は姉が名前を呼ぶと笑いを堪えられず必ず自分から居場所を知らせた。
両親が亡くなったあとも仕事がどれだけ忙しくても月に一度は連絡を寄越し、芙美の誕生日には高価ではない菓子を送ってきた。
結婚して家庭を持ってからは美沙と結菜の話ばかりで自分の苦労を相談された記憶はほとんどない。
その弟が何をされても声を上げずに一人で証拠を集め、ようやく姉へ助けを求めた翌朝に死んでいる。
「遅くなって、ごめんね……っ……孝之……」
芙美は冷たくなった左手へ触れた。
右手は薄い布で覆われていた。
許可を得て布をめくると中指と薬指の付け根が紫色に腫れ、爪の間には乾いた血が残っている。
転んだだけの手にはとても見えなかった。
何かを止めようと床を這い、踏みつけられ、それでも指を伸ばした人間の手だった。
「誰にやられたの……」
答えられないことを分かっていて尋ねた。
「お願いだから一回だけ起きて。昨日みたいに電話して。今度はちゃんと……すぐ行くから……!」
弟は目を開かなかった。
芙美はその場で泣き崩れそうになったが背後に警察官が立っていることを思い出して踏みとどまった。
自分まで感情的な遺族として扱われれば昨夜の通話も御堂を疑う理由も、弟を失った姉の思い込みへ変えられてしまう。
泣くことすら証言の信頼性を失わない形で行わなければならなかった。
芙美は孝之の手を握ったまま、振り返った。
「この指を見ても、自殺だと思うんですか」
「検査結果が出るまでは……何も断定できません」
「だったら、結果が出るまで自殺だとも言わないでください」
* * *
美沙が警察署へ現れたのは、午後六時を過ぎた頃だった。
黒いワンピースの上へ淡い色のコートを羽織り、化粧をほとんどせず、目元だけを赤くしている。
髪は普段より低い位置でまとめられ、耳には小さな真珠の飾りが一つだけついていた。
孝之の死を知らされてから数時間しか経っていない元妻としてはあまりにも喪に服す準備が整っている。
隣には御堂の会社が手配した弁護士と、美沙のために診断書を書いた医師まで同行していた。
「孝之さん……どうして……」
美沙は廊下の椅子へ座っていた芙美を見つけると、口元を押さえ、二歩ほど近づいたところで足を止めた。
「お義姉さん、私がもっと早く異変に気づいていれば……」
「……どうしてここへ来たの」
「警察から連絡があったのよ。離婚していても結菜の父親だった人だから」
「弟を殺したのはあなたでしょう」
美沙の涙が止まった。
それはほんの一瞬だけだった。
すぐに弁護士が二人の間へ入り、美沙も怯えたように肩を縮める。
「佐伯さん、根拠のない発言はお控えください」
「昨夜、弟は御堂の不正とこの女が離婚届を偽造した証拠を持って警察へ行くと言っていました。それが今朝には、本人が書いたことになっている遺書を残して死んでいる。どちらを偶然だと言うんですか」
「孝之さん、そこまで思い詰めていたのね……」
美沙は芙美を見ず、近くにいる警察官へ聞かせるように呟いた。
「会社を解雇されてから、御堂さんが自分を陥れたんだと何度も話していました。私と結菜にも暴力を振るうようになって、家の前へ来ては本当の父親でもないのに娘を返せと叫んで……」
「嘘をつくな!」
芙美が立ち上がる。
美沙は小さな悲鳴を上げ、弁護士の後ろへ隠れた。
「ほら……木戸家の人たちは、感情的になるとすぐ怒鳴るんです。孝之さんも同じでした」
警察官が芙美の腕を押さえた。
「佐伯さん、落ち着いてください」
「離してください! その女の昨夜の行動を調べて! 防犯カメラ、車の記録、スマートフォンの位置情報、全部残っているでしょう!」
「必要な確認は行います。ですから今は距離を取ってください!」
「どうして弟を殺された私が押さえられて、殺した女が守られてるんですか!」
美沙は警察官の肩越しに芙美を見た。
涙の膜に覆われていたはずの目は冷たく澄んでいる。
自分が悲劇の元妻として扱われ、弟の死を疑う姉だけが取り乱した人間として隔てられている状況を満足そうに確かめる目だった。
そして御堂本人は警察署へ来なかった。
弁護士を通じて事件当夜は自宅で就寝しており、家事使用人と警備員が証明できると回答した。
美沙についても同じ家に滞在していたとされ、二人の携帯電話は深夜から朝まで御堂邸の通信設備へ接続されている。
それらが最初から用意された不在証明である可能性を芙美が訴えても、警察はまず記録を照合するとしか答えなかった。
