第三話 神罰の生配信 前編
「ご注文、確かに承りました」
祈が購入ボタンから指を離すと、画面上の黒い表示が静かに切り替わった。
━━取引を開始します。
それは《エルカリ》を利用する数百万人のうち、出品者である水瀬由美子と、購入者であるElにしか見えない表示だった。
鷺沢怜央は、自分の命が十三円で落札されたことに気づいていない。
「だから注文じゃなくてさ。君を撮ってもいいかって聞いてんの」
怜央は配信用のスマートフォンを祈へ向けたまま、馴れ馴れしく笑った。
画面には現在進行形でコメントが流れ続けている。
〈店員くん顔良すぎ〉
〈女の子かと思った〉
〈怜央はいいからその子もっと近くで映して〉
〈店どこ? 会いに行きたい〉
〈怜央よりめちゃくちゃバズりそうで草〉
先ほどまで怜央を持ち上げていた視聴者たちはすでに新しい玩具を見つけていた。
自分へ向けられていた注目を奪われたことが気に入らないのか、怜央の笑顔は少しずつ硬くなっていく。
祈はメニュー表でレンズを塞いだ。
「ほかのお客様もいらっしゃいます。先程も言いましたが撮影をやめてください」
「は?」
「許可なくお客様や従業員を撮影する行為は、当店ではお断りしています」
「いやいや、俺のこと知らないの? 登録者百万人だよ?」
「僕が知ってる配信者はジョニー・◯マリしか存じ上げません」
「なんだと? 俺の配信に映れば君みたいな一般人でも一晩で有名になれるんだよ」
「結構です。あなたと違い、僕の三大欲求に承認欲は含まれておりません」
周囲の席から小さな笑いが漏れた。
怜央の頬が引きつる。
自分が笑われたと理解した瞬間彼はジンバルをテーブルへ置き、椅子を蹴るように立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、不快な音が店内へ響く。
祈より若干背の高い怜央が、威圧するように顔を近づける。甘い香水の向こうに、酒と煙草の匂いが混じっていた。
「調子に乗るなよ、バイトが」
「僕が乗っているのは通勤に使う自転車だけです。カメラの前で調子に乗ってるのはそちらでは?」
「んだと!? 俺がその気になればお前の学校も住所も、その日のうちに割れるんだぞ。態度の悪い店員がいたって一言配信すれば、お前だけじゃなく、この店ごと終わらせられる」
怜央は小声になった。
視聴者には聞かせないためだった。自分は脅迫などしていないという逃げ道を、話している最中から用意している。
「お前の家族も友達も、ネットを開けなくしてやれる。俺の視聴者を敵に回したらどうなるか、教えてやろうか?」
祈は怜央の目を見上げた。
怒りも、怯えも、そこにはない。深海の底から地上の生き物を観察するような、あまりにも静かな目だった。
「なるほど、そうやって僕のことも『徹底的に潰す』のですか? おっかなーい」
怜央の表情が止まった。
ほんの一秒にも満たない変化だったが、三番テーブルに座る火村陣は見逃さなかった。
「……何だって?」
「聞こえませんでしたか?」
「その言葉を、どこで知った」
怜央の声から虚勢が消えていた。
「どの言葉でしょう。おっかなーいですか? おっかないの語源には『おおけはなし』という形容詞が━━」
「とぼけるな! あの端末は水没したはずだ、グループの履歴だって全部━━」
取り巻きの一人が怜央の袖を引いた。
「怜央、それ以上は」
怜央が我に返る。
配信は今も続いている。ただし、幸いなことにジンバルへ取りつけたスマートフォンはテーブルの上へ倒れており、マイクは怜央の言葉を明瞭には拾っていなかった。
祈は何事もなかったように注文端末へ目を落とした。
「ありがとうございます」
「何がだよ!」
「ご注文の確認が取れました」
怜央が祈の胸倉へ手を伸ばした。
その手首を、横から大きな手がつかむ。
「おい、店員に手を出したら今度は証拠が残るぞ」
いつの間にか席を立っていた火村だった。
怜央はつかまれた手と火村の顔を見比べ、舌打ちする。
「またあんたかよ。俺につきまとってるところを切り抜いて県警に送ってやろうか?」
「好きにしろ。ついでに今の脅しも送ってくれ」
「脅し? 俺は店員と話してただけですけど」
「そうやって他人の口と手ばかり使うのは、三年前から変わらないな」
怜央が火村の手を振り払った。
「証拠もないのに一般人を犯人扱いですか。警察って怖いなあ」
「だったら聞かせろ。水瀬咲良を徹底的に潰せと書いた端末が水没したことを、なぜお前が知っている?」
怜央の顔から血の気が引いた。
取り巻きたちも口を閉ざす。
やがて怜央は、無理やり唇を歪めた。
「ネットの記事で読んだだけですよ。そんな昔の話、いちいち覚えてないけど」
