第五話 罪は消えずに炎は広がる 前編
鷺沢怜央は、死んでから初めて嘘をつけなくなった。
鏡の檻が消えてから七分後。
怜央の公式アカウントに、一件の投稿が掲載された。
〈水瀬咲良さんに関する虚偽情報の作成、拡散および個人情報流出について、すべての関与を認めます〉
投稿には、怜央が死の直前に行った告白動画が添付されていた。
命乞いをしながら自らの罪を認め、父親の秘書が端末を処分したと語る姿は数え切れないほど複製された。
怜央の関係者が運営会社へ削除を求めるより早く、動画は国境と言語の壁を越えて拡散していく。
だが、死者の告白だけならまだ言い逃れる余地はあった。
極限状態で強要された虚偽の自白。
映像そのものがElによって作られた偽物。
怜央を擁護する者たちはそう主張し始めていた。
だがその逃げ道を塞ぐように、二つ目の投稿が掲載された。
添付されていたのは、百八十七ページに及ぶ一つの電子文書だった。
題名は━━《水瀬咲良殺害に関する取引記録》。
最初のページには、怜央が配信者仲間へ送った指示が並んでいた。
『咲良を徹底的に潰せ』
『俺を振ったことを後悔させる』
『コラ画像はもっと本物っぽくしろ』
『俺の名前は出すな。金なら払う』
その下には送信日時、接続元、端末識別番号が記載され、各指示の直後に行われた送金記録まで添えられている。
咲良の顔を裸の画像へ合成した大学生。
複数の裏アカウントで虚偽情報を拡散した配信者。
水瀬家の住所と電話番号を特定し、金銭と引き換えに怜央へ渡した男。
咲良の同級生を装い、週刊誌へ虚偽の証言を送った女。
記録の中では誰が、いつ、何をして、いくら受け取ったのかが一本の線で結ばれていた。
さらに、怜央の父親が代表を務める政治団体から秘書の管理する会社を経由し、実行役たちへ金が渡った経緯まで記されている。
資料の最後には赤い文字で一文だけ添えられていた。
〈削除は、無かったことを意味しません〉
* * *
夜が明ける頃には、怜央の名前よりも、水瀬咲良の名前が検索欄の上位を占めていた。
ただし三年前とは違う。
〈水瀬咲良さんは被害者だった〉
〈パパ活も下着販売も全部デマ〉
〈学校と警察は何をしていたんだ〉
〈鷺沢怜央を信じて咲良さんを叩いてしまった〉
〈今さら謝っても届かない〉
かつて咲良を嘘つきと呼んだ者たちが、今度は怜央とその協力者を悪魔と呼んでいる。
怜央の動画を毎日見ていた者ほど激しく彼を罵り、咲良への攻撃に参加していたアカウントほど熱心に過去の投稿を削除した。
怒りの矛先は資料に名前のあった実行役たちへ向かった。
コラ画像を作成した大学生は、朝一番に大学から呼び出しを受けた。内定先は事実関係が明らかになるまで採用手続きを凍結すると発表し、自宅には警察が端末の任意提出を求めに来た。
裏アカウントを運営していた配信者は動画配信サービスから収益化資格を剥奪された。広告契約はすべて解除され、昨夜まで彼を持ち上げていた視聴者たちが今度は謝罪配信のコメント欄を罵声で埋め尽くした。
水瀬家の住所を晒した男は勤務先を特定され、会社には抗議の電話が殺到した。警察が自宅へ到着したとき、男は証拠を消そうとスマートフォンを初期化している最中だった。
学校内部の情報を怜央へ渡していた元同級生については、高校が第三者委員会の設置を発表した。その声明が出るまで咲良の死を「学校外の個人的な問題」と主張していた校長は、報道陣に囲まれながら何度も頭を下げた。
しかし、怒りは罪を犯した本人だけでは止まらなかった。
大学生の両親。
住所を晒した男の妻。
元同級生の勤務先で、彼女と話したことすらない従業員。
ネットの人間たちは、血縁や所属先というだけで彼らの写真と個人情報を集め始めた。
咲良を追い詰めたときと、まったく同じ方法だった。
正義という名札をつければ、石を投げる行為は娯楽になる。
午前七時十三分。
怜央の公式アカウントが、三度目の文章を投稿した。
〈罪は血縁によって相続されません〉
〈関係者の家族、勤務先の一般従業員、無関係な同級生への攻撃を禁じます〉
〈あなたが新しい加害者となった場合、その被害者には出品する権利が発生します〉
投稿者名には、アルファベットが二文字だけ表示されていた。