その日の午後七時、御堂が代表を務める東亜総合開発は、公式サイトに短い声明を掲載した。
〈当社元従業員である木戸孝之氏のご逝去に接し、謹んで哀悼の意を表します〉
〈木戸氏については在職中に機密情報の不正取得及び会社資金の流用が確認され、社内規程に基づく処分を行っておりました〉
〈一部で当社代表及び関係者に対する事実無根の情報が拡散されております。故人及びご遺族の尊厳を守るためにも、憶測に基づく発信はお控えください〉
殺した人間の尊厳を理由に死者へ口を閉ざすことを求めていた。
声明には孝之の顔写真も二十年間会社へ勤めた事実も、遺族へ直接哀悼を伝えたという一文もなかった。
それでも翌朝のニュースは、〈横領を疑われ懲戒解雇された元社員が自殺〉という会社側の説明を先に読み、御堂の不正を訴えようとしていたという芙美の言葉を報じなかった。
生きている間に奪われた孝之の信用は、死んだあとには自殺の動機として使われた。
* * *
御堂の家へ連れてこられて以来、結菜のスマートフォンは美沙が管理していた。
学校へ持っていく端末も連絡機能を制限され、帰宅すると御堂が雇った女性へ預けなければならない。
門には警備員がおり一人で外へ出ることも許されず、窓を開ければ敷地の隅に設置されたカメラがこちらへ向く。
美沙は、新しい環境へ慣れるまでの保護だと説明した。
結菜には監禁としか思えなかった。
孝之が亡くなった日の夜、美沙は娘を広いリビングへ呼んだ。
御堂は革張りのソファへ座り、グラスへ注いだウイスキーを揺らしている。壁一面のテレビでは孝之の死を報じるニュースが流れていたが、音量は消されていた。画面の下へ〈懲戒解雇された元社員〉という文字が表示されても、御堂は訂正を求めることなく酒を口へ運んでいる。
「結菜。落ち着いて聞いてね」
美沙は娘の向かいへ座り、手を取ろうとした。
結菜は触れられる前に引いた。
「何」
「孝之さんが、今朝亡くなったの」
結菜は母親の口が動くのを見ていた。
意味を理解したくなかった。
「……うそ」
「会社を辞めさせられたことや、私たちと離れたことを苦にして、自分で命を絶ったそうよ」
「嘘だ」
「残念だけど、本当なの」
「昨日、メッセージが来た。必ず迎えに行くって言ってた」
美沙の目が僅かに動いた。
「どこで連絡したの?」
「そんなことどうでもいいでしょう! お父さんは迎えに来るって確かに言ってた!」
「あの人は精神的に不安定だったのよ。あなたを安心させるために、できない約束をしたんでしょうね」
「お父さんは約束を破らない……!」
「人は追い詰められると、家族へ本当のことを言えなくなるの」
「追い詰めた人間がよくそんなことを……」
美沙が慰めるように話すたびに結菜には母親が孝之の死に方を教えているのではなく、警察へ信じさせた筋書きを娘にも覚えさせようとしているように聞こえた。
「最後には、自分が本当の父親ではないことも受け入れたみたい」
美沙はテーブルへ一枚の紙を置いた。
警察が確認した遺書の写しだった。
結菜は震える手で持ち上げた。
〈妻の不貞を疑い、御堂社長へ迷惑をかけました〉
〈会社から持ち出した資料に、不正の証拠はありません〉
〈すべて、職を失うことを恐れた私が作ったものです〉
だが見せられたその紙の中のどの文章にも、孝之の言葉には見えなかった。
孝之は自分が間違えたとき、〈迷惑をかけた〉だけでは終わらせず、誰に、何を、なぜしてしまったのかを説明する人だった。
結菜が小学生の頃に誕生日のケーキを落としたときも、仕事の電話を切れず受け取りが遅れたことも店から家まで走った拍子に箱を傾けたこと、来年は必ず二つの手で持つことまで話して泣いている娘より長く謝った。
こんなふうに、自分がすべて悪かったという便利な文章だけを並べる人ではない。
そして最後の部分を読んだ瞬間、結菜の震えが止まった。
〈血の繋がらない結菜へ、父親のように振る舞い続けたことを謝ります〉
「お父さんは、こんなこと書かない」
「本人のパソコンに残っていたのよ」
「絶対に書かない!」
結菜は紙をテーブルへ叩きつけた。
「お父さんは、血が繋がってなくても私は娘だって言った。父親になった日から十六年分の記憶は消えないって。私が嫌だと言っても大切な娘だって書いてくれた!」
御堂がグラスを置いた。
「そのやり取りはどこにある」
結菜は答えなかった。
「学校の端末か」
沈黙だけで、御堂には十分だった。
「明日、学校へ連絡して端末を回収させる」
「嫌!」
