第四話 神罰の生配信 後編
店内で異変に気づいた火村は、ほかの客より早く動いていた。
窓の外に現れた立方体を見るなりスマートフォンを取り出し、県警へ連絡を入れる。
「県警捜査一課の火村だ。国道沿いのファミリーレストラン《ミモザ》駐車場に正体不明の構造物が出現。内部に男性一名が監禁されている。対象は鷺沢怜央。至急、所轄と機動隊を回せ。消防と救急にも応援を要請しろ!」
通話を切るより早く、火村は店外へ走った。
それを七緒が後ろから呼び止めたが振り返らなかった。
怜央の肩がずれ、血が噴き出す。
火村は立方体へ駆け寄り、外壁を拳で殴った。
鈍い衝撃が腕を伝う。
見た目は鏡でありながら、鋼鉄とは話にならないくらいに硬い。二度、三度と殴っても傷一つつかず、火村の拳から先に血が滲み、骨が軋んだ。
「鷺沢、聞こえるか!」
「おい火村! 助けろ! 警察だろ!」
「今応援を呼んだ! 壁から離れろ!」
黒煙が火村へ顔を向ける。
『壁から離れても同じです。この空間にいる限り彼は己の鏡像から逃れられません』
「お前が……噂のElか」
『人間は、そう呼んでいます』
「こいつを外へ出せ!」
『現在、取引中です。部外者による返品は受け付けておりません』
「ふざけるな!」
火村は黒煙へ殴りかかった。
拳は確かに頭部を捉えたはずだった。しかし手応えはなく、腕が煙の中を通り抜ける。冷たさも熱さも感じない。ただ一瞬だけ、深海と雷を同時に覗き込んだような寒気が背骨を走った。
黒煙は微動だにしなかった。
『警察官が丸腰で概念を殴るとは。勇敢というより職業病ですね』
「俺は今日オフだ」
『では、単なる無謀です』
火村は黒煙を睨んだあと、再び鏡へ拳を叩きつけた。
四度目で皮膚が裂け、五度目で血が外壁へ付着する。それでも鏡は曇りすらしない。
「やめろ! そいつを殺すな!」
『鏡を殴っても、映っている罪は消えませんよ』
「罪を犯したなら、人間の法で裁く!」
黒煙の動きが止まった。
『その法律は……水瀬咲良が死ぬまで何をしていました?』
火村の拳が鏡に触れたまま止まる。
警察は何度も由美子から相談を受けた。しかし実行犯のアカウントは怜央と結びつかず、指示が残っていたとされる端末は水没し、議員の顧問弁護士が提出した反論書だけが積み上がった。
その間にも、咲良の顔を使った偽画像は拡散され続けた。
「……何もできなかった」
『正解』
「だからといって、次も諦めていい理由にはならない!」
火村は血まみれの拳を振り上げた。
「法が一度負けたから、お前に人間を殺す権利が生まれるわけじゃない! 鷺沢を引きずり出して、今度こそ俺が法廷へ立たせる!」
黒煙の輪郭が、わずかに揺れた。
笑ったのかもしれない。
『今度こそ、ですか』
祈はその言葉を知っていた。
調べ直す。
今度こそ話を聞く。
間違いがあったなら正す。
天羽祈が人間だった頃、誰か一人でもそう言ってくれていたなら海の底で死ぬことはなかった。
だが、もう過去は戻らない。
死者も戻らない。
祈は紙袋からフライドポテトをつかみ、数本まとめて口へ運んだ。
『では、火村陣。あなたが彼の罪を法廷へ持ち込めるよう、証言を記録して差し上げます』
「何?」
黒煙が再び鏡へ指を向けた。
『鷺沢怜央。水瀬咲良に関する四つの虚偽情報を、複数の人間へ拡散させた事実を認めますか』
「認めるわけないだろ! 俺は何もしてない!」
グリッドの一部が動く。
怜央の左腕、その肘から先だけが下へ十センチずれた。筋肉と骨が断面を晒し、噴き出した血が鏡に浮かぶ赤い文字を濡らした。
「あああああっ! 俺じゃない! 書いた奴らが勝手にやったんだ!」
『では、彼らへ報酬を支払った事実は?』
「知らない!」
右脚の膝から下が、後方へずれた。
身体の重心を失った怜央は倒れようとしたが、目に見えない力が立った姿勢のまま固定している。ずれた脚から血を噴き出しながら、それでも顔だけは元の位置に残されていた。
「やめろ! 分かった、金なら払う! いくら欲しい! 女だっていくらでもあてがってやる!」
『あなたは水瀬咲良にも、同じ提案を?』
「あいつが、あいつが俺を振ったのが悪いんだ! ちょっと反省させるつもりだっただけで……まさかあんな事で死ぬなんて思うわけないだろ! っ!」
駐車場にいた全員がその言葉に息を呑んだ。
怜央自身も、口にした言葉の意味に気づいた。
