第五十四話 その鍵で帰る家はない
それでも孝之は、家へ帰った。
駅前のコンビニで結菜が好きなプリンを二つ買った。
商品棚の前では三つ取ろうとして伸ばした手を途中で止めた。
高校時代の友人と食事をしているはずの美沙が御堂の車でどこへ向かったのかは分からない。
それでも妻の分まで買わないことが、自分から十七年間の結婚生活を否定する行為に思えた。
まだ、何かの間違いであってほしかった。
美沙が御堂へ身体を寄せたことも二人が唇を重ねたことも結菜の名を出して笑っていたことも、暗い地下駐車場で疲れた自分が見た幻なら明日の朝には今までと同じ生活へ戻れる。
孝之は自宅の前へ着くと会社まで取りに戻った鍵を錠前へ差し込んだ。
いつもと同じ感触で鍵が回る。
玄関を開けた途端、二階から結菜が駆け下りてきた。
「おかえり。プリン買ってきた?」
「た、ただいま……ちゃんと買ってきたよ」
「さすがお父さん」
結菜は孝之の手から袋を受け取り、冷蔵庫へ向かった。十六歳になっても好物を前にしたときの笑顔だけは幼い頃とほとんど変わっていない。
「今日、遅かったね」
「あ……ああ、会社へ鍵を忘れて取りに戻ったんだ」
「また? この前は定期を机に忘れてたじゃん」
「四十五にもなると、必要なものほど置いてくるようになるらしい」
「じゃあ、そのうち私のことも学校へ置いて帰りそう」
「結菜は忘れ物として大きすぎるな」
「そこは忘れないって言ってよ」
結菜が頬を膨らませる。
孝之は笑おうとしたが、娘の目元に美沙と似た形を見つけた瞬間地下駐車場で聞いた言葉が頭の中へ戻ってきた。
『結菜が生まれた日から、自分の娘だって信じて育ててきたんだから』
呼吸の仕方が分からなくなる。
「お父さん?」
「いや……何でもない。少し疲れただけだ」
「また仕事を押しつけられたの?」
「仕事を押しつけてもらえるうちが会社員の華だよ」
「それ、社畜の発想だ」
「高校生が嫌な言葉を覚えたな」
二人で食卓へ座り、プリンの蓋を開けた。
結菜は学校であった出来事を話した。
体育の授業でバレーボールが顔に当たったこと、友人が数学の小テストで名前を書き忘れたこと、進路希望調査へ何を書けばよいのか分からないこと。
孝之は相槌を打ちながらその一つ一つを聞いた。
初めて言葉を話した日も自転車へ乗れるようになった日も、中学受験をやめたいと泣いた夜も覚えている。
熱を出せば朝まで額のタオルを替え、運動会では美沙に呆れられるほど早く場所を取り、高校の合格発表では結菜より先に泣いた。
自分が父親でなかったのならあれは誰の時間だったのだろう……。
結菜が生まれてから積み重ねてきた十六年間まで、御堂の一言で他人のものになってしまうのか。
「お父さん、本当に大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ」
今度は、できるだけ普段どおりに笑った。
「結菜を学校へ忘れてきても、必ず取りに戻る」
「えぇ? 今さらさっきの話へ戻る?」
結菜は呆れながらも笑った。
その笑顔を見ている間だけは、誰の血が流れているのかなど考えずにいられた。
* * *
美沙が帰宅したのは日付が変わる直前だった。
「ただいま」
いつもと変わらない声で玄関を開け、孝之の顔を見ると少し酔ったように笑う。
「まだ起きてたの?」
「結菜とプリンを食べていた」
「私の分は?」
「友達と食事だったから、甘いものも食べたかと思って」
「ひどーい。今度から私の分も買っておいてね」
美沙は不満そうに言いながら孝之のネクタイへ手を伸ばした。
朝と同じように結び目を整えるふりをしたあと、そのまま頬へ軽く口づける。
香水の奥から、孝之が吸わない煙草の匂いがした。
「……楽しかった?」
「うん。久しぶりに皆と会えて、話が止まらなくなっちゃった」
「誰と会ったんだ?」
「高校のときの友達。前にも話したでしょう?」
名前は一人も出さなかった。
孝之が黙っていると美沙は心配そうに顔を覗き込む。
「どうしたの?」
「いや、何でもない」
「変な人」
美沙は笑うと二階へ上がっていった。
十七年間、孝之はその笑顔を妻の愛情だと思ってきた。
今は、嘘を疑われていないことを確認した人間の笑顔にしか見えなかった。
