第五十三話 後始末 後編
保護された九人のうち最後の一人を乗せた車両は、夜明け直前に山間部の検問で止められた。
後部の貨物室から発見された少女は毛布に包まれても身体の震えが止まらず、助けに来た人間が名乗っても扉から出ようとしなかった。
「日本大使館から来ました」
通訳を介した言葉にも少女は首を横に振った。
「嫌……信じない……」
「あなたを別の施設へ連れていくためではありません」
「みんな、最初はそう言った……」
現地職員は無理に手を伸ばさなかった。
温かい水と上着を扉の近くへ置き、少女と同じ高さまで腰を下ろす。
「帰国するかどうかは、あなたが決められます」
「……本当に?」
「ここから出たあとすぐ飛行機へ乗せることもしません。会いたい人と、会いたくない人も選べます」
「帰りたいって言っても……酷い事しない?」
「絶対にしませんのでご安心ください」
少女は何度も周囲を確かめた。
扉の向こうに梁も施設の職員もいないことを理解するまで、長い時間がかかった。
「帰りたい……」
最初の声は、ほとんど息だけだった。
職員は聞こえなかったふりをせず、急かすこともなく頷いた。
「はい」
「日本へ……帰りたいです……っ……!」
「帰る準備をしましょう」
少女は差し出された手をすぐには取らなかった。
それでも自分の意思で貨物室から片足を出し、冷たい地面へ降りた。
誰かに押されて乗せられるのではなく、自分で行き先を選ぶための最初の一歩だった━━。
* * *
数日後。
九人の帰国日程は、安全上の理由から公開されなかった。
空港へ報道陣を集めることも政府関係者がカメラの前で出迎えることも行われず、到着した者から別々の保護先へ移された。
家族との再会を望んだ者もいれば、まだ会いたくないと答えた者もいる。
帰国して最初に食べたいものを尋ねられ、すぐには思いつかない者もいた。
自分の希望を答えると罰を受ける生活が長すぎたため、何かを選んでよいと言われても言葉が出てこなかった。
それでも一人には温かいうどんが用意され、一人は風呂へ入る前に朝まで眠り、一人は保護施設で借りたスマートフォンから何年も連絡できなかった姉へ電話をかけた。
失われた時間は戻らない……。
毒島と梁が死んでも、傷つけられた身体や心がその瞬間に元へ戻るわけではない。
帰国とは、壊される前の自分へ戻ることではなかった。
これからどこで、誰と、どのように生きるのかをもう一度自分で選べる場所へ帰ることだった。
最後の一人が日本の空港へ降り立った時刻、既に公開配信は終わり、人々の関心は次の事件へ移り始めていた。
誰の端末にも新しい通知は届かなかった。
ただ、あの存在しない空港に残されていた電光掲示板だけが静かに表示を変える。
〈便名━━帰国〉
〈搭乗者━━保護対象九名〉
〈状態━━到着済み〉
子供たちを売った者に、復路は与えられなかった。
だが、帰りたいと願いながら何度もその声を握り潰された九人には、ようやく自分で行き先を選べる切符が返された━━。
* * *
三か月前━━。
木戸孝之は、自分が幸福な夫だと思っていた。
妻の美沙と結婚して十七年。
高校一年生になった娘の結菜は、最近こそ父親と並んで歩くことを恥ずかしがるようになったが、帰宅が遅くなる日には今でも必ずメッセージを送ってくる。
美沙は、孝之の帰宅が遅くなる日には夕食を冷蔵庫へ残し、休日になれば家族三人で出かけようと誘った。朝は孝之のために弁当を用意し、玄関ではネクタイの曲がりを直しながら、今日も頑張ってねと笑ってくれる。
夫婦になって十七年が経っても、自分たちはそれなりに上手くやれている。
少なくとも孝之は、それを疑ったことさえなかった。
その夜、孝之は二十年近く勤めている会社へ引き返していた。
駅の改札へ入る直前、上着の内ポケットに入れたはずの自宅の鍵がないことへ気づいたのである。最後に使った記憶を辿ると、昼休みに宅配便の送り状を探した際、机の引き出しへ置いたままにしていた可能性が高かった。
午後十時を過ぎた社内には警備員しか残っておらず、正面玄関の照明も既に落とされている。
警備室で事情を話し、社員証を使って中へ入った孝之は、無人の執務室から鍵を回収した。
そのまま帰るつもりだった。