スマートフォンの画面では、配信の視聴者数が三百万人を超えている。
コメント欄から、先ほどまで怜央を擁護していた言葉が消えていく。
〈は? 今、認めた?〉
〈反省させるつもりだったって言ったよな〉
〈クズすぎるだろ〉
〈咲良さんの件、本当にこいつが指示したの?〉
〈あんな事でって……最低だな〉
〈録画した〉
〈切り抜き保存した〉
「違う! 今のは言葉の綾だ! Elに無理やり言わされた!」
『今の発言を取り消しますか』
「当たり前だ!」
『承知しました。取り消し範囲を選択します』
怜央の腹部を覆う複数のグリッドが、別々の方向へ動いた。
右側が上へ、左側が下へ、中央だけが斜めにずれる。腹部は画像を乱雑に切り貼りしたような形へ変わり、境界から同時に血が噴き出した。
怜央の絶叫は、もはや人間の言葉にならなかった。
『少々加工が粗かったでしょうか』
「も、戻して……身体を……」
『被害者の画像には、同じ苦情をお聞きにならなかったものですから』
「顔……なんで、顔だけ……」
怜央の顔だけは傷一つなく、鏡の中心に残されていた。
恐怖に歪んだ表情も、涙も、鼻水も、視聴者には鮮明に見えている。
『本人確認ができなくなると困りますので、顔だけは無加工で保存しております』
「こんなの……偽物だ。合成だって、すぐにバレる……」
『ご安心ください』
黒煙の中で赤黒い雷が瞬く。
『こちらはコラージュではありません。血も、痛みも、すべて本物です』
遠くからサイレンが聞こえ始めた。
火村は殴るのをやめなかった。拳の感覚はすでになく、血が指先からアスファルトへ落ちている。
「El! もう十分だ! 今の発言があれば再捜査できる! 鷺沢を生きたまま引き渡せ!」
『生きていなければ裁けませんか』
「死者を被告席には立たせられない!」
『水瀬咲良も、証言台には立てませんでした』
「分かっている!」
火村は鏡へ額をつけるようにして叫んだ。
「それでも、生きている人間まで殺していたらこいつと同じになるぞ!」
黒煙は答えなかった。
怜央は火村の声が聞こえたのか、かろうじて顔を上げた。
「た、助けて……認める。俺がやった……」
『……? 聞こえません』
「俺が、咲良の画像を作らせた……俺が全部指示した……。家の住所も晒させた。あいつが俺を振ったから……むかついて……」
『端末を水没させたのは?』
「親父の秘書だ……警察が来る前に捨てろって親父が……」
鏡の表面へ、怜央の言葉が自動的に文字として刻まれていく。
「全部話した、これでいいだろ……助けろ……!」
『告白を確認しました』
「だったら、早く元に戻せ!」
『不可です』
「ふざけるな! 認めたら助けるって━━」
『一言も発してません』
怜央の瞳が絶望に染まる。
黒煙の祈は最後のポテトを口へ運び、空になった紙袋を小さく折り畳んだ。
『あなた方は偽物の画像で水瀬咲良という人間を切り刻んで最悪の作品を生み出し、その尊厳と人生を消去した』
四つの嘘が鏡から剥がれ、赤い帯となって怜央の身体を取り囲む。
『したがって、あなたには本物の身体で作品になっていただきます』
「待て……頼む、死にたく……ない……!」
『ご安心ください。あなたの顔と告白はあなたの父親にも、誰にも消せません』
祈の指が、怜央の胸部を覆う最後のグリッドへ触れる。
「や゛め゛ろ゛お゛お゛ぁ゛ぁ゛っ゛!」
『上書き保存』
指先が横へ滑った。
胸部の枠が移動し、心臓の位置だけが身体の外側へずれる。
赤い飛沫が鏡の内側へ広がり、怜央の絶叫が途切れた。
それでも身体は倒れなかった。
右肩、左腕、両脚、腹部、胸部。それぞれが異なる方向へ数センチずつ移動し、ただ顔だけが元の位置に残されている。
それはもはや人間の遺体ではなく、肉体そのものを素材として作られた悪趣味な現代アートにしか見えなかった。
駐車場へパトカーが入ってきた。
警官たちが車を降りると同時に、鏡の立方体へ無数の亀裂が走る。
火村が身構えた。
だが鏡は周囲へ飛び散らず、細かな黒い粒子となって夜空へ溶けていった。
あとに残されたのは怜央の遺体と、宙から落ちた一台のスマートフォンだけだった。
画面では、配信がまだ続いている。
怜央の告白が記録された動画は、すでに数万のアカウントによって複製され、世界中へ拡散され始めていた。
黒煙の姿も消えていた。
「救急を呼べ! 現場を封鎖しろ! 誰も遺体に触るな!」