* * *
孝之は美沙を問い詰めなかった。
問い詰めれば否定される。
証拠がなければ、自分が見間違えたことにされる。
そして何より、御堂が口にした結菜のことを確かめる準備ができていなかった。
翌朝、美沙はいつもどおり弁当を作った。
「昨日はごめんね。今度、私の分のプリンも買ってきてよ」
「……分かった」
「今日も遅くなる?」
「月末だからな」
「あまり無理しないでね」
美沙はネクタイを直し、笑顔で孝之を送り出した。
弁当箱の中には孝之が好きな卵焼きと生姜焼きが入っていた。
米の上には海苔で小さく〈頑張れ〉と作られている。
昼休み、孝之はその弁当を前にして一つも箸を動かせなかった。
こんなものを用意しておきながら妻は昨夜、別の男の胸へと身体を預けていた。
自分が喜ぶ味も励まされる言葉も知っている。
だからこそ、それらを疑われないために使ってきたのだとすれば美沙にとって十七年間の夫婦生活は愛情ではなく長い迫真の演技だったことになる━━。
孝之は管理本部の経理課で働いていた。
大きな権限を持つ役職ではないが御堂が使った社用車の記録、出張費、接待費、系列企業から送られてくる請求書には業務として触れられる。
最初に見つけたのは、御堂が毎月利用している会員制ホテルの請求だった。
利用人数は二名━━。
御堂が海外出張として処理していた日にも同じ部屋が国内で使われている。
宿泊者の名は個人情報として伏せられていたが、ホテルのレストランで追加注文されたワインは美沙が好んで飲む銘柄だった。
偶然だと思おうとした。
そんな思いとは裏腹に次は、社長車の運行記録を確認した。
美沙が友人と会うと言って家を空けた日の多くに、御堂の車が自宅近くを通っている。
結婚記念日の前日、美沙が母親の看病を理由に実家へ泊まった夜には二人を乗せた車が県外の温泉旅館まで走っていた。
宿泊費も食事代も、会社の接待費として処理されている。
十七年間のすべてを調べることはできなかった。
それでも電子化された七年分の記録だけで、二人が会っていた日はざっと百日を超えた。
美沙が金に余裕がないという理由で家族旅行を断った月、御堂は会社の金で美沙へ宝石を買っていた。
結菜の誕生日に残業だと連絡してきた孝之が深夜に一人でケーキを持ち帰った夜、美沙は幼い娘を寝かせたあと御堂の車へ乗っていた。
自分が"家族"のために働いている時間を選び、二人は会っていた。
だが孝之は会社の資料そのものを私物のハードディスクへ複製しなかった。
会社の資料を持ち出せば御堂に反撃の理由を与えることになる。
必要な管理番号と承認日だけを手帳へ書き写し、正式な内部通報制度を使う準備を始めた。
* * *
その夜、帰宅すると美沙は入浴していた。
食卓に置かれたタブレットへ通知が表示される。
以前家族で共有していた端末だった。
今では美沙が動画を見るために使っているが、古い写真や予定表は家族用のクラウドへ接続されたままになっている。
画面へ表示されたのは御堂からのメッセージだった。
『あいつの昨日の顔を見たか?』
続いて、美沙の返信が同期される。
『何も気づいてないわ。帰ったら結菜とプリンを食べてた』
『あいつに結菜を触らせておくのもそろそろ終わりにしたい』
『急がないで。離婚するなら一番得になる形で私は別れたいの』
孝之の喉から怒りを通り越して音にならない息が漏れた。
画面へ触れ、古い会話を遡ると数年前のメッセージがまだ残っていた。
『結菜が俺に似てきた』
『外でそういうことを言わないで。あの人が疑ったら困るでしょう』
『自分の娘なのに、父親と名乗れないのは面白くない』
『代わりに育ててもらってるんだから我慢して。あなたは欲しいものを買ってあげるだけでいいの』
さらに遡る。
結菜が小学校へ入学した年、美沙は御堂へランドセル姿の写真を送っていた。
『あなたの娘、可愛いでしょう?』
『俺が選んだ学校へ入れたかったな』
『まだ駄目。あの人にはちゃんと父親をさせてあげないと』
孝之はタブレットから手を離すと浴室からシャワーの音が聞こえる。
美沙は鼻歌を歌っていた。
壁に掛けられた家族写真の中で幼い結菜を抱いた自分が笑っている。
その隣では美沙が、夫と娘を愛しているかのような母親の顔で微笑んでいた。