「木戸が精神的に不安定な状態で娘へ接触した記録だ。保護者として確認しなければならない」
「お父さんはおかしくない!」
「横領を疑われ会社を脅迫し、元妻へ暴力を振るい、最後には自殺した男だ」
御堂は会社の報告書を読み上げるように並べた。
「その男を父親だと思い続ければ君まで社会からどう見られるか考えた方がいい」
「ふざけないで! お父さんをそうしたのはあなたたちでしょう!?」
「木戸は自分で選んだんだ」
「違う! お父さんは何も選ばせてもらえなかった!」
結菜は美沙を見た。
「この遺書を書いたの……お母さんでしょう?」
「何を言ってるの」
「絶対にお父さんの文章じゃない。でも、お母さんの言い方と同じ。父親のふりをしてたとか、本当の父親じゃないとか私にお父さんを諦めさせるためにずっと言ってた」
「いい加減にしなさい」
「アンタ……お父さんを殺したの……?」
美沙の手が動いた。
乾いた音が広い部屋へ響き、結菜の頬が横へ向く。
「誰に向かって、そんなことを言ってるの!?」
美沙は自分の手を押さえ叩いた側が傷ついたような顔をした。
「私はあなたの母親なのよ。あなたを守るために、十八年間好きでもない男と暮らしてきた。それなのに、どうして分かってくれないのっ!!」
結菜はゆっくり母親へ顔を戻した。
「は? アンタなんか母親じゃない。お母さんは誰も守ってない」
「結菜」
「自分が欲しいものを取るために、お父さんも私もコマのように使ってただけ」
「部屋へ戻りなさい!」
「言っておくけど、私のお父さんは木戸孝之だけだから━━」
その一言で、美沙の表情から色が消えた。
御堂が立ち上がり、結菜の腕をつかもうとする。
結菜は反射的に手を振り払い、階段へ走った。
「明日から学校へ行かせるな」
背後で御堂の声がした。
「端末を回収するまで部屋から出すな。木戸の姉と連絡されると面倒だ」
結菜は自室へ入り、扉を閉めた。
数秒後、外側から鍵がかけられる音がした。
* * *
翌朝、結菜は腹痛を訴えた。
御堂が呼んだ医師に診せると言われても学校で提出しなければならない進路希望調査があり、今日欠席すれば担任から自宅へ電話が来ると主張した。
美沙は学校用端末を回収するためにも一度登校させた方が早いと判断し昼までには戻すことを条件に許可した。
車には運転手と監視役の女性が同乗した。
結菜は校門をくぐるまで従うふりをし、教室へ入ると真っ先に担任へ事情を話した。
「父が殺されたかもしれません。母のところへ戻したらこの端末も消されます」
担任は家庭の問題だと答えかけた。
しかし結菜が頬に残る赤い痕、孝之から届いた最後のメッセージ、美沙から見せられた遺書の写真を並べると、学校だけで判断できる話ではないとして管理職と児童相談所へ連絡した。
監視役の女性が職員室まで迎えに来た頃には結菜は学校用タブレットを胸へ抱き、女性教員二人の間に座っていた。
「お母様が心配しています。帰りましょう」
「帰りません」
「家庭の中で少し行き違いがあっただけです。外の方へ話すと、亡くなったお父様のためにもなりませんよ」
「あの人間はお父さんを、自殺した横領犯だって言いました」
「今は混乱しているだけです」
「その言葉、お母さんも言ってましたよ」
結菜は椅子から動かなかった。
児童相談所の職員が到着し、本人から事情を聞くまで美沙側へ引き渡さないと決めたあと結菜が最初に連絡先として伝えたのは芙美だった。
一時間後、職員室前の廊下へ駆け込んできた芙美を見つけると、結菜はタブレットを抱えたまま立ち上がった。
「結菜ちゃん」
「おばさん……」
二人の間には孝之の死後初めて会った相手へ何を言えばよいのか分からない一瞬があった。
「お父さんが……っ……」
結菜は最後まで言えなかった。
芙美が娘の身体を抱きしめる。
「分かってる……」
「絶対に自殺じゃない」
「うん」
「お父さん、私を迎えに来るって言った。警察へ行くって言ってた。絶対に死ぬつもりじゃなかった……!」
「分かってるよ」
「でも誰も信じてくれない……」
「私が信じる」
芙美は何度も同じ言葉を返した。
警察も会社も美沙も、孝之が自ら死を選んだと話している。
それでも弟を最もよく知る姉と、父親を最も信じていた娘だけは最初から同じ答えを知っていた。
その日、結菜は児童相談所の一時保護を受け美沙のもとへは戻らなかった。
美沙は親権者の同意なく娘を連れ去ったとして芙美を非難し、御堂の弁護士も即日の引き渡しを要求した。
