第二話 死んだ少年は再び登校する 後編
教師が黒板を叩く音で、祈の意識が現在へ戻った。
「天羽。聞いているか?」
「はい。百十六ページですね、l = 4 3 π , S = 8 3 πです」
教師が指定しようとしていた箇所を先に答えると、教室に小さな笑いが起きた。
しかし祈が視線を巡らせただけでその声は波が引くように消えていく。
窓の外は、冬の薄曇りだった。
祈は自分の手を見る。
あの夜に砕かれた骨も裂けた皮膚も完全に再構築されている。
望めばこの手の上に恒星を作ることも、地球を粉々にすることもできた。
けれど、過去だけは作り直せない。
天羽祈が葵から卵焼きをもらった夏は、もうどこにも存在しなかった。
反対側の席で葵は祈の顔を何度もチラッと見ては顔を背けている。一ノ瀬は三年生の教室にいるはずなのに授業の合間になるたび廊下からこちらを窺っていた。
祈は二人に話しかけなかった。
判決を下すには、まず罪を知らなければならない。
神は強大だったが、全知ではなかった。
* * *
放課後、祈は郊外の国道沿いにあるファミリーレストラン《ミモザ》へ向かった。
この店のオーナーである和泉七緒は祈が死から戻った翌朝、コンビニの前で祈を拾った女性だった。
彼が河川敷で暮らしていると知ると食事を与え警察へ連れていき、両親が引き取りを拒んだあとには自宅の空き部屋まで貸してくれた。
七緒もまた祈を見るたび、ときおり理由もなく動きを止める。二十六歳の彼女にとって祈は保護すべき年下の少年でしかない。
それでも神と融合した祈の存在感は、理性より深い場所へ触れてしまうらしい。
「祈くん、着替える前にこっち見て」
厨房から出てきた七緒は、祈の顔を両手で挟み、右へ左へと向けた。祈を間近で見つめているうちに一瞬ぼんやりしたが、すぐ我に返って眉を寄せる。
「久々の学校、何もされなかった?」
「皆さんとても静かでした。まるで撮り鉄が去った後の無人駅みたいに」
「それ、絶対に大丈夫じゃない言い方よね」
「机も綺麗でした」
「初日から落書きされてたら、私が理事長室に乗り込んでるわよ」
七緒は大きく息を吐くと、祈のために用意していた賄いを差し出した。大皿のオムライスにハンバーグ、唐揚げ、山盛りのポテト。一般的な高校生なら三人がかりでも苦しい量だった。
「これ食べてから働きなさい。足りなかったら言って」
「ありがとうございます」
「足りる?」
「その、前菜としては」
「……本当に食費だけで店が潰れそう」
口ではそう言いながら七緒は嬉しそうだった。
妹を亡くして以来、彼女には食事を一人分多く作る癖がある。
その余った一人分を残さず食べることが、祈にできる数少ない恩返しだった。
店が混み始める頃には祈は制服から白いシャツと黒いエプロンへ着替え、何事もなかったように料理を運んでいた。
郊外の深夜営業店には街のあらゆる事情が集まる。
不倫を問い詰める夫婦、上司の悪口を肴に酒を飲む会社員。
家に帰れずドリンクバー一杯で時間を潰す少女。
別れ話を切り出せない恋人たち。
祈は彼らの笑顔と悪意、虚勢と助けを求める小さな声を同じ静けさで観察した。
三番テーブルには、くたびれたスーツに無精髭の男が座っていた。
その男は火村陣。週に何度か店を訪れる常連客で、警察手帳を見せられなくても刑事だと分かる。人間を見るときの目が、他の客とは違っていた。
「ミックスグリルと、食後に珈琲を頼むよ」
「ブラックですね」
「覚えてたのか」
「毎回同じものを頼まれますので」
「俺ぐらいの歳になると、新しいものは胃にも人生にも重いんだよ」
「ご安心ください。昨日と同じものでもそんなにくたびれてたら胃もたれを起こします」
「君さぁ……客商売に向いてないってよく言われない?」
「店長からは、笑顔だけは綺麗だと」
祈が微笑むと近くを通った女性客がつられるように彼を見た。
火村はその様子と祈の顔を見比べ、怪訝そうに眉を上げる。
「はぁ、もうここに来るのやめようかな……」
祈は厨房へ戻ろうとした。そのとき、エプロンのポケットでスマートフォンが短く震えた。