写真を撮った日にも二人の間では自分を騙す相談が行われていたのかもしれない。
孝之はタブレットの画面を撮影し、データを複数の場所へ保存した。
手の震えは、最後まで止まらなかった。
* * *
「……いつからなんだ」
三日後の夜、孝之は食卓へ資料を並べた。
社用車の運行記録。
ホテルの請求番号。
美沙と御堂のメッセージ。
結菜は自室にいる。
今夜だけは絶対に一階へ下りてこないよう伝えていた。
美沙は椅子へ座ると、言い逃れを考えるように資料を一枚ずつ見た。
「何のこと?」
「もうやめてくれ」
孝之は声を荒らげなかった。
「御堂社長との関係は、いつからなんだ」
「はぁ……あなたと結婚する前から」
あまりに簡単に答えられたため、孝之は次の言葉を失った。
「……どうして俺と結婚した」
「御堂さんは、あの頃すぐには離婚できなかったの。会社を継いだばかりで奥さんの実家からも出資を受けていたから」
「だから俺を選んだのか」
「あなた、優しかったでしょう。真面目でお酒も賭け事もしない。会社から言われたことには逆らわないし、家庭を持ったら大切にしてくれると思った」
それは夫にしたい理由ではなかった。
ただ別の男の子供を育てさせるために、都合のよい人間を選ぶ条件だった。
「結菜は……御堂社長の子供なのか」
「そうよ」
美沙は否定しなかった。
「あなたと結婚したときには、もう妊娠していたの」
孝之は結婚した年を思い返した。
美沙から妊娠を告げられた日のことを覚えている。
予定より少し早いが、医師から問題はないと言われたのだと説明されると孝之は涙を流した。
父親になれることが嬉しくて美沙の手を握り、二人でこの子を幸せにしようと何度も約束した。
あの涙を、美沙はどのような気持ちで見ていたのだろう━━。
「俺が知ったときのことを、考えたことはなかったのか」
「知らなければ傷つかなかったでしょう」
「俺の十七年を、そんな言葉で終わらせるのか……?」
「あなたにだって、良いことはあったじゃない」
美沙は責められていることに耐えられなくなったように眉を寄せた。
「結菜みたいな可愛い娘から十六年もお父さんって呼んでもらえた。御堂さんも、あなたが会社で困らないようずっと気を遣ってくれていたのよ」
「なんだと? 気を遣う……?」
「本当なら、あなたみたいな人が今の役職まで上がれたと思う?」
孝之の中で仕事への誇りまで音を立てて崩れた。
二十年間誰よりも早く出社し、繁忙期には休日も会社へ出た。
部下の失敗を引き受け、必死に資格を取り、家族を養うために働いてきた。
目の前にいるクソ女はその時間さえ、御堂から与えられた温情だと言った。
「結菜には、話すのか」
「いずれ話すわ。御堂さんの奥様も亡くなって三年経つしもう隠し続ける理由もないから」
「ふざけるな、結菜は俺の娘だ」
「違うわ」
美沙は初めて、はっきりと孝之の言葉を否定した。
「あなたの血なんか一滴も入っていない」
「それでも、俺が育てた」
「産んだのは私よ。父親は御堂さん。あなたは私たちが必要だった間、代わりをしていただけでしょう」
二階で、何かが落ちる音がした。
孝之と美沙が同時に振り向く。
階段の途中に、結菜が立っていた。
「今の、どういう意味……?」
「部屋にいなさいと言っただろう」
「私のお父さんが、御堂社長って……どういう意味?」
結菜の顔から血の気が失われている。
美沙は取り繕うこともなく、椅子から立ち上がった。
「ちょうどよかった。結菜にも話そうと思ってたの」
「美沙、今はやめろ……!」
「なに? どうせ分かることよ」
美沙は娘へ近づき、安心させるように両肩へ手を置いた。
「あなたの本当のお父さんは、御堂さんなの。だからこれからは今までよりずっと良い生活ができる。大学だって好きなところへ行けるし、欲しいものも我慢しなくていいのよ」
「じゃあ、お父さんは?」
結菜が孝之を見る。
「孝之さんは、今まであなたを育ててくれた人」
「……お父さんじゃないの?」
「本当の父親ではないわ」
結菜は母親の手を振り払った。
「ふざけないでっ!」
「結菜」
「私のお父さんはこの人だよ! 御堂社長なんかじゃない!」
「今は混乱しているだけよ」
「何言ってるの!? 混乱させたのはお母さんでしょ!」