しかし一階へ向かうエレベーターの中で、地下駐車場のボタンが点灯していることに気づく。
誰かが下で呼んでいるらしい。
エレベーターは一階を通過し、地下で停止した。
扉が開く。
照明の半分が落とされた駐車場で、社長専用エレベーターから一人の女性が出てくるところだった。
孝之は、見慣れた後ろ姿に思わず足を止めた。
肩まで伸びた髪。
淡いベージュのコート。
結婚記念日に孝之が贈った革の鞄。
妻の美沙だった。
今夜は高校時代の友人と食事をするから帰宅が遅くなると聞いている。会社へ来るという話は一度もされていない。
「美沙……?」
呼びかけようとした瞬間、運転手のいない黒い高級車から御堂隆臣が降りてきた。
孝之が勤める会社の社長だった。
孝之は反射的にエレベーターの閉じるボタンを押したが、扉が動くまでの時間すらひどく長く感じられた。
このまま中へいれば二人から正面に見られると思い、閉じかけた扉の隙間から駐車場へ出ると近くにあったコンクリートの柱の陰へ身を隠す。
なぜ隠れたのか自分でも分からなかった。
妻が勤め先の社長と会っている。
ただそれだけなら、まず事情を聞けばいい。
美沙が会社へ来たことにも二人きりでいることにも、何か説明できる理由があるかもしれない、孝之はそう思おうとした。
だが御堂は周囲を確かめることもなく、美沙の腰へ手を回した。
美沙の身体が慣れたように御堂へ寄り添う。
嫌がる仕草はない。
驚きもしない。
御堂の胸元へ手を置き、自分から顔を近づけた。
二人の唇が重なる━━。
孝之は声を出すことも、その場から逃げることもできなかった。
自分の心臓が鳴る音だけが地下駐車場全体へ響いているように聞こえる。
「今日も遅くなるって、あの人には言ってあるわ」
唇を離した美沙が、小さく笑った。
「あいつは、本当に何も気づいてないのか?」
「気づくわけないでしょう。私が友達と食事をしているって言えば、それ以上は聞いてこないもの」
「……結菜のことも?」
娘の名前が出た瞬間、孝之の指から鍵が落ちかけた。
慌てて握り直す。
「疑うわけないでしょう」
美沙の声には夫を裏切っていることへの罪悪感も、娘の名前を口にしたことへの迷いもなかった。
「結菜が生まれた日から、自分の娘だって信じて育ててきたんだから」
「十六年もか」
「仕事と家族しか見てこなかった人だもの。私が笑っていればそれで家庭が上手くいってると思ってくれるわ」
「ふっ……幸せな男だな」
「そうね」
美沙は御堂の胸へ頬を寄せた。
「何も知らない人って、本当に幸せ」
孝之は自分が何を聞いたのか理解できなかった。
結菜が生まれた日から自分の娘だと信じていたからだ。
御堂は、結菜の何を知っている。
なぜ美沙はまるで孝之が間違った父親であるかのような言い方をしたんだ。
考えれば答えへ辿り着いてしまう。
それでも頭のどこかでその答えだけは理解することを拒んでいた。
* * *
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
静かな駐車場へ振動音が響き、孝之は慌てて上着の上から押さえる。
御堂が周囲を見回した。
「今、何か聞こえなかったか?」
「車の音じゃない?」
美沙は気にした様子もなく、御堂が開けた助手席の扉から車へ乗り込んだ。
二人の視線が外れたあと、孝之は柱の陰でスマートフォンを取り出す。
結菜からのメッセージだった。
『お父さん、もう帰ってる?』
続けて、もう一件届く。
『帰りにいつものプリン買ってきて。お母さんまだ帰ってこないから、二人で食べよう』
いつものプリン。
結菜が小学生の頃から好きな、駅前のコンビニで売っている少し高いプリンだった。
孝之は震える指で文字を入力した。
『分かった。買って帰る』
送信した直後黒い高級車が動き出したが、助手席の美沙は御堂と手を重ねていた。
二人を乗せた車が出口へ消えても、孝之はしばらく柱の陰から動けなかった。
右手には会社の机から取り戻した自宅の鍵がある。
左手の画面には、娘から送られた笑顔のスタンプが表示されていた。
孝之はまだその二つをどちらも失っていなかった。
自分が握っている鍵で開ける家が、もう自分の帰る場所ではなくなっているとも知らずに━━。