━━El。
つい数時間前、三百万人の前で人間の身体を粘土のように切り刻んだ存在からの警告だった。
無関係な者を晒していたアカウントは、競うように投稿を削除し始めた。
* * *
「朝から暗いニュースばかりね……」
和泉七緒はテレビの電源を切ると、ダイニングテーブルへ新しい皿を置いた。
焼き鮭が二尾、卵焼きが一本、山盛りの白米、豚汁の入った大きな椀。さらに昨夜の残り物を使った野菜炒めと、食後のために買っておいた食パンが一斤。
そのほとんどが祈一人分の朝食だった。
「配信で殺された人、昨日お店で悪態ついてた人でしょう?」
「そうですね」
祈は焼き鮭の骨を器用に外しながら答えた。
「しかもあの黒いのが現れたのもウチの店の駐車場。しばらく取材の電話が止まらないでしょうね」
「今日は臨時休業にしますか?」
「警察から昼までは開けないように言われてる。でも、夜には営業するつもり。あんなものに店を潰されるのは悔しいもの」
「七緒さんは強いですね」
「父から継いだ店だからね」
七緒は向かいの椅子に座ったものの、朝食には手をつけなかった。
テレビが消えたあとも、その視線は黒い画面へ向けられている。
「祈くんはさ、Elをどう思う?」
「質問の範囲が広いですね。外見、人格、食事作法、ネットリテラシーのどれでしょうか」
「違う違う。あの行動を正しいと思うかってこと」
祈は豚汁を一口飲んだ。
「正義という言葉は便利です。人を殴る際、自分の拳に貼っておけば痛みを感じずに済みます」
「そういう言い方をしてるんじゃないの」
「では……間違っていると思いますか?」
七緒は答えなかった。
テーブルの上で組んだ指先に、わずかに力が入る。
七緒の妹もまた、偽の画像と虚偽の噂を流され自ら命を絶っている。
昨夜、咲良の母親が出品者だったと知ってから七緒はほとんど眠っていなかった。
怜央の死を恐ろしいと思う一方で、胸のどこかでは咲良の母親を羨ましいと感じてしまった。
自分も妹の遺品を十三円で出品すれば、Elは購入してくれるのだろうか。
そんな考えが浮かんだこと自体が恐ろしく、七緒は唇を噛んだ。
「死んだ人は……戻ってこないのよね」
「はい」
祈は即答した。
七緒が顔を上げる。
「Elでも?」
「戻せません」
「……どうして祈くんが言い切れるの?」
祈の箸が一瞬だけ止まった。
「もし戻せるのであれば昨夜の出品者は復讐ではなく、娘を返してほしいと願ったはずです」
「……そうよね」
七緒は自分を納得させるように頷いた。
祈は再び食事へ戻った。
時間だけは作れない。
無から物質を生み出し、恒星を砕き、世界の法則を書き換えることができても起きた出来事を無かったことにはできない。
それはElが持つ唯一にして、絶対の限界だった。
「ところで七緒さん」
「何?」
「食パンのおかわりはありますか?」
「それ一斤食べてから聞くことじゃないでしょう」
「一斤という単位は僕の中では1枚です」
「はぁ……もうフードファイターになったら?」
七緒は呆れながら立ち上がった。
その背中を見送りながら、祈は七緒が先ほどまで触れていたスマートフォンへ目を向けた。
検索履歴の一番上に、《エルカリ 十三円 出品方法》という文字が残っていた。
祈は何も言わなかった。
判決には、出品者自身の覚悟が必要だった。
* * *
学校でも怜央の事件以外の話題は存在しなかった。
教師が教室へ入るまで、生徒たちは机を囲んで処刑動画を見ていた。血が映る場面で顔を背ける者もいたがその指は再生を止めようとはしない。
「Elって、本当に神様なんじゃない?」
「いや、あれ絶対CGだって。怜央もどこかで生きてるんじゃないの」
「警察が死体を回収したってニュースで言ってたよ」
「あいつ一人なら自業自得だけど、次は誰が殺されるんだろ」
祈は自分の席で、七緒が持たせた二段重ねの弁当を食べていた。
登校から一時間しか経っていないが、すでに空腹だった。教室中が猟奇的な殺人動画に夢中になっているため、一時間目と二時間目の間に弁当を開いても注意する者はいない。
窓際の女子生徒が、おそるおそる祈へ尋ねた。
「天羽くんは、Elのことどう思う?」
「食事中に見ると、食事制限できそうですね」