━━新しい商品が出品されました。
一般の利用者には表示されない通知だった━━。
* * *
フリマアプリ〈エルカリ〉。
公開からわずか一か月。
そんな超短期間にもかかわらず登録者はすでに三百万人を超えている。
写真を一枚撮るだけで人工知能が品名、説明文、適正価格まで自動で入力する。
さらに出品された品は平均十数分程で、それを最も必要としている買い手の画面へ表示される。
売れないものがない。
欲しいと思った瞬間探していた品が現れる。
亡くしたはずの品物ともう一度巡り合える。
そんな体験談が動画配信者や芸能人によって拡散され、〈エルカリ〉は一夜ごとに利用者を増やしていた。
『あなたの不要品は、誰かの探しもの』
その宣伝文句と異常なまでの成約率から人々はエルカリの推薦機能を〈縁結び〉と呼んだ。
表向きの運営会社は存在する。
都心のオフィスには社長も社員も問い合わせ窓口もある。しかし、アプリの根幹を設計した創業者だけは誰も顔を見たことがなかった。
社員へ届く指示は暗号化された短い文章だけ。
創業者が名乗る文字は二つ。
〈El〉
そしてエルカリには、その創業者と同じ〈El〉の名を持つ運営会社でさえ削除できない購入者がいるという。
遺族や犯罪被害者が集まる匿名掲示板ではここ数か月、〈十三円の祈り〉と呼ばれるおかしな都市伝説が囁かれていた。
法律に裁かれなかった加害者がいるとき、被害者の遺留品か生前の記憶が染みついた品を午前一時十三分に十三円で出品する。
商品説明には犯人の名前を直接書かず、その罪と居場所を比喩にして記す。
依頼が正しければ姿の見えない購入者〈El〉が現れる。
そして遠からず、その加害者に相応の代価を支払わせる━━というものだった。
十三円は報酬ではない。
そして誰が最初に十三円と言い出したのかは分からない。
成功を報告する書き込みは決まって数日で消え、偽りの依頼には何も起こらない。
法を逃れた人間が不可解な死を遂げるたびその直前に十三円の出品があったというスクリーンショットだけが残った。
運営会社はそんな都市伝説を公式に否定していた。
〈当社サービスに、復讐を代行する機能は存在しません。十三円の出品及び〈El〉を名乗る不審な購入者については、悪質な虚偽情報として警察へ相談しております〉
何度も同じ声明が出された。
そんな巨大フリマアプリ《エルカリ》の出品ページに、画面の割れた一台のスマートフォンが映っていた。透明なケースの内側には、色褪せた桜のシールが挟まれている。
商品名:娘が使っていたスマートフォン。
商品の状態:傷や汚れあり。
価格:十三円。
出品者の名前は、水瀬由美子。
説明欄には、短い文章が記されていた。
『娘の声と、娘を殺した男の記録が残っています。警察にも学校にも教育委員会にも、何度持っていっても受け取ってもらえませんでした。今夜、その男はミモザという店で生配信をします』
祈が非公開資料を開くと、亡くなった少女の写真、相談記録、SNSの投稿、音声データが時系列に並んだ。
少女の名は水瀬咲良。高校一年生だった。
由美子は娘の死後、警察にも学校にも教育委員会にも、週刊誌にも訴えた。咲良のスマートフォンに残っていた記録を持ち、娘がどのように追い詰められたのか調べてほしいと何度も頭を下げた。
それでも、咲良を陥れた配信者の男━━鷺沢怜央は捕まらなかった。
咲良が告白を断ったことへの逆恨みから、彼女の顔を裸の画像へ合成し、ネットの海へ流したのは表向きには確かに怜央ではない。
〈水瀬咲良はパパ活をしている〉
〈誰とでも寝る女だ〉
〈友人が好きだった男を寝取った〉
〈ネットで自分の下着を販売している〉
そんな嘘を拡散したアカウントも、怜央のものではなかった。
水瀬家の住所と電話番号を晒したのも、金で雇われた別人だった。真偽を確かめるという名目で自宅前から配信した者も、咲良の学校へ匿名の電話をかけ続けた者も、それぞれ別の人間だ。
怜央はただ、鍵のかかった配信者仲間のグループで指示を出しただけだった。
『咲良を徹底的に潰せ』