結菜の目から涙が溢れた。
「お父さんにずっと嘘をついて、私にも嘘をついてたんでしょ! それなのになんでこれから良い生活ができるなんて笑って言えるの! アンタ頭おかしいんじゃない!?」
美沙の顔から、母親の表情が消えた。
「誰に向かって、そんな口を利いてるの」
「私たち二人を騙し続けてた人だよ!」
美沙の手が上がる。
娘の頬へ届く前に、孝之がその手首をつかんだ。
「おい……結菜に触るんじゃねぇ」
「離して」
「結菜に、触るな……」
「痛い! 離してよ!」
美沙が大声を上げる。
孝之はすぐに手を離したがその瞬間、美沙は自分から食卓へ身体をぶつけた。
椅子が倒れて腕が卓上の皿へ当たって赤くなる。
「な、何するのよ!」
「は? 何言ってんの? お母さんが自分で━━」
「結菜は黙ってなさい!」
美沙は腕の赤みをスマートフォンで撮影した。
「何をしてる」
「証拠を残してるの━━」
撮影を終えると、美沙は涙を浮かべる練習でもするように何度か瞬きをした。
「あなたが怒鳴って私の腕をつかんで、突き飛ばした証拠」
「そんなことはしてない!」
「結菜。お父さんが怖かったわよね?」
「何言ってんの! 私は全部見てたから!」
「そのうち、どちらを信じた方が自分のためになるか分かるわ」
美沙は倒れた椅子を戻し、御堂へ電話をかけた。
孝之はそのとき、自分が見つけた不倫の証拠を美沙へ突きつけたのではなく二人へ攻撃を始める理由を渡してしまったのだと気づいた。
* * *
翌朝、孝之の社員証は正面玄関で反応しなかった。
思わず警備員へ声をかけると管理本部から指示が来ていると言われた。
「木戸さんには、自宅待機命令が出ています」
「は? 理由は?」
「私には分かりません。詳しいことは人事へ連絡してください」
その人事へ電話をかけても現在調査中という答えしか返ってこない。
午前十時過ぎ、会社の代理人を名乗る弁護士からメールが届いた。
機密情報への不正アクセス。
社外秘資料の複製。
代表取締役に対する脅迫。
会社資金を私的に流用した疑い。
だが孝之にはどれも身に覚えがなかった。
経理システムを確認しようとしても、既にアカウントは停止されている。
同僚へ電話をかけると、最初の二人は出なかった。
三人目は声を潜め、社内では孝之が何年も経費を横領し、発覚を恐れて御堂を脅したことになっていると教えた。
「なんだそれ……そんな記録はない!」
『昨日まではなかったよ。でも今朝、内部監査で見つかったことになってる。木戸さんの承認番号で架空の会社へ何度も振り込まれてる』
「俺の番号は、管理者権限があれば変更できるんだ」
『分かってる。でも、俺に電話してこないでくれ。通話したことが知られたら俺まで疑われる』
電話は切れた。
午後には懲戒解雇を予定しているという通知が届いた。
二十年勤めた会社は結局、孝之へ一度も説明の機会を与えなかった。
その日の夕方、自宅へ戻ると鍵が開かなかった。
何度回しても途中で止まる。
表札から木戸の文字が外され、玄関脇には見たことのない防犯カメラが取りつけられていた。
呼び鈴を押す。
応答したのは美沙だった。
『……何の用?』
「鍵を替えたのか」
『あなたが暴力を振るったからでしょう。警察にも相談したわ』
「結菜と話をさせてくれ」
『今は会いたくないって』
「ふざけんな、本人に確認させろ」
『あなた、本当の父親でもないのにどうしてそこまで執着するの?』
通話が切れた。
もう一度押しても反応はない。
二階のカーテンが動き、窓の向こうに結菜の顔が見えた。
「結菜!」
孝之が呼ぶと娘は窓を開けようとしたが、背後から伸びた美沙の手がカーテンを閉める。
直後、家の中から結菜の声が聞こえた。
「お父さん! 私、会いたくないなんて言ってない!」
「結菜!」
「お母さんがスマホ取ったの! 警察呼んで!」
孝之は呼び鈴を何度も押した。
先に警察へ電話したのは美沙だった。
駆けつけた警察官へ、孝之は娘が家の中から助けを求めていると訴えた。
しかし美沙は玄関先で赤くなった腕の写真と既に取得していた医師の診断書、会社から送られた自宅待機命令を見せた。
「夫は会社を解雇されそうになって……私と娘へ当たっているんです」
「違います! その怪我は美沙が自分で━━」
