第一話 死んだ少年は再び登校する 前編
高校三年生の一ノ瀬真は海というものを信頼していた。
夜の海は何も尋ねない。
どれほど醜い秘密を沈めてもただ黙って飲み込むだけだ。
ましてや、天羽祈の身体には工事現場から盗んだ重りを二つも括りつけた。
一ノ瀬が一つ下の後輩、祈の幼馴染である結城葵を手に入れるために祈を罠に嵌めて葵や学校の連中、家族からも孤立させ、海へ沈め殺した夜、確かにすべては終わったはずだった。
頭蓋は砕けて呼吸も脈も止まり、重りを括られた身体は黒い水底へ消えた。
葵はその代償として一ノ瀬に縋りつき、彼は“勝った”のだと信じて疑わなかった。
あの夜で確かに祈は終わったはずだった。
天羽祈が学校と家から姿を消して半年以上経った三学期最初の月曜日、一ノ瀬が校門前の人だかりに目を向けるまでは━━。
登校時間を知らせる音楽が流れているというのに何十人もの生徒が足を止めていた。
特に女子生徒たちは通行の邪魔になっていることにも気づかず、ひとりの少年を見つめている。
生活指導の女性教員まで注意するのを忘れ、彼が歩く姿を目で追っていた。
中心にいる少年の顔を認めた瞬間、一ノ瀬の喉から空気が消えた。
天羽祈だった━━。
以前と変わらない華奢で儚げな高校生。少し長い黒髪も透けるように白い肌も伏し目がちな瞳も、一ノ瀬が海へ沈めた夜のままだった。
それなのに、そこだけ世界の焦点が合ってしまったように祈の姿だけが異様なほど鮮明に見える。
美しい、という言葉では足りなかった。
光っているわけではない。何か派手な格好をしているわけでもない。それでも誰もが、彼の背後に巨大で不可視の何かが立っているような感覚を覚えた。
男子生徒は理由の分からない圧迫感に道を譲り、女性たちは生徒も教師も年齢を問わず呼吸を忘れたように見入ってしまう。
祈が彼女たちへ目を向けると頬を染める者もいれば、怖くなって視線を伏せる者もいた。
だが、一度逸らしたはずの目は磁石に引かれる針のようにまた祈へ戻っていく。
「祈……なんで……」
一ノ瀬の隣で結城葵が呟いた。
葵も祈を見ていた。
自分から彼を拒絶し、一ノ瀬を選んだはずなのにその瞳は昔よりも強く祈へ吸い寄せられている。
そんな自分を恥じるように葵はすぐ一ノ瀬の腕をつかみ、半歩後ろへ隠れた。
その仕草が祈に対する明確な拒絶であることに変わりはなかった。
しかし祈はそんな葵の行動など目もくれず、割れた人波の中をゆっくり歩いてきた。
自分へ注がれる無数の視線にも、それによって生まれた騒めきにもまるで関心がないらしい。
「おはようございます、一ノ瀬先輩」
目の前で立ち止まり、祈は穏やかに微笑んだ。
近くで見ても顔立ちは以前と同じだった。
にもかかわらず一ノ瀬は反射的に後ずさりそうになった。祈の瞳の奥に深海よりも暗く、夜空よりも広い何かが潜んでいる。
「祈……戻っていたのか。みんな、心配してたんだぞ」
どうして生きている……。
そう叫びそうになる口を抑え、一ノ瀬は人好きのする笑顔を作った。
教師にも同級生にも信頼されてきた、いつもの優しい先輩の顔だった。
「急にいなくなるから、葵もずっと━━」
「実は、少し死んでいまして」
一ノ瀬の笑顔が固まった。
祈は何事もなかったように小首を傾げる。
「冗談ですよ。僕の死亡届なんか出ていないでしょう?」
「え……縁起でもないことを言うなよ」
「失礼しました。先輩は人の死を冗談にするのがお嫌いでしたね」
責める響きはどこにもなかった。
それだけに、一ノ瀬には言葉の裏側が読めない。
祈の視線が葵へ移る。
葵の肩が震えた。
見つめられた瞬間、胸の奥を強くつかまれたように息が詰まったが彼女は一ノ瀬の腕を離さなかった。
謝罪も帰還を喜ぶ言葉も口にしない。
ただ、盗撮犯を見る警戒と説明できない魅了の間で顔を強張らせている。
祈はそんな葵に話しかけることなく、一ノ瀬の横を通り過ぎた。
すれ違いざま、祈から微かに潮の匂いがした。
「ああ、先輩」
数歩先で振り返った祈が朝の挨拶の続きをするように言った。
「今日も無事に生きられると良いですね」
一ノ瀬が答える前に祈は校舎へ向かって歩きだした。彼が進むたび、生徒たちが無言で左右へ分かれていく。
その光景は一ノ瀬が悪夢の中で何度も見た、二つに裂けた夜の海に似ていた━━。
◇
二年三組の教室には、祈が行方不明になる以前と同じ場所に彼の机が残されていた。