しかし、結菜本人が帰宅を拒み、母親から平手打ちを受けたことや父親の死について母親と御堂を疑っていることを訴えたため、調査が終わるまでは接触にも制限がついた。
面談室へ移されたあと、結菜は孝之との最後のメッセージを芙美へ見せた。
『血が繋がっていないことは本当だと思う。でも、結菜が初めて立った日も、入学式で緊張していた顔も、高校へ受かったときのことも全部覚えている。父親になった日から十六年分の記憶は、紙一枚や検査の数字では消えない。結菜が嫌だと言っても俺にとっては大切な娘だ。それは変わらない』
芙美は画面を読み終えても、しばらく動けなかった。
「弟らしい」
「うん」
「結菜ちゃんが嫌だと言っても、なんて余計なところまで書くの。本当にあの子らしいなぁ……」
涙を拭いながら笑うと、結菜も一度だけ唇を震わせた。
「これが、お父さんの本当の遺書だよ……」
「警察へ持っていこう」
「もう見せた。でも、自殺する人が家族を安心させるために送った可能性もあるって」
「何を見せても結局は最初に決めた答えへ戻すのね……」
芙美は偽の遺書の写真と、孝之のメッセージを隣へ並べた。
死者のパソコンから見つかった文章と生前に娘へ送られた文章。
どちらが本人の言葉なのか孝之を知る人間なら迷うはずがなかった。
だが警察が必要としているのは人柄を知る者の確信ではなく、誰がどの指でキーボードを押したのかを証明する記録だった。
* * *
それから芙美と結菜は同じ説明を何度も繰り返した。
警察署。
児童相談所。
弁護士事務所。
労働基準監督署。
そして、孝之が内部通報を準備していた会社の監査部門。
誰も最初から二人を嘘つきとは言わなかった。
しかし話を聞いたあとには必ず担当外、証拠不足、確認中、手続きが必要という言葉が返ってきた。
検査では孝之の血液から睡眠薬と多量のアルコール、一酸化炭素が検出された。
死因は一酸化炭素中毒。右手の骨折と身体の皮下出血は、薬物と酒によって意識が混濁した状態で転倒した際についた可能性を否定できないとされた。
脇腹の二点の痕も、スタンガンによるものと断定できなかった。
司法解剖は行われなかった。
事件性が高いと判断するだけの材料がなく、遺族が希望するという理由だけでは実施できないと説明された。
建物の防犯カメラは、事件当夜の午後十一時から午前二時まで設備更新によって記録が欠けていた。
御堂邸のカメラには美沙と御堂が帰宅する姿は映っているが、二人がその後も屋敷内にいたことを直接示す映像はなく、携帯電話だけが寝室に置かれていた。
それでも警察は、記録の欠損と携帯電話を置いて外出した可能性だけでは家宅捜索の令状を請求できないと答えた。
孝之が集めていた会社の資料は、パソコンにも外部記憶媒体にも残っていなかった。
複数へ分けて保存したはずのデータは死の直前から翌朝までにすべて削除されている。クラウド事業者へ問い合わせても本人の認証情報を使った操作であり、第三者が消した証拠は見つからなかった。
労働基準監督署は解雇と未払い賃金について調査できても、孝之の死や横領記録の捏造までは扱えない。
内部の監査部門は孝之の申告そのものを受け取っていないと回答した。
弁護士へ正式に依頼するためには芙美がすぐ用意できない額の着手金が必要だった。
相手は大企業の代表で、長期化すれば費用がどこまで膨らむか分からないとも告げられた。
だが、週刊誌の一社だけが最初は興味を示した。
しかし御堂の会社へ事実確認を送った翌日、記事化は見送るという連絡が届いた。
理由を尋ねると孝之が横領を隠すため社長を逆恨みしていた可能性を排除できず、未成年者の親子関係まで含むため公益性の判断が難しいと説明された。
その同じ週に御堂は経済番組へ出演し、元社員の不正へ毅然と対応した経営者として語った。
『長年会社へ貢献してくれた人間を処分することは、私にとっても苦渋の決断でした』
黒いスーツに落ち着いた色のネクタイを合わせ、司会者から心労を気遣われると御堂は僅かに目を伏せた。
『彼がもっと早く相談してくれていればと、悔やまずにはいられません』
芙美は映像を途中で消した。
相談しようとした孝之を殺した男が、死者から相談されなかったことを悔やんでいた。
美沙も親しい知人に孝之を責めないでほしいという文章を送っていた。
『彼は悪い人ではありませんでした。ただ、血の繋がらない娘を失うことに耐えられず、現実を受け入れられなかったのだと思います』
『どうか、静かに見送ってあげてください』
