第五十一話 子供を売ったものに復路はない 後編
北京の中央指導部専用施設では、国家主席を含む最高指導部の幹部が緊急会議を開いていた。
国外の動画配信サービスは遮断され、会議室内の端末は一般の通信網から物理的に切り離されている。
それでも壁面の大型画面には、銀色のスーツケースへ詰め込まれた梁国華が映っていた。
「なぜ、映っている」
国家主席が尋ねる。
情報部門の責任者は、青ざめたまま答えられなかった。
「回線は切断しました、電源も独立しています。しかし映像信号が機器の内部から発生しています」
「停止させろ」
技術者が画面の電源を落とす。
黒くなった液晶には会議机を囲む国家主席と幹部たちの姿が映った。
室内には存在しないカメラが明らかに天井から彼らを見下ろしている。
国家主席がゆっくり頭上を見た。
何もない。
再び画面へ目を戻すと、自分の椅子の背後にだけ人型の黒煙が立っていた。
『梁国華氏から、お問い合わせがございます』
Elの声が閉鎖された会議室に直接流れる。
『ご自身は国家の命令に従っただけだ、と』
「虚偽だ」
国家主席は即答した。
「我が国は人身取引を認めていない。梁個人と一部腐敗分子による犯罪行為だ」
『大変迅速な切り離しですね。少女たちの受入先変更よりも手続きが早い』
画面に梁の事業を承認した党幹部十二人の氏名と決裁記録が表示された。
中央政府の対外事業を担当する副部長。
地方政府の書記二名。
公安当局の幹部。
受入施設を所有する国家主席側近の親族企業。
どれも最高機密として保管され、会議室にいる者でさえ一部しか知らない資料だった。
「ど、どこから、これを……」
幹部の一人が呟く。
『国境を越えるのに、旅券が必要なのは"人間だけ"です』
国家主席の右手が机の下で僅かに震えた。
目の前の存在は、軍事機密も閉鎖回線も国家の壁として全く認識していない。
梁を救出できないことより、今この会議室にいる全員の位置と会話をすべて把握されている事実の方が恐ろしかった。
「何を望む……」
『今夜購入した商品は、毒島沙耶氏と梁国華氏の二点だけです』
Elの声は穏やかだった。
『私は一つの国や民族を罪人として扱いません。旗は人間を善良にも、無罪にもしないただの布です』
画面に所在不明だった九人の現在地が再び表示される。
『この方々を保護し、記録を保存し、関係者が証言したことを理由に家族へ危害を加えないでください』
「命令するつもりか」
『選択肢をお伝えしております。命令であれば、あなた身体は椅子の上で今頃……胡麻団子になっております。中身は餡でなくジューシーな挽肉ですが━━』
黒煙が、国家主席の肩へ手を置くように指を曲げた。
実際には何も触れていないはずなのに国家主席の身体は椅子から立ち上ちあがれず、背骨ごと潰されそうなほど重くなった。
『証拠を一件消すたび、被害者を一人脅すたび、それを行った個人の名前を審理記録へ追加します』
一拍置く。
『国家を盾になさるのはご自由です。ただし、こちら側からはあなたの国のWi-Fi機器のように透けて見えますので、彼のようになりたくなければお勧めはしません』
画面が、梁のいる空港へ戻った。
国家主席はすぐに命令した。
「き、九人を保護しろ。今表示された施設を封鎖し、関係する全記録を保存しろ。名簿の幹部は職務から外せ……!」
それは正義感から出た言葉ではなかった。
黒い画面に自分の名前が加わることを恐れた結果の命令だった。
それでも、救助を待つ少女たちにとって動機の美しさは問題ではない。
国家主席が震える手を机の上へ戻した瞬間、遠く離れた施設へ武装警察が向かい始めた━━。
* * *
『お問い合わせへの回答が届きました』
Elは、スーツケースの中にいる梁へ告げた。
『あなた個人と一部腐敗分子による犯罪だそうです』
「し、しょんな……わたしは命令に……!」
『組織へ忠実であれば、ご自身も守られると期待なさったのですね』
ベルトコンベアが動き出す。
『あなたが少女たちへ教えた内容と同じです。家族は既にあなたを見捨てました』
「まてっ! じぇんぶはなす! ほかのししぇつも、カネのながれも━━!」
『既に公開しております』
「たしゅけくれ……!」
『帰国を希望なさいますか。その前に口腔外科を受診した方がよろしいのでは?』
「か、帰してくれ!」
『申請時期を過ぎております。土にすら還れません━━』
「いや、だ……我不想死……! 救救我! 不要啊゛啊゛啊゛啊゛啊゛━━!」
情けない悲鳴も虚しく、スーツケースが巨大なタービンへ吸い込まれた。
外装が最初の羽根へ触れた瞬間、銀色のケースは爆発するように裂け、中に詰め込まれていた肉体が何百もの断片となって高速回転の中へ広がる。
神によって繋がれていた意識は脳が最初の一回転で砕かれても消えなかった。
梁は自分の眼球が別々の羽根に潰され、肺と心臓が赤い霧へ変わり、骨が粉末となってエンジンの奥へ吹き飛ばされる感覚を最後の一片が燃え尽きるまで味わった。
タービンの後方から噴き出した黒い灰が、出発ロビーの床へ文字を描く。
〈未申告品 処分済み〉
画面へ、梁国華の処理結果が表示された。
〈執行対象 梁国華(産業廃棄物)〉
〈死因━━全身離断および焼失〉
〈所在不明者情報━━関係国へ送信済み〉