「お話は署で伺いますから、まず家から離れてください」
「娘の声を聞いたでしょう!」
「家庭内の問題ですので、ここで刺激しない方がいい」
「結菜は助けを求めているんです!」
「木戸さん、落ち着いてください」
警察官二人に両脇を囲まれ、孝之は自分の家から離された。
結菜は二階の窓を内側から叩き続けていた。
その姿が角を曲がって見えなくなるまで、孝之は何度も振り返った。
* * *
それからの三週間で孝之は仕事と家族だけでなく、自分が積み上げてきた人間関係まで失った。
会社は正式に懲戒解雇を発表し、孝之が機密資料を盗み、社長を脅迫して金を要求したという説明を全社員へ送った。
退職金は支給されず会社が被った損害の一部として未払いの給与まで留保された。
御堂は取引先へ元社員による情報流出に注意するよう文書を送った。
孝之が別の会社へ応募すると、面接までは進んでも数日後には必ず不採用の連絡が届く。
一社だけ、採用担当者が申し訳なさそうに前職に在籍確認を行ったところ重大な問題を抱えていると回答されたことを教えた。
そして預金口座に残っていた家族の貯金は、美沙によってほとんど引き出されていた。
家は美沙の名義になっていた。
購入した当時、美沙の方が手続き上有利だからと説明されて孝之は疑うことなく書類へ署名した。
住宅資金の一部が御堂の関連会社から支払われていたことを、追い出されたあとで知った。
自分が毎月渡していた生活費と住宅費は、美沙と御堂が用意した家へ住まわせてもらうための利用料にすぎなかった。
離婚届も、孝之の知らない間に提出されていた━━。
署名欄には自分の筆跡を真似た名前が書かれ、結菜の親権者には美沙が指定されている。
孝之は役所で無効を訴えたが、既に受理された届出を訂正するには家庭裁判所や警察での手続きが必要だと説明された。
警察へ署名を偽造されたと訴えても美沙は以前から離婚へ同意していたと主張している、夫婦間の認識の違いではないかと言われた。
御堂が手配した弁護士は孝之が異議を取り下げ、会社の資料をすべて返却し、美沙と結菜へ接触しないと約束すれば会社からの損害賠償請求を取り下げてもよいと提案した。
それは孝之が父親であり続けたければ、父親であることを諦めろという条件だった。
孝之は署名しなかった。
その間も結菜とは連絡が取れなかった。
携帯電話は解約され、学校へ会いに行っても美沙から接触を禁じる申し入れがあるとして校門で止められる。
担任へ手紙を渡そうとしたが家庭問題へ学校は関与できないと返された。
夜になると、孝之は結菜とのメッセージを最初から読み返した。
学校の成績。
友達との喧嘩。
夕食に食べたいもの。
美沙に叱られたときの愚痴。
最後に届いたのは、プリンを頼むメッセージだった。
何度読み返しても、そのあとに新しい言葉は増えなかった━━。
* * *
一か月後、孝之のもとへ見覚えのないアカウントからメッセージが届いた。
『お父さん?』
その四文字を見ただけで、誰なのか分かった。
『結菜か?』
『学校のタブレットから送ってる。お母さんには言わないで』
続けて、何通もの文章が届く。
『私、お父さんに会いたくないなんて言ってない』
『御堂さんの家に無理やり連れてこられた』
『お母さんは、もうここが私たちの家だって言ってる』
『名字も御堂に変えるって』
『嫌だって言ったら、お父さんは私を本当の娘だと思ってないって言われた』
孝之はすぐに否定した。
『そんなことは一度も思っていない』
『でも……血が繋がってないんでしょ』
返信を打とうとして、指が止まった。
大丈夫だと書くだけでは結菜が恐れているものを消せない。
孝之は時間をかけて文章を作った。
『血が繋がっていないことは本当だと思う。でも結菜が初めて立った日も、入学式で緊張していた顔も、高校へ受かったときのことも全部覚えている。父親になった日から十六年分の記憶は、紙一枚や検査の数字では消えない。結菜が嫌だと言っても俺にとっては大切な娘だ。それは変わらないよ』
しばらく返事はなかった。
やがて、一行だけ届いた。
『嫌じゃない。私のお父さんは、お父さんだけだよ』
孝之は狭い部屋の床へ座り込み、声を出さずに泣いた。