「いやそうじゃなくて、正義の味方だと思うかってこと」
祈は箸を置き、彼女のスマートフォンを見た。
画面では、身体を切り分けられた怜央が助けを求めている。
「便利な鏡ではないでしょうか」
「鏡?」
「鏡は人間が普段は見ないようにしているものを無理やり映してくれます。ただし、覗き込んだ自分まで綺麗に見えるとは限りません」
女子生徒は意味が分からないという顔をしたが、祈の横顔に見入っているうちに質問したこと自体を忘れたように黙り込んだ。
教室の反対側では、結城葵が祈の言葉を聞いていた。
葵の机でも、友人たちが怜央の事件について話している。
「でも怖いよね。咲良さんの件って、最初は全部証拠があったんでしょう?」
「裏アカウントとか写真とか、同級生の証言まであったら信じちゃうよ」
「その証拠を全部、犯人側が作ってたんでしょ」
「じゃあ私たちは何を信じればいいの?」
一人の少女がそう口にした途端、葵の胸の奥が冷たくなった。
祈のクラウドストレージに残されていた動画。
祈の名義で購入された小型カメラ。
カメラから発見された祈の指紋。
あの日、証拠はすべて祈を指していた。
だから疑わなかった。
十年以上一緒にいた幼馴染の言葉よりも、画面に表示された購入履歴を信じた。
『僕じゃないんだ』
校長室で必死に訴えていた祈の声が蘇る。
『お願いだから、僕の話を━━』
それを遮ったのは自分だ。
『祈を好きだった自分まで、汚されたみたい』
なぜ今になってあのときの祈の表情を思い出すのだろう。
五か月ぶりに戻ってきた祈は以前と同じ顔をしている。
しかし自分を見る目だけが違っていた。
嫌ってさえいない。
まるで葵という人間が、道端にある石と同じ価値しか持たなくなったような目だった。
「祈……」
名前が唇から漏れた。
葵は慌てて口元を押さえる。
教室の反対側にいる祈は振り向かなかった。
以前ならどれほど小さな声で呼んでも気づいてくれた少年は、もうどこにもいなかった━━。
* * *
三年生の教室で、一ノ瀬真は何度もスマートフォンを確認していた。
怜央が殺される動画を見たのは、昨夜だけで五回目だった。
見たくないのに再生を止められない。
他人を使って標的を陥れた男。
金を渡して証拠を作らせ、自分だけは安全な場所から眺めていた男。
その罪を暴かれ、身体を加工されて殺された。
怜央の事件は、あまりにも自分たちが祈へ行ったことと似ている。
一ノ瀬は仲間だけのグループを開いた。
『河川敷の動画、全部消せ』
『祈を殴った鉄パイプも処分しろ』
『あの夜に使った車の記録も残すな』
送信から一分もしないうちに既読が三つ並んだ。
だが返ってきたのは、短い一文だけだった。
『今さら消して意味あるのか?』
一ノ瀬の指が止まった。
意味ならある。
消してしまえば証拠はなくなる。
祈を海へ沈めた夜も、そう考えたからこそ撮影した動画を削除し、鉄パイプを捨て、車内を何度も清掃した。
海は祈の身体を飲み込んだ。
五か月もの間、誰も祈を見つけなかった。
すべて終わったはずだった。
だが、怜央が死んでから世界中で繰り返されている言葉が頭から離れない。
━━削除は、無かったことを意味しません。
一ノ瀬は椅子を蹴るように立ち上がると、教室の窓辺へ向かった。
中庭を挟んだ向かいの校舎に、二年三組の教室が見える。
祈は窓際の席で弁当を食べていた。
誰かと話しているわけでもない。
ただ箸を動かしているだけなのに周囲の女子生徒たちは何度も祈へ視線を向け、そのたびに慌てたように顔を逸らしている。
やがて祈が顔を上げた。
校舎を隔てた距離があるにもかかわらず、一ノ瀬には目が合ったように感じられた。
祈は笑わなかった。
怒りもしなかった。
ほんの一瞬だけこちらを見たあと、興味を失ったように食事へ戻った。
ただそれだけだった。
一ノ瀬は反射的にカーテンを閉めた。
怜央の次が自分だと決まったわけではない。
Elが祈の事件を知っている証拠もなければ、祈とElを結びつけるものも何一つない。
それでも、額から流れた汗は顎を伝い教室の床へ落ちた。
スマートフォンがもう一度震える。
怯えながら画面を見ると、仲間からの返信だった。
『真。アイツは本当に死んでたんだよな?』
一ノ瀬は答えられなかった━━。