到着した警官へ指示を出しながら、火村は周囲を見回した。
黒煙が立っていた場所には、折り畳まれた紙袋だけが残っている。
火村が拾い上げる。
袋には《ミモザ》のロゴが印刷されていた。
* * *
水瀬由美子のスマートフォンに、取引終了の通知が届いた。
━━商品が購入者へ届きました。
━━取引を完了しました。
続いて怜央が自ら罪を認めた動画、関係者の名前、金の流れ、破棄された端末の場所を示す資料が表示される。
由美子はそれらを見ようとはしなかった。
スマートフォンを胸へ抱き、咲良の写真の前で声を殺して泣き続けた。
復讐が終わっても悲しみは終わらなかった。
ただ、娘を誹謗するだけが今夜初めて止まった。
* * *
警察による事情聴取が始まるまで、店内の客たちは外へ出ることを禁じられた。
七緒は怯える従業員を集め、一人ずつに温かい飲み物を配っていた。窓際の客の中には泣いている者もいれば、今しがた見たものを興奮気味に語る者もいる。
祈は厨房の隅に立ち、大皿のオムライスを食べていた。
力を使った反動で、身体が莫大な熱量を要求している。すでにハンバーガーを二つとポテトを食べていたが、飢えはまったく収まっていなかった。
「祈くん」
七緒が近づいてくる。
「どこにいたの? 駐車場で大変なことがあったのよ」
「ごみを出したあと少し気分が悪くなりまして。裏口の物陰で休んでいました」
「怪我は?」
「ありません」
七緒は安堵したように息を吐き、祈の頭を胸元へ抱き寄せた。
「よかった……本当に、よかった」
祈は抵抗しなかった。
人間だった頃なら、誰かに心配される温かさで泣いていたかもしれない。今はただ、七緒の心拍数が普段より速いことと、彼女の手が震えていることを理解するだけだった。
「七緒さん」
「何?」
「オムライスのおかわりをお願いしてもよろしいですか」
「……この状況でよく食べられるわね」
「この状況だからこそ冷静な食欲が必要なのです」
七緒が厨房へ戻ったところで、店の扉が開いた。
両手の拳を包帯で巻かれた火村が入ってくる。応急処置だけを済ませ、現場の指揮を部下へ任せて戻ってきたらしい。
火村は厨房の隅で食事を続ける祈を見つけると、その向かいへ腰を下ろした。
「君、外で何があったか知ってるか?」
「お客様がお亡くなりになったと伺いました」
「怖くないのか」
「何がでしょう?」
「ついさっき話していた人間が、あんな姿で殺されたんだぞ」
祈はスプーンでオムライスを一口食べ、咀嚼してから答えた。
「既に死んだものへ恐怖しても、生き返るわけではありません」
火村の目が鋭くなる。
「君は確かあいつに言ったな。僕のことも『徹底的に潰すのか』、と」
「はい」
「あれはどこで知った」
「偶然です。鷺沢様が僕を脅されましたので、その場に合いそうな言葉を選びました」
「その偶然で、あいつは三年間隠していた情報を口走った」
「それは幸運でしたね」
「幸運?」
「刑事さんは今度こそ彼を法廷へ立たせられると仰っていましたから」
祈が微笑む。
「もっとも、被告人席は空席になってしまいましたが」
火村は何も言わず、目の前の少年を見つめた。
華奢な身体。透けるような白い肌。女性であれば年齢を問わず目を奪われる異様なまでに整った顔。
そのどこにも、駐車場に立っていた黒い怪物との共通点はない。
ただ一つ。
火村にはあの黒煙が発した皮肉と、祈の言葉がひどく似ているように思えた。
「天羽祈。君は一体、何者だ?」
祈は空になった皿へ視線を落とした。
「アルバイトです」
「それだけか」
「現在、血糖値上昇中のアルバイトです」
七緒が二皿目のオムライスを運んでくる。
祈は火村との会話が終わったと判断し、スプーンを取った。
窓の外では、赤色灯が冬の夜を明滅させている。警察官たちが動き回り、怜央の遺体へ青いシートがかけられていく。
祈のポケットでスマートフォンが一度だけ震えた。
画面には、一般利用者には決して見えない取引履歴が表示されている。
出品者━━水瀬由美子。
商品━━娘が使っていたスマートフォン。
販売価格━━十三円。
取引状況━━完了。
その下では、新しい数字が静かに減り始めていた。
━━次回の執行期限まで、百六十七時間五十九分。
祈は通知を消した。
人間の法律が見落とし、権力が覆い隠し、金で沈められた罪はこの街にまだいくつも残されている。
そして神は、ひどく腹を空かせていた━━。