妻から騙されていた十七年と娘を育てた十六年。
二つは同じ時間の中に存在している。
美沙にとってすべてが偽りでも、結菜と過ごした時間まで偽物になるわけではなかった。
『結菜に会いたい』
孝之は送った。
『私もお父さんと暮らしたい』
『必ず迎えに行く』
孝之はそう返信した。
その約束だけが、何もなくなった生活の中で最後に残ったものになった━━。
* * *
孝之は決して諦めなかった。
昼は日雇いの仕事をし、夜は会社と美沙が残した記録を調べた。
御堂が架空会社へ送金したことにされている記録は孝之のアカウントが停止されたあとで作成されていた。
振込先の会社は御堂の親族が所有する休眠法人である。
孝之の承認番号は使われていたが、処理を行った端末は社長室の専用回線へ接続されていた。
以前の業務用端末と同期されていた作業履歴には、削除されたファイルの断片が残っていた。
美沙との旅行を接待費へ偽装した請求書。
美沙名義の家を購入するために関連会社から支出された金。
学校法人や政治家へ渡された贈答品。
孝之を解雇する前夜、人事部長へ送られた指示。
『横領の形を作れ。木戸が反論しても外で雇われないよう、先に情報を回しておけ』
署名を偽造した離婚届についても美沙が御堂へ相談したメッセージが残っていた。
『あの人、離婚届に署名してくれない』
『似せて書けば役所は調べない。受理させてから争わせろ。その間に結菜をこちらへ移す』
『結菜が孝之のところへ行きたいって』
『子供は環境にすぐ慣れる。金のない男と暮らすより、こちらにいた方が幸せだと分からせればいい』
孝之はすべての記録を複数の保存先へ分けた。
会社の内部通報窓口へ送っても御堂の指示を受けた部署が握り潰す。
労働基準監督署へ相談しても会社は孝之の横領に対する正当な懲戒だと主張し、警察は資料の入手方法に問題があるとして御堂への捜査を始めなかった。
それでも証拠が増えるたび、孝之は結菜のもとへ少しずつ近づいていると信じた。
御堂たちは孝之が疲れて諦めるのを待っている。
ならば……諦めなければいい。
地下駐車場で二人を見てから三か月が経とうとしていた。
その夜、孝之は最後の記録を復元した。
御堂の社用端末から美沙へ送られた音声だった。
『木戸が警察へ行く前に、持っているものを全部回収しろ。事故でも起こしてくれれば簡単なんだがな』
その声に美沙が笑って答えている。
『あの人、自殺するほどの度胸もないものね』
孝之は音声を保存すると時計を見た。
午後十一時四十八分。
遅い時間だったが、姉の佐伯芙美へ電話をかけた。
『もしもし、孝之?』
「姉さん、明日の十時に会えないか」
『どうしたの、こんな時間に』
「警察へ行く。御堂が会社の金を使った記録も美沙とのやり取りもすべて揃った。俺を横領犯にした記録と、離婚届を偽造するよう指示した文章もある」
『一人で行かない方がいい。私も一緒に行く』
「そのつもりで電話した」
芙美が、少し安心したように息を吐く。
『じゃあ、明日の十時。駅前の交番の前で待ってる』
「分かった」
電話を切ろうとして、孝之は姉を呼び止めた。
「姉さん」
『何?』
「もし俺に何かあったら、結菜に伝えてほしい」
『縁起でもないこと言わないで』
「念のためだよ」
孝之は机の上に置いた、結菜の入学式の写真を見た。
「血が繋がっていなくてもあの子が俺の娘であることは変わらない。俺は一度も、結菜の父親だったことを後悔していないって」
『自分で伝えなさい。明日、警察が終わったら結菜ちゃんへ会いに行けばいい』
「……そうだな」
孝之は笑った。
「明日、全部終わらせる」
『終わらせるんじゃなくて、取り戻すの』
「分かったよ。じゃあ明日」
『うん。明日』
通話が切れた。
孝之は知らなかった。
姉へ電話をかけるため立ち寄った公衆電話の向かい側に、黒い車が停まっていたことを。
その車が、孝之の住む賃貸住宅まで一定の距離を保ってついてきたことを。
* * *
部屋へ戻った孝之は玄関の鍵が開いていることに気づいた。
閉め忘れた記憶はない。
扉を開けると電気の消えた室内から甘い香水の匂いがした。
「おかえり」
美沙が、孝之のベッドへ座っていた。
「どうして、ここにいる……」
「元妻が来たら困る?」
「鍵をどこで手に入れたんだ」