『自分から学校に来られなくなるまでやれ』
『俺の名前は絶対に出すな。金なら払う』
咲良の端末にはその指示の一部を撮影したスクリーンショットと、怜央本人の声によく似た音声が残っていた。しかし画像は加工できる、声は偽物かもしれない、入手経路が不明だ━━そう言われるたび証拠は証拠でなくなっていった。
そして、指示の原本が残されていたはずの怜央の端末は、警察が踏み込む前日に水没した。
県議会議員である怜央の父親は、記者会見で深く頭を下げた。
『息子もまた、根拠のない誹謗中傷に苦しむ被害者です。息子はそのようなことはしておりません。絶対に無実です』
会見の切り抜き動画は瞬く間に拡散され、鷺沢親子へ同情する声が溢れた。その一方で咲良のアカウントには、嘘つき、売名、議員の息子を誘惑して失敗した女という言葉が夜が明けるまで送り続けられた。
水瀬咲良はその会見が放送された翌朝、自ら命を絶った━━。
だが、由美子は一度も自殺だと思ったことがない。
出品資料の最後には、母親の震える文字でただ一行だけ記されていた。
『咲良は、鷺沢怜央に殺されたのです』
祈は画面を閉じなかった。
感情は動かない。それでも、自分の手を汚さず証拠の中に他人の名前だけを残し、権力者の言葉で被害者を嘘つきへ変える━━そのやり方を、天羽祈の記憶はよく知っていた。
人ひとりを殺すのに、刃物も毒も必要ない。
たった一人大切な人へひとつの嘘を信じさせればいい。
店のドアベルが鳴った。
「はい、到着。今夜の深夜飯配信はここでーす」
配信用のスマートフォンを取りつけた手持ちジンバルが店内を舐めるように映した。その後ろから派手なジャケットを着た若い男と、男女三人の取り巻きが入ってくる。
男は店へ入るなり客席へ断りもなくカメラを向けた。画面上を流れるコメントと視聴者数を確認し、よく訓練された笑顔を浮かべる。
鷺沢怜央。
登録者百万人を超える人気配信者であり、水瀬咲良を殺したことになっていない男。
ミックスグリルを切っていた火村の手が止まった。
「鷺沢」
低い声で名前を呼ばれ、怜央が三番テーブルを見る。一瞬だけ表情を強張らせたが、カメラが回っていることを思い出すと、すぐ被害者めいた笑顔へ戻った。
「あれ! 火村刑事じゃん! まだ俺のこと追い回してるんすか?」
「水瀬咲良の母親は、今もお前の言葉を待っている」
「ほら、皆さん聞きました? 証拠もないのに警察が一般人を犯人扱いしてます。俺も誹謗中傷の被害者なんですよぉ」
怜央がレンズへ訴えると配信画面には火村を非難するコメントが流れ始めた。切り取るべき場面を作り視聴者に攻撃させ、自分だけは安全な場所から眺める。
三年前と何も変わっていない。
「祈くん、四名様お願い」
七緒に呼ばれ、祈は注文端末を手に怜央たちの席へ向かった。
最初に祈へ気づいたのは怜央の隣にいた女性だった。言葉の途中で声を失い、吸い寄せられるように祈を見つめる。
もう一人の女性も同じように黙り込み、やがて配信のコメント欄まで今映った店員は誰だ、美しすぎる、もう一度映せという言葉で埋まっていった。
自分へ向いていた注目を奪われ、怜央の笑顔がわずかに歪む。
「君すごいね。その顔、もっと映していい?」
怜央がカメラを向けた瞬間、祈はメニューでレンズを静かに塞いだ。
「ほかのお客様もいらっしゃいます。撮影はお控えください」
「固いこと言うなよ。俺の配信に出たら、君も有名になれるよ」
「僕今欲しいのはちっぽけな知名度よりご注文内容です」
「……なに?」
怜央が苛立ったように顔を上げる。
祈と正面から目が合った。
標的本人から反射した光が、祈の網膜へ届く。顔、本名、裁くべき罪。判決に必要な情報がひとつずつ結びついていく。
祈は画面の底に浮かんだ、黒い購入ボタンへ指を置いた。
━━この商品を購入しますか?
商品価格、十三円。
「おい、お前聞いてんの?」
祈は、人間だった頃よりも美しく微笑んだ。
そしてその直後、娘のスマートフォンを出品した水瀬由美子の画面にだけたった一行の通知が表示された。
━━Elが商品を購入しました。