それを受け取った者の一人がネットへ転載し、美沙側の説明だけを信じた人々からは彼女へ同情が集まった。
長年夫の暴力と執着に耐え、実の父親のもとへ娘を戻そうとした女性。
孝之は妻と血の繋がらない娘へ執着し、横領まで行った末に自殺した男へ変えられていく。
死者はどれだけ侮辱されても訂正を求められない。
美沙と御堂はそれを知っているから、偽の遺書を残したのだ━━。
* * *
孝之の葬儀は美沙の意向によって近親者だけで行われた。
芙美には前日の夕方まで場所が知らされず、結菜は精神状態が不安定であるという理由で参列を認められなかった。児童相談所が本人の強い希望を伝えても美沙は遺体を見せればさらに父親へ固執すると拒否した。
「固執って何?」
面談室でその説明を聞いた結菜は、意味を理解できないように尋ねた。
「娘がお父さんに会いたいって言うのが、固執なの?」
芙美は答えられなかった。
葬儀当日、結菜は児童相談所の部屋で入学式の写真を表示したタブレットの前へプリンを一つ置いた。
最後に二人で食べたものと同じ商品だった。
蓋を開けても、自分では食べなかった。
「これは……お父さんの分だから」
誰も手をつけないプリンは夕方まで机に残り、表面が乾いて色を変えた。
一方、葬儀場では美沙が喪主の位置に立っていた。
離婚は成立しているはずなのに孝之を最も理解していた家族のように弔問客へ頭を下げ、会社関係者から〈長い間大変でしたね〉と声をかけられるたびに耐えてきた元妻の顔で涙を拭った。
御堂は姿を見せず、社長名義の大きな供花だけを送った。
木戸孝之を殺した男の名が祭壇の最も目立つ場所で死者を悼んでいた。
芙美は焼香を終えたあと美沙へ詰め寄った。
「どうして結菜ちゃんを呼ばなかったの」
「あの子のためよ」
「父親へ最後の別れすらさせないことが?」
「孝之さんが父親ではなかったと受け入れさせるには、どこかで区切りが必要でしょう」
「弟は十六年間、あの子の父親だった」
「父親の役をしてくれたことには感謝しています」
感謝という言葉で、孝之の十六年を一時的な役割へ変えた。
「あなた、棺の中の弟を見ても何とも思わないの」
「……悲しいに決まってるでしょう」
美沙は周囲へ聞こえる声で答えたあと、僅かに身を寄せた。
「でも、あの人が自分で選んだことまで私の責任にされても困るわ」
芙美の手が上がりかけた。
美沙はすぐ一歩下がり、近くの葬儀社スタッフへ怯えた顔を向ける。
ここで殴れば弟と同じ暴力的な家族だと証明する材料を与える。
芙美は拳を握り、爪が掌へ食い込む痛みで腕を下ろした。
「……必ず見つけるから」
「何を?」
「アンタが弟を殺した証拠」
美沙は答えず、静かに微笑んだ。
見つけられるものならもう警察が見つけている。
そう言っている笑顔だった━━。
* * *
葬儀の翌日、警察から孝之の所持品の一部が返却された。
財布、腕時計、空になった薬の包装、スマートフォン、結菜の入学式の写真、そして一本の鍵。
現在の親権者であり元配偶者である美沙が受取人となり、御堂の家へ持ち帰った。
スマートフォンと財布だけを確認すると、残りは紙袋ごと処分するよう家政婦へ命じた。
「写真もですか」
「いらないわ。結菜に見つかる前に捨てて」
結菜が学校へ通うための荷物を取りに戻ったとき、その紙袋は玄関脇に置かれていた。
監視役の女性が美沙と話している隙に中を見ると、父親の腕時計と入学式の写真が重なり、その下に見慣れた銀色の鍵があった。
以前暮らしていた家の鍵だった。
小学生の頃結菜が留守番の練習をした日に孝之から預かった時、玄関のコンクリートへ落として小さな傷をつけた。孝之は怒らず、〈これで結菜の鍵だと分かりやすくなった〉と笑ったがなくすのが怖くなった結菜はその日のうちに返した。
美沙が鍵を交換したため、孝之が会社の地下駐車場まで取りに戻っても最後には開けられなかった鍵。
死ぬときまで上着の内ポケットへ入っていた鍵。
結菜はそれを握った。
金属は冷たいはずなのに、父親の身体から奪われた温度がまだ残っているように感じられた。
入学式の写真と腕時計も持ち出したかったが監視役が近づく足音が聞こえた。
結菜は鍵だけを制服のポケットへ隠し、紙袋を元へ戻した。
家政婦が袋をごみとして出すところを見届けるまで、何も知らないふりをした。
父親の人生の欠片がごみ収集車の中へ投げ込まれていった。
結菜のポケットにはもうどこも開けられない鍵だけが残った━━。
* * *