「今、自分でグループの履歴と言ったな」
「聞き間違いじゃないっすか?」
火村の目が細くなる。
だが、それ以上追及するより先に、怜央はテーブルのスマートフォンを取り上げた。
「はいはい、皆さんお待たせ。ちょっと面倒な店員と、自称正義の刑事さんに絡まれてました」
配信へ戻った怜央は、すでに被害者の顔を完成させていた。視聴者へ向けて困ったように笑い、火村と祈を迷惑な人間として紹介する。
コメント欄には、事情を知らない者たちの罵声が流れ始めた。
〈イケメン店員、あれ店側の売名だろ〉
〈店特定した〉
〈クレーム入れようぜ〉
〈警察が一般人を脅していいの?〉
〈怜央くんかわいそう〉
〈でも怜央より断然イケメンだから許す〉
〈論破されて涙目の怜央くんww〉
祈は怜央へ注文端末を向けた。
「それで、ご注文はいかがなさいますか?」
「……お前、本当に気持ち悪いな」
「ありがとうございます。それを地でいく人に言われると言葉に含蓄があります」
「っ! てめぇ……!」
怜央は祈を睨みつけたあと、一番高いステーキセットを四人分注文した。
祈が厨房へ戻ると、七緒が心配そうに駆け寄ってきた。
「祈くん大丈夫? あの人に何かされた?」
「撮影を断っただけです」
「胸倉をつかまれそうになってたでしょう。今日はもう裏にいてもいいからね」
「店長」
「何?」
「あのお客様のステーキは、カットステーキかつウェルダンでお願いします」
「カットもするの? それに注文はミディアムじゃなかった?」
「生焼けのものを出して、あとから腹痛を訴えられても困りますので。まぁ結局、彼はこの後カットステーキなりますけど」
七緒はしばらく祈の顔を見つめてから、厨房の奥へ注文を伝えた。
三番テーブルに戻った火村は冷めかけたミックスグリルへナイフを入れながらも、何度も祈の姿を目で追っていた。
なぜ……あの少年は非公開のグループに書かれていた文言を知っているんだ?
単なる偶然かもしれない。「徹底的に潰す」という言葉自体は誰でも使う表現だ。
だが、それを聞いた怜央は明らかに動揺し自分から水没した端末とグループの履歴へ言及した。
火村はスマートフォンを取り出し、部下へ短いメッセージを送った。
『鷺沢怜央の過去の事情聴取記録を再確認しろ。水没端末の件を知り得た人物も洗い直せ』
送信したあと、火村は顔を上げた。
料理を運んでいた祈と目が合う。
祈は穏やかに微笑んだ。
その笑顔の奥に何があるのか、火村には読み取れなかった━━。
* * *
一時間後、怜央たちは食事を終えた。
会計を済ませる間も怜央は配信を続け、レジに立つ美人な七緒の姿を勝手に映そうとした。
祈がその前へ無言で立つと、怜央は舌打ちしながらカメラを下げた。
「帰ったら覚えてろよ」
「僕は覚えてますが、食後は記憶力が低下するそうですよ」
「お前……マジでいつか痛い目を見るからな」
「それは、経験者からの助言として受け取っておきます」
怜央は最後まで祈を睨みながら自動ドアの向こうへ消えた。取り巻きの男女もそれに続き、冬の冷たい空気が一瞬だけ店内へ流れ込む。
七緒は肩の力を抜いた。
「はぁ、もう二度と来ないでほしい……。祈くん、悪いけど裏のごみ出してきてくれる?」
「はい」
祈は大きな黒いごみ袋を二つ持ち、バックヤードの扉から外へ出た。
駐車場では、怜央がまだ配信を続けていた。
「というわけでね、今日は最悪の店でした。店員の教育もできてないし飯も普通。皆は絶対に行かない方がいいよ」
取り巻きの一人が車の鍵を開け、もう一人が祈へ気づいて怜央の肩を叩く。
「怜央、アレさっきの店員」
怜央が振り返る。
「何だよ、謝りに来たのか?」
祈はそれを無視して駐車場の端にある集積所へごみ袋を置いた。
白い息が夜の中へ溶けていく。
怜央から祈までおよそ二十メートル。肉眼で顔を確認するには十分すぎる距離だった。
祈が瞬きをする。
次の瞬間、駐車場の照明が一斉に消えた。
「なに!? 停電!?」
取り巻きの女が声を上げる。
わずか三秒後、照明は何事もなかったように点灯した。
しかし集積所の前に天羽祈の姿はなかった。
代わりに怜央の足元から、黒い線が四方向へ走り出した。
「何だ、これ……」
アスファルトを切り裂くように伸びた線は、怜央を中心とした巨大な正方形を作る。その四辺から鏡の壁が垂直にせり上がり、逃げる暇すら与えず、彼ひとりを内部へ閉じ込めた。
「怜央!」
取り巻きたちが悲鳴を上げて後退する。
駐車場の中央に現れたのは、一辺四メートルほどの黒い立方体だった。
外側からは内部が透けており、閉じ込められた怜央の姿をはっきり見ることができる。ところが怜央の側からは、すべての壁が鏡になっていた。