「この建物、御堂さんの関連会社が持ってるの。あなたが仕事も保証人もないのに部屋を借りられたのは、どうしてだと思ってた?」
孝之が安い部屋を見つけられたのは偶然ではなかった。
追い出されたあとまで、二人が用意した場所で暮らしていた。
「結菜はどこだ━━」
「家にいるわ」
「それはお前たちの家だろう。結菜の家じゃない」
「まだそんなこと言ってるのね」
美沙は立ち上がると、テーブルの上のノートパソコンへ視線を向けた。
「会社の資料を返して」
「これを消して何もなかったことにするつもりか」
「あなたが黙れば、全部終わるのよ」
「終わるのは、俺の人生だけだ」
「ふふっ……もう終わってるでしょう?」
美沙は不思議そうに言った。
「仕事もない、家もない、結菜の父親でもない。それでもまだ自分に何か残ってると思ってるの?」
「結菜が、俺を父親だと言った」
美沙の表情が変わった。
「連絡を取ったの?」
「あの子は、お前たちと暮らしたくないと言ってる」
「子供の一時的な感情よ」
「十六年間育てた父親を選ぶことが一時的で、十六年間何もしなかった男を父親だと押しつけることが正しいのか」
「何もしていないだって?」
背後から御堂の声がした。
孝之が振り返るより先に、脇腹へ強い衝撃が走った。
「ぐぁっ!」
音と痛みが少し遅れて届く。
御堂の手には黒いスタンガンが握られていた。
孝之の身体が床へ崩れる。
腕へ力が入らず、声を出そうとしても喉が震えるだけだった。
「私はね、君のような人間には一生用意できない生活を結菜へ与えた」
御堂は孝之の背中を靴で踏んだ。
「学校も、家も、将来も、すべてだ。父親というものは運動会へ行って弁当を作れば名乗れるものではない」
「よく、言うよ……。お前は、十六年……何も、しなかったくせに……」
「それができるのが金だよ。君へ面倒な十六年を任せ、必要になったときに完成した娘を受け取れる」
御堂は笑った。
「子育てまで外注できる。経営者として、これほど効率的な投資はない」
「くそったれ……!」
孝之は床へ爪を立て、起き上がろうとした。
御堂がもう一度スタンガンを押し当てる。
視界が白く弾け、身体の感覚が途切れた。
「この人、本当に警察へ行くつもりよ」
美沙がノートパソコンを開いた。
「姉と明日の十時に会うって話してた」
「聞いていたのか……」
「ずっとつけてたもの。あなたが誰へ何を渡すか分からなかったから」
「なら、なおさら事故ではまずいな」
御堂は部屋の窓を閉め、換気口へ内側から目張りを始めた。
美沙は玄関脇に置いていた紙袋から、睡眠薬の空袋と酒の瓶、小型の炭燃焼器を取り出す。
最初から用意してきたものだった。
「な、何を……する……」
「あなたが自分で死んだことにするの」
美沙は孝之の顔を見下ろした。
「会社をクビになって、家族にも捨てられて、お金もない。誰が見ても自殺する理由は十分でしょう?」
「結菜が……信じない……」
「だから遺書を残すのよ」
美沙はノートパソコンの前へ座った。
ログイン画面が表示される。
「パスワードは?」
孝之は答えなかった。
美沙は迷うことなく、八桁の数字を入力した。
それは結菜の誕生日だった。
画面が開く。
「十七年も一緒にいたのよ。あなたが考えることくらい分かるわ」
孝之は吐き気を堪えながら、腕を動かそうとした。
御堂が背後から首をつかみ、無理やり身体を起こす。
美沙は砕いた薬を酒へ混ぜ、孝之の鼻を塞いで口の中へ流し込んだ。
咳き込んだ液体が気管へ入り、胸が焼ける。
「やめ……ろ……」
「暴れないで。苦しくなるだけよ」
「お前は……結菜の、母親だろ……」
「だから、あの子の将来を守るの」
「父親を殺して……アイツの何を、守るんだ……!」
美沙は一瞬だけ手を止めた。
それでも後悔ではなく、孝之に責められたことへの苛立ちを顔に浮かべる。
「私が結菜のために、どれだけ我慢したと思ってるの?」
「我慢……?」
「あなたみたいな人と十七年も夫婦をしてきたのよ。本当ならもっと早く御堂さんと暮らせたのにあなたが結菜を可愛がるから言い出せなかった。結菜だって、あなたが父親のふりをしなければ最初から御堂さんを受け入れていたわ」
「最後の、最後まで……俺の、せいにするのか……」