「証拠がないんじゃない」
警察へ四度目の相談に行った帰り、結菜はファミリーレストランで言った。
「消した人がお金を持ってるだけだよ」
芙美は答えられなかった。
そのとおりだった。
孝之は証拠を集めたから殺された。
殺した側は証拠を消して本人のパソコンへ嘘を書き、死者が反論できないことを利用して自殺へ変えた。
映像が欠ければ偶然、怪我があれば転倒、翌朝の約束があっても死を隠すための言葉、娘へ送った愛情さえ自殺前に安心させようとした文章へ置き換えられる。
あらゆる証拠が最初に決められた〈自殺〉という答えへ入る形に削られていった。
芙美と結菜が持っているのは十一分二十七秒の通話履歴、父娘のメッセージ、偽の遺書の写し、そしてもう家を開けられない鍵だけだった。
「おばさん、エルカリって知ってる?」
「フリマアプリでしょう」
「十三円の出品」
芙美は顔を上げた。
遺族や犯罪被害者の掲示板、テレビで囁かれている都市伝説を芙美も知らないわけではなかった。
法に裁かれなかった人間がいるとき、被害者の遺留品か、生前の記憶が強く染みついた品を午前一時十三分に十三円で出品する。
説明欄には犯人の名前を直接書かず、その罪と居場所を記す。
依頼が正しければ姿の見えない購入者〈El〉が現れ、遠からず加害者へ相応の代価を支払わせる。
警察は悪質な虚偽情報だと否定している。
それでも、十三円で出品された直後に不可解な死を遂げた人間は一人ではない。
処刑と呼ばれる生配信には人間の仕業では説明できない現象が何度も記録されていた。
「駄目よ」
芙美はすぐに答えた。
「あれが本当なら、人を殺すってことでしょう」
「お父さんは殺された」
「だからって、私たちまで同じことをしたら━━」
「同じじゃない……!」
結菜は制服のポケットから鍵を出した。
テーブルへ置くと、小さな金属音がした。
「お父さんは何も選べなかった。仕事も家も私も取られて、最後の言葉までお母さんに書き換えられた。私が欲しいのはお母さんたちに同じことをすることじゃない」
鍵を押さえる指が震えている。
「お父さんの言葉を、お父さんのものに戻したい」
「それで誰かが死んだら結菜ちゃんはずっと背負うことになる」
「もう背負ってるよ……」
結菜は芙美を見た。
「お父さんが死んだ朝からずっと考えてる。あのとき学校の端末じゃなく警察へ連絡してたら、もっと早くおばさんに相談してたらお父さんを助けられたかもしれないって。私が黙ってても、お母さんたちが何もなかったみたいに暮らしてても軽くならない」
「結菜ちゃんのせいじゃない」
「だったら、お母さんたちのせいだって誰かに認めてほしい……!」
芙美は言葉を失った。
自分も同じものを求めていた。
弟を生き返らせることはできない。
それでも娘を愛していたこと、翌朝警察へ行こうとしていたこと、最後まで生きる希望を手放さなかったことを偽物の遺書に負けたまま終わらせたくなかった。
「すぐには決められない」
「うん」
「今夜まで考えさせて」
「分かった」
結菜は鍵をポケットへ戻した。
芙美は帰宅したあと、十三円の出品について調べ続けた。
成功したという書き込みの多くは削除され、残っているのは真偽を確かめられない画面画像と処刑映像の記録だけだった。
偽の依頼には何も起こらず、事実を隠した出品者には購入通知が届かない。Elは依頼人が望んだ相手を殺すのではなく罪そのものを確認して判決を下すと書かれている。
それが本当なら、自分たちの思い込みで無実の人間を殺すことはない。
反対に、何も起こらなければ孝之が自殺だったということになるということか。
芙美が最も恐れたのは御堂と美沙が死ぬことではなく、Elにまで弟の死を否定されることだった。
午後七時を過ぎた頃、結菜からメッセージが届いた。
『無理なら出品しなくていい。でも、お父さんを信じることだけはやめないで』
芙美は画面を見たまま昨夜ではなく、孝之が死ぬ前の最後の夜を思い出した。
『もし俺に何かあったら、結菜に伝えてほしい』
『自分で伝えなさい』
弟は自分で伝えられなかった。
ならば、姉である自分が代わりに伝えなければならないと━━。
* * *
午前一時を過ぎ、芙美と結菜は児童相談所から許可を得て借りた面談室にいた。
白い机の上へ、孝之の鍵を置く。
結菜がエルカリを開き、傷のある面がよく見えるように写真を撮影した。
商品名。
━━お父さんが帰れなかった家の鍵。
商品の状態。
━━傷や汚れあり。
価格。
━━十三円。