登校再開が伝えられたのは今朝の職員会議だったらしく机の上には薄く埃が積もり、夏休み前に貼った時間割が色褪せている。
落書きも嫌がらせの跡もない。
クラスメイトにとって祈は憎しみをぶつける対象ですらなく、二度と戻ってこないものとして忘れられかけていたのだろう。
ところが本人が教室へ入った途端、誰もが彼から目を離せなくなった。
祈に近い席の女子生徒は彼の目を見て教科書を落とした。
別の少女は自分の反応に戸惑い、祈を盗撮犯だと罵るメッセージを友人へ送信しながら画面越しに何度も彼を見ている。
男子生徒たちはそれを面白くなさそうに眺めていたが、祈へ直接何か言おうとはしなかった。
葵は教室の反対側にある自分の席から動かなかった。親しい友人に話しかけられても上の空で、祈と目が合いそうになるたび露骨に窓の外へ顔を向けている。
祈はそれらすべてを、ガラスケースの向こうにある展示物を見るように眺めた。
以前の自分なら、葵の態度だけで胸を抉られていただろう。その痛みがどのようなものだったか記憶としては理解できる。
しかし現在の祈の内側には、傷つけられる柔らかな場所が残っていなかった。
机に指を触れる。
木目に刻まれた小さな傷を見た瞬間、死ぬ前の記憶が鮮明に開いた。
あの日も、夏の光が同じ窓から差し込んでいた━━。
* * *
半年前。
「祈、またパン一個だけ?」
昼休みの教室で葵が呆れたように言った。
祈の机には購買で買った小さなあんパンと牛乳しかなく、その横には葵の色鮮やかな弁当が広げられていた。
「朝、あまり時間がなくて」
「昨日も同じこと言ってた。ほら、これ食べなよ」
葵は卵焼きをひとつ祈のパンの袋へ載せた。
幼稚園の頃から何度も繰り返してきたやり取りだったが祈はそのたびに少し困った顔をする。
「葵のおかずが減るよ」
「私のお母さん入れすぎるんだもん。それに祈は放っておいたら消えそうだから」
「人間は昼食を一回抜いたくらいでは消えないよ」
「そういう意味じゃないの」
頬杖をついた葵が笑う。その笑顔を見られるだけで、祈は学校へ来てよかったと思えた。
二人が交わした何気ない会話は、それが最後になった。
六時間目の途中、担任が教室へ入って祈の名前を呼んだ。
廊下には生活指導の教師が二人立っており、祈の鞄とスマートフォンを持っている。
「天羽、校長室へ来なさい」
「え、どうして僕の鞄を?」
「説明は向こうでする。結城もあとで来てもらう」
教室に不穏な囁きが広がった。
校長室には校長と担任、制服警官、そして理事長の息子で生徒会役員でもある一ノ瀬がいた。
机の上には女子更衣室から発見された小型カメラと祈のスマートフォンが並べられている。
「これは、君が購入した物だね」
警官が示した通販履歴には確かに天羽祈の名前と住所が記載されていた。
祈のクラウドストレージからは女子生徒を撮影した動画が何十本も見つかったという。
「違います、僕は買っていません!」
「しかし購入履歴がある。カメラから君の指紋も出ている」
「触っていません! スマートフォンだって、昼休みには鞄の中に━━」
「君が犯人だとはまだ決めていない、だが……」
校長はそう言いながらすでに祈を犯人として扱う目をしていた。
やがて葵が連れてこられた。事情を知らず不安そうだった顔は、動画の静止画を見せられるうちに青ざめていった。
そこには更衣中の葵の姿も映っている。
「葵、僕じゃないんだ」
祈はそれだけを伝えれば信じてもらえると思っていた。十年以上一緒に過ごしてきた。
転んで膝を擦りむいた日も母親に叱られて家へ帰りたくなかった日も、二人は互いの言葉を疑わなかった。
葵なら自分がそんなことをする人間ではないと分かってくれるはずだった。
だが、葵は祈の顔を見なかった。膝の上で握り締めた拳が細かく震えている。
「……いつから?」
「……え? まってよ、違うんだ」
「ねぇ、いつから私のことこんな目で見てたの? 小さい頃から? 私が祈の家に泊まったときも、プールへ行ったときもずっと心の中では笑ってたの!?」
「違う! そんなふうに見たことは一度もない。僕はただ、葵のことが━━」
「好きだなんて適当に言わないで!」
葵が初めて顔を上げた。その目にあったのは祈が期待した信頼ではなく、怯えと嫌悪だった。
「私も、祈のことが好きだった。ずっと優しい人だと思ってた。だから警戒しないで何でも話したし祈になら見られても平気な顔まで見せてた。それを全部……裏でこんなことに使ってたんでしょう?」