〈復路━━なし〉
Elは誰もいなくなった搭乗カウンターへ二枚の書類を置いた。
一枚は和泉愛理の相談記録。
もう一枚は高城玲奈の帰国を認める訂正記録。
『本日の搭乗手続きは、以上となります』
配信が終了する直前、世界中の画面へ東亜青少年交流基金、一ノ瀬学園、〈こどもの声〉、中国側受入組織の内部資料が一斉に公開された。
送金記録。
候補者評価票。
偽造された同意書。
学校法人の公印番号。
毒島と梁の会話。
そして、交流枠の最終承認者として記された一ノ瀬理事長の電子署名。
黒煙が消える。
空港の電光掲示板には、最後まで一つの便だけが表示されていた。
〈便名━━帰国〉
〈搭乗者━━保護対象九名〉
〈状態━━手続中〉
* * *
日本政府が首相官邸の危機管理センターへ関係閣僚を集めたのは、配信開始から二十一分後だった。
警察庁、外務省、文部科学省、法務省、内閣情報調査室の担当者が同時に公開された数十万件の資料と中国側から入った緊急連絡を整理している。
「中国側は、梁国華が国家の命令で動いた事実を否定しています」
外務省の官僚が報告する。
「ただし、所在不明者九名の捜索へ協力する意向を伝えてきました。関係者の身柄も拘束すると━━」
「Elの要求へ屈したと見られることを……相当恐れているな」
官房長官が画面を見る。
「体制の面子を何より優先する指導部ですからね。ですが、恐れているのは我々も同じです……」
警察庁幹部が答えた。
「県警本部の保護室から対象者を物理的な痕跡なく連れ去られました。大使館前でも同様です。既存の警護計画では防げません」
「今はElの能力を議論している場合ではない」
総理大臣が机を叩く。
「日本の学校と児童支援法人が子供を選別し、正規の留学制度を使って国外へ送っていた。教育委員会も警察も過去の訴えを問題なしとして処理している。これが事実なら、我々政府の責任だ」
文部科学大臣の顔色が変わる。
「直ちに、一ノ瀬学園を含む全関連法人へ特別調査を入れます。該当する海外交流事業は全国で一時停止し━━」
「停止だけで終わらせるな。帰国後に訴えた生徒と家族を確実に保護し、過去の調査もすべて洗い直せ」
総理は公開資料にある一ノ瀬理事長の署名を指した。
「この男は今どこにいる」
「県警が所在を確認しています。息子の殺人未遂事件についても逮捕状の請求準備が進んでいます」
「逃がすな」
「Elより先に、ですか」
総理は答えるまで数秒を要した。
「違う」
机の上には、毒島と梁が人間の形を失うまで破壊された映像が静止している。
「我々が"先に"法で裁けなければ、国民は次もElを選ぶ━━」
* * *
《ミモザ》の二階で、七緒は配信を最後まで見ることができなかった。
毒島の耳へ相談ノートの紙片が入り始めた時点でスマートフォンを伏せ、それでも壁越しに聞こえる悲鳴から逃げるように両耳を塞いだ。
「私が……送ったから……」
出品ボタンを押したとき、毒島が死ぬ可能性は理解していた。
だが、理解と実感は同じではない。
画面の中で人間が骨を砕かれながら助けを求め、最後は自分の名前を呼ぶことさえできずに死んでいく。
そしてその始まりには自分の指があった━━。
部屋の扉が静かに叩かれた。
「七緒さん」
「祈くん……?」
「温かい飲み物をお持ちしました」
七緒が返事をする前に扉は開かず、祈は廊下で待っていた。
「入ってもいいよ」
祈が蜂蜜を入れた紅茶を持ってくる。
配信画面では、黒煙が梁を手荷物用の枠へ押し込んでいた。
祈は確かに七緒の目の前にいる。
それでも同じ時刻、画面のElも言葉を発し世界中の機器へ触れ、北京の閉鎖回線にまで現れている。
七緒は両手でカップを包んだ。
「祈くん」
「はい」
「私……間違えたのかな」
「何をでしょう」
「……ううん」
七緒は出品したことを言えなかった。
祈も知っているとは答えなかった。
「止めてほしいって願っただけなの」
「そうですか」
「死んでほしいって、書いたわけじゃない……」
「止める方法を選んだのは、願った方ではないでしょう」
七緒が顔を上げる。
「願いを受け取った方の責任です」
「でも……」
「七緒さん」
祈は、震える彼女の手から零れそうになったカップを支えた。
「愛理さんの死を選んだのは、あなたではありません……」
七緒の目から涙が落ちる。
「今夜のことまで、全部ご自身の罪としてお持ちになる必要はないかと」
「祈くんはさ……Elがしたことを正しいと思う?」
祈はすぐに答えなかった。
自分の手によって毒島の頭部が潰れ、梁の身体が灰に変わっていく感覚は今も指先に残っている。
「正しいかどうかを決める方は、いつも無傷ですね」
祈は静かに言った。
「ですので、僕はあまり信用しておりません」
七緒にはその答えの意味をすべて理解できなかった。
ただ、祈が配信を楽しんでいるわけではないことだけは分かった。
「ここにいてくれる?」
「はい」
「配信が終わるまででいいから」
「終了後も帰宅しておりますが」
「今はそういう屁理屈を言わないの」
「では、朝食までおります」
「それ、ずっといるって意味?」
「朝食後に追い出されなければ」
七緒は泣きながら、少しだけ笑った。
祈はベッドの横へ座り、配信が終わっても部屋を出なかった━━。