説明欄へ、結菜が文字を入力する。
『この鍵を持っていた人は翌朝警察へ行く約束をしたまま、自殺したことにされました』
『本人のパソコンには、本人が絶対に書かない遺書が残されています』
『お父さんは、血が繋がっていなくても私は娘だと言いました』
『それなのに遺書には、父親のように振る舞ったことを謝ると書かれていました』
『お父さんの言葉を、お父さんを殺した人たちから取り戻してください』
結菜は入力を終え、芙美へ端末を渡した。
芙美は最後に一行を加えた。
『弟は、自殺なんかしていません』
時計が午前一時十三分へ変わる。
「押すね」
結菜の問いに、芙美は頷いた。
二人の指が重なるようにして、出品ボタンへ触れた。
画面の中央で白い円が回る。
通信中。
商品を登録しています。
やがて、見慣れたフリマアプリの出品完了画面が表示された。
何も起こらない。
一秒。
二秒。
十秒。
「やっぱり、ただの噂だったのかな」
芙美が呟いた直後、面談室の照明が一度だけ明滅した。
結菜の端末からエルカリの色が消えていく。
商品画像も説明欄も黒く染まり、その中央に白い文字が一行ずつ浮かんだ。
━━出品者を二名確認しました。
━━姉による証言。
━━娘による証言。
━━両者の祈りは、同一の死者を指しています。
芙美と結菜は思わず息を止めた。
画面には、孝之が最後に送った文章が表示される。
〈父親になった日から十六年分の記憶は、紙一枚や検査の数字では消えない〉
続いて、偽の遺書が現れた。
〈血の繋がらない結菜へ、父親のように振る舞い続けたことを謝ります〉
二つの文章の間へ、赤黒い線が引かれる。
━━筆者不一致。
━━死者の意思と一致しない文章を検出しました。
━━木戸孝之さんは、自ら死を選択していません。
その一行を読んだ瞬間、結菜の喉から押し殺していた声が漏れた。
芙美は端末を持つ娘の手ごと抱きしめた。
警察でも会社でも学校でも、二人が何度訴えても与えられなかった答えだった。
弟は自殺していない。
父親は娘を捨てていない。
画面へ新しい文字が表示される。
━━祈りの内容に虚偽はありません。
━━商品価格、十三円。
━━購入者による確認を行います。
* * *
同じ時刻、《ミモザ》では最後の客が帰ったあとだった。
七緒は厨房の火を確認し、客席で遅い賄いを食べている祈へ声をかけた。
「祈くん、食べ終わったら二階へ戻ってね。今日はもう追加で作らないから」
「まだご飯が二升ほど残っています」
「それは明日の分」
「明日まで保存される保証はあっても、僕の空腹が明日まで待つ保証はありません」
「保証人の私が待たせます」
「家庭内の権力構造に問題を感じます……」
「児童相談所に訴えてみる?」
「既に一度お世話になっていますので、再訪はさすがに気まずいですね」
祈はそう言いながらも七緒が蓋を閉めた炊飯器へ手を伸ばさなかった。
七緒が二階へ上がったあと、エプロンのポケットに入れていた黒い端末が震える。
━━新しい商品が出品されました。
画面には、傷のついた一本の鍵が映っていた。
商品名は〈お父さんが帰れなかった家の鍵〉。
価格は十三円。
祈が非公開資料を開く。
木戸孝之が会社へ入社した日。
美沙と結婚した日。
結菜が生まれ、初めて父親として出生届を出した日。
十六年間の家族写真。
御堂と美沙が交わしたメッセージ。
会社資金で支払われたホテル、宝石、住宅費。
孝之の承認番号を使って作られた横領記録。
偽造された離婚届。
そして娘と引き離された夜━━。
孝之が複数の保存先へ分けた証拠を本人の認証情報で削除する美沙。
事件当夜、御堂邸の寝室へ置かれた二台の携帯電話。
記録を停止させた防犯カメラ。
管理会社の車両を使い、孝之の部屋へ入る二人。
スタンガン。
砕かれた睡眠薬。
塞がれた換気口。
結菜の誕生日を入力し、孝之のパソコンを開く美沙の指。
そして偽の遺書へ最後の一文を加える御堂の声。
〈御堂社長は何も悪くありません〉
祈は、食べかけの賄いへ視線を落とした。
人間だった頃、自分の名義で作られた証拠を誰も疑わなかった。
死者や追放された者の言葉を偽物へ置き換えるには本人より社会的に信用されている人間が一人いれば足りる。
木戸孝之を殺したのは、炭から生じた一酸化炭素だけではない。
会社が作った横領犯という肩書き。
妻が作った暴力的な夫という記録。
社長が作った自殺する理由。
そして、本人のパソコンで入力された本人のものではない最後の言葉━━。