前を向いても、後ろを向いても、左右を見ても、自分の顔が無限に連なっている。
「なんなんだよこれ! 開けろっ!」
怜央が壁を叩く。
音は外へ届かなかったはずなのに、彼の声だけが配信用のスマートフォンから鮮明に流れた。
怜央の手を離れた端末が宙へ浮かび、立方体の内部を撮影し始める。配信を終了させようとしても画面は反応せず、視聴者数だけが一万人、十万人、五十万人と異常な速度で増えていく。
取り巻きたちのスマートフォンも一斉に震えた。
表示されたのは、怜央の生配信だった。
「おい! お前ら、ぼさっと見てないで壊せ! 車で突っ込めや!」
怜央が怒鳴った、そのときだった。
立方体の前へ黒い煙が集まり始めた。
煙は夜風に流されることなく、ゆっくりと人間の輪郭を作る。頭、肩、二本の腕。辛うじて人型とは分かるものの、顔も服も存在しない。黒煙の中では、赤黒い雷が血管のように明滅していた。
右手には、ファミレスの紙袋が提げられている。
その妙に人間味のある黒煙は、紙袋から大きなハンバーガーを取り出すと怜央を見ながら一口かじった。
『鷺沢怜央』
男とも女とも、老人とも子供とも判別できない声が、店内のスピーカーと周囲のスマートフォンから同時に響いた。
『ご注文の商品をお届けに参りました』
「誰だ、お前……!」
『El』
その名が告げられた瞬間、すべてのスマートフォンへ同じ表示が現れた。
━━審理を開始します。
鏡の表面へ、血で書かれたような赤い文字が浮かび上がる。
〈水瀬咲良はパパ活をしている〉
怜央の顔が強張った。
その下へ、二つ目の文章が浮かぶ。
〈誰とでも寝る女だ〉
三つ目。
〈友人が好きだった男を誘惑して寝取った〉
そして四つ目。
〈ネットで自分の下着を販売している〉
「俺じゃない!」
怜央は反射的に叫んだ。
「それを書いたのは別の奴だ! アカウントも俺のじゃない!」
『事実です。あなたの指は、直接その文章を入力していません』
「だったら俺は関係ないだろ!」
『ですが、あなたは指示を出した』
「証拠があるのかよ!」
『先ほど、ご自身で水没した端末とグループの履歴について証言されました』
怜央が口を開けたまま固まる。
『画像編集がお得意だそうですね』
黒煙はハンバーガーを食べ終えると、紙袋から二つ目を取り出した。
『今夜は被写体側をご体験ください』
鏡の表面へ、細い白線が縦横に走った。
画像編集ソフトのグリッド表示に似た無数の四角が、怜央の全身を細かく区切っていく。
「やめろ……何をするつもりだ」
黒煙の祈が、人差し指を一本立てた。
怜央の右肩が映っている枠へ指先を合わせ、そのまま数センチ横へ滑らせる。
鏡の中の右肩だけが、切り取られた画像のように移動した。
現実の怜央の身体も、それに従った。
肩の一部が肉体から横へずれ、裂けた境界から血が噴き出す。腕は落ちなかった。肩と胴体の位置がずれたまま、見えない力によって一つの身体として固定されている。
一拍遅れて、怜央の絶叫が駐車場へ響き渡った。
「ぎゃあああああっ!」
大量の血が鏡へ飛び散る。しかし怜央は失血で意識を失うことも、痛みで気絶することも許されなかった。
「戻せぇぇ! 今すぐ元に戻せぇぇ!」
黒煙の中で、白い歯だけが微笑んだ。
『死者には、アンドゥ機能がありません』
* * *
自宅の居間で、水瀬由美子はスマートフォンを握り締めていた。
《エルカリ》から届いた通知を開くと、見知らぬ生配信へ接続された。画面の中には、三年前から何度も夢に見た男がいる。
鷺沢怜央。
記者たちの前で涙を見せ、自分も被害者なのだと訴え、咲良の死後も何事もなかったように笑って配信を続けてきた男。
その怜央が今、鏡の中で血を流している。
『出品者、水瀬由美子様。取引内容に相違はありますか』
突然、自分の名前を呼ばれ、由美子は息を呑んだ。
画面には二つのボタンが表示されていた。
相違ありません or 取引を中止します。
指が震えた。
由美子は怜央が苦しむところを何度も想像した。
娘と同じだけ苦しめばいい。咲良が受けた痛みをすべて味わえばいい。
そう願わなければ、今日まで生きてこられなかった。
だが、実際に血を流す怜央を見ても胸の中に喜びは生まれなかった。
咲良は帰ってこない。
どれほど残酷な罰を与えても、朝になれば娘のいない部屋が残っている。
「咲良……」
由美子は涙を流しながら、最初のボタンへ指を置いた。
「お母さん、これでよかったのかな……」
問いに答える声はなかった。
由美子は目を閉じたまま、ボタンを押した。
━━取引内容が承認されました。