「そうよ」
美沙は、はっきり答えた。
「あなたが余計なことを調べずに離婚届へ素直に署名して、私たちの前から消えてくれればこんなことをする必要はなかった」
孝之の人生を壊した人間が壊された側へ責任を求めていた。
御堂が炭へ火をつけると、狭い部屋へ煙が広がり始めた。
「さっさと文章を作れ」
「分かってるわよ」
美沙は孝之のパソコンで新しい文書を開いた。
白い画面へ、文字が入力されていく。
〈妻の不貞を疑い、御堂社長へ迷惑をかけました〉
〈会社から持ち出した資料に、不正の証拠はありません〉
〈すべて、職を失うことを恐れた私が作ったものです〉
「違う……」
朦朧とする孝之の声はもう二人へ届かなかった。
薬と煙によって身体が重くなり目を開けていることさえ難しい。
美沙はさらに入力する。
〈血の繋がらない結菜へ、父親のように振る舞い続けたことを謝ります〉
孝之は最後の力で床を這った。
その言葉だけは、残させてはいけない。
自分が死んだあと結菜が読んでしまう。
なにより、父親ではなかったと自分から認めた文章として残ってしまう━━。
「消せ……ぇ……!」
「動かないでよ」
美沙は椅子から立ち上がると、孝之の手を靴で踏んだ。
指の骨が軋む。
「ぐぉっ……! 結菜が……読んじま……」
「そのために書いてるの」
美沙は踏みつける力を強めた。
「あなた自身が父親ではないと認めれば、あの子も諦められるでしょう。いつまでもあなたへ執着されると私たちが家族になれないの」
「おまえは、家族……じゃ、ない……」
「これから死ぬ人が決めることじゃないわ」
孝之の指から力が抜ける。
御堂が文面を確認し、最後の一文を指示した。
「私が悪くないことも書いておけ」
「どんなふうに?」
「簡単でいい。自分が逆恨みしただけだとな」
美沙は頷き、入力する。
〈御堂社長は何も悪くありません〉
そのとき、机の上に置かれたスマートフォンとノートパソコンが同時に震えた。
* * *
━━Elによる緊急配信が開始されました。
題名は、《東亜青少年交流基金・最終搭乗手続き》。
画面の隅には、午前一時十三分と表示されている。
「また例の殺人配信か」
御堂は一度だけ通知を見ると、興味を失ったように画面を閉じた。
「悪人を殺してくれる神様なんでしょう?」
美沙が笑う。
「だったら、私たちには関係ないわね」
「当然だ。あれは前例を見る限り、罪人が出品されたときにしか動かない。誰にも祈られなければ神にとって罪は存在しないのと同じだ」
御堂は燃焼器の状態を確かめ、孝之の手が届かない位置へ置いた。
「なんせ、死人は出品できないからな━━」
孝之には、二人の会話が遠くから聞こえた。
机の上には入学式の日に結菜と撮った写真が置かれている。
少し大きな制服を着た結菜の隣で自分はひどく緊張した顔をしていた。
娘より先に校門へ着き、忘れ物がないか何度も確認して結菜から自分が入学するわけではないと笑われた日だった。
写真へ手を伸ばす。
だが指は数センチも動かなかった。
結菜。
父親のように振る舞っていたのではない。
自分は、あの子の父親だった。
血が繋がっていないと知る前も、知ったあとも……それは一度も変わっていない。
そのことだけを、伝えたかった。
美沙が文書の保存ボタンを押した。
ファイル名は〈遺書〉。
作成者は木戸孝之。
画面の中には本人の言葉として美沙の書いた嘘が残されている。
「帰りましょう。服に匂いがつくわ」
「窓と扉は確認した。朝まで誰も入らない」
美沙と御堂が玄関へ向かう。
美沙は一度だけ振り返り、床へ倒れた孝之を見た。
「結菜には、あなたが最後に謝っていたと伝えておくわ」
扉が閉じて外側から鍵がかかる。
孝之が会社の机へ忘れ、地下駐車場まで取りに戻った自宅の鍵は上着の内ポケットへ入ったままだった。
もうその鍵で開けられる家はどこにもない。
煙によって視界が暗くなっていく中、孝之は翌朝十時に姉と会う約束を思い出した。
明日、警察へ行く。
結菜を迎えに行く。
奪われたものを取り戻す━━。
その約束を一つも諦めないまま、木戸孝之の意識は途切れた。
死んだ人間の声は自分で遺書を訂正できない。
残されたのは、妻と社長が本人の名を使って入力した嘘だけだった━━。