祈は資料の最後まで確認した。
出品者は二人。
佐伯芙美。
木戸結菜。
二人とも、誰を殺してほしいとは書いていない。
ただ、死者の言葉を本人へ返してほしいと祈っていた。
祈の指が、黒い購入ボタンへ触れる。
「家族とは、不便なものですね」
誰もいない客席で呟いた。
血液でも戸籍でも資産でも、思いどおりに所有できない。
それでも、捨てられた少年へ帰る場所を与えた女性を祈は家族に近いものとして認識していた。
「ですから、外注には向かないのでしょう」
黒いボタンが沈んだ。
━━Elが商品を購入しました。
児童相談所の面談室で、結菜の端末にも同じ通知が表示される。
芙美は泣きながら何度も弟の名前を呼び、結菜は父親の鍵を両手で握った。
それは木戸孝之が帰ってきたという通知ではない。
失われた命が戻るわけでも、娘と食べるはずだったプリンの蓋がもう一度開くわけでもない。
それでも少なくともこの世界にただ一人、木戸孝之の言葉を偽物の遺書より先に信じ、その死を自殺ではないと認めた存在が現れた━━。
* * *
美沙が最初に異変を覚えたのはその翌朝だった。
御堂邸のダイニングには専属の料理人が用意した朝食が並んでいた。
焼きたてのパン、半熟の卵、果物、温かいスープ。
孝之と暮らしていた頃、美沙が金を理由に一度も買わなかった高価な食材が誰も値段を気にしない量で使われている。
美沙はコーヒーへ口をつけた瞬間、胃の奥から込み上げるものを感じた。
「うっ……」
椅子を引き、口元を押さえて洗面室へ向かう。
その姿を見て御堂が新聞から顔を上げた。
「どうした」
「ちょっと、気分が……」
便器の前へ膝をついたが吐くものはほとんどなかった。胃液の苦さだけが喉へ残り、腹の奥では小さな熱が脈打っている。
鏡を見ると、頬が僅かに紅潮していた。
美沙は自分の腹へ手を置いた。
そしてスマホで予定の日を過ぎていることにそのとき初めて気づいた。
孝之を殺した夜から日付を数える余裕などなかった。
御堂との関係は長かったが結菜を身籠もって以来、一度も次の子供はできなかった。
御堂の妻が生きていた頃は妊娠を望むことも許されず、妻の死後も結菜の存在を公にする準備が先だと言われてきた。
だが今は孝之がいない。
御堂の妻もいない。
二人の間にあるものを隠す理由はもう何もない。
「まさか……」
美沙は午前中に薬局へ行き妊娠検査薬を購入した。
御堂へは告げずに寝室に付属した浴室へ入る。
説明書に書かれた時間が過ぎるまでの数分が十八年間よりも長く感じられた。
白い判定窓へ、線が一本浮かぶ。
続いて、もう一本。
陽性だった。
美沙は口元を押さえた。
孝之が死んでから初めて演技ではない涙が目に浮かんだ。
鏡の中の自分へ笑いかけ、まだ何の膨らみもない腹を両手で包む。
「やっと、やっとよ……」
結菜のときとは違う。
誰かへ父親の役を押しつける必要も御堂の名を隠す必要もない。
生まれた瞬間から御堂の子供として認められ、あの家と会社と財産を受け継ぐ本当の家族になれる。
美沙は検査薬を持って書斎へ向かった。
「御堂さん」
御堂はオンライン会議を終えたところだった。
「どうした」
「見て」
机へ検査薬を置く。
御堂は意味を理解すると、喜ぶより先に眉を寄せた。
「━━、本当に私の子か」
その一言に美沙の笑顔が僅かに固まった。
「あなた以外にいるわけないでしょう……?」
「確認しただけだ」
「孝之とはずっと何もなかった。結菜のときから私が愛しているのはあなただけよ」
御堂は椅子へ背を預け、判定窓の二本線を見つめた。
やがて、自分の血を受け継ぐ人間がもう一人増える意味を計算し終えたように立ち上がる。
「病院を手配しよう。外にはまだ話すな」
「分かってる」
「今度は、最初から私の名字を名乗らせる」
美沙の顔へ喜びが戻った。
「ええ」
「結菜も、弟か妹ができれば考えが変わるだろう。いつまでも死んだ男へ執着してはいられない」
「きっとそうよ。赤ちゃんを見れば私たちが本当の家族だって分かるわ」
美沙は御堂の手を取り、自分の腹へ重ねた。
まだ胎動を感じる時期ではない。
それでも掌の下で何かが一度だけ動いた。
小さな泡が弾けたような、微かな震えだった。
「今、動いた気がする」
「いやいや、早すぎるだろう」
「ふふっ……母親には分かるの」
美沙は幸せそうに笑った。
御堂との子供が自分たちの会話へ応えるように動いたのだと思った。
その夜、美沙が眠ったあともお腹の奥では胎動が続いていた━━。