「使ってない! お願いだから、僕の話を━━」
「祈を好きだった自分まで、汚されたみたい」
祈の胸の奥で、何かが音を立てて折れた。
「もう名前で呼ばないで……私に近づかないで。祈の顔なんて二度と見たくない」
葵は椅子を蹴るように立ち上がると、祈から逃げるように一ノ瀬のもとへ駆け寄り、その制服の胸元をつかんだ。
「一ノ瀬先輩……今は一人にしないで」
「大丈夫だ。俺がついている」
一ノ瀬は泣き出した葵を抱き寄せ、髪を優しく撫でた。その肩越しに祈へ向けた目だけが勝利を確かめるように冷たく笑っていた。
「もう十分だろ。葵をこれ以上傷つけるな」
「一ノ瀬先輩、僕は━━」
「証拠が全部君を指しているんだ。言い逃れをする前に、まず被害に遭った子たちのことを考えたらどうだ?」
教師たちは一ノ瀬の言葉に頷いた。祈のために口を開く者は、ひとりもいなかった。
警察での事情聴取は夜まで続いた。
同じ質問を言葉だけ変えて何度も繰り返され否定すれば反省がないと言われ、黙れば認めたと受け取られた。
未成年である祈を迎えに来た両親は、取調室から出てきた息子へ駆け寄ることもなかった。
父は警察署の駐車場まで来ると、周囲に人がいないことを確かめてから祈の頬を平手で打った。
耳の奥で破裂音がして口の中に血の味が広がる。
「よりによって理事長の学校でとんでもない事をしてくれた」
殴られた痛みよりも、父が祈の無実を一度も尋ねなかったことの方が苦しかった。
「僕じゃない。誰かが僕のアカウントを━━」
「その汚い口で言い訳をするな!」
父の拳が今度は祈の腹へめり込んだ。息が押し出され、祈は駐車場の白線に膝をつく。
背中を丸めて咳き込む息子を父は襟首をつかんで無理やり立たせた。
「誰の金で学校へ行けたと思ってる。お前ひとりのせいで俺まで会社で犯罪者の父親と呼ばれるんだぞ。これ以上、天羽の名前に泥を塗るな」
「そんな、僕は何もしてない! かあさ━━」
「おい、変態のお前がそんな目で母さんを見るな。母さんが襲われるかもしれん」
母の声は泣いていたがその涙は息子のためのものではなかった。
近所に知られたらどうしよう、父の会社に影響したらどうしよう、そればかりを繰り返した。
父が祈を殴っている間も止めるどころか汚れたものから身を守るように距離を取っていた。
家に着くと、玄関の外に祈の衣類を詰めた旅行鞄が置かれていた。
母は祈が警察にいる間に部屋を片づけ、必要そうな物だけを勝手に詰め込んだらしい。
鞄の上には家の鍵が置かれ、その鍵穴にはすでに新しいシリンダーが取りつけられていた。
「お前はもうどこかへ行ってくれ」
父が家の中から告げた。
祈を玄関へ入れようともせず、敷居の内側に立っている。
「どこかって……どこに……?」
「自分で考えろ。十六にもなればそれくらいできるだろう。それから、二度とここへは戻ってくるな」
「お父さん、僕の話を聞いてよお願いだから! 他に行くところなんてないんだっ!」
祈が敷居をまたごうとすると父は胸倉をつかみ、その身体を玄関先へ投げ飛ばした。
膝と掌が石畳に擦れ、薄い皮膚が破れて血が滲む。
それでも祈は起き上がり、父の後ろにいる母へ手を伸ばした。
「お母さん、僕を信じて。小さい頃から一度だって葵や他の子にそんなことを━━」
「触らないでっ!」
母は祈の手を強く払い、頬を引きつらせた。
まるで見知らぬ犯罪者が家へ入り込もうとしているような顔だった。
「あなたなんか産まなければよかった、あなたを育ててきた十六年が全部恥ずかしい。もう私のことを母親だと思わないで。私もあなたを息子だと思わないから」
「お母、さん……」
「そう呼ばないで、心底気持ち悪いから。二度と私の前に現れないで━━」
母が吐き捨てたその言葉は、父の拳よりも深く祈の内側へ入った。
祈は幼い頃、熱を出すたびに母の手を握って眠ったことを覚えていた。運動会で転んだとき最後まで走った自分を抱き締めてくれたことも覚えている。その記憶の中の母親と、目の前の女が同じ人間であることをどうしても理解できなかった。
「お前はもう、天羽の人間じゃない。出て行け……」
父は旅行鞄を祈の身体へ投げつけた。角が肩に当たり、祈は再び石畳へ倒れる。
祈がドアへ手を伸ばす前に、鍵がかけられた。直後、内側から除菌スプレーを吹きつける乾いた音がした。祈が触れたドアノブを母が消毒しているのだ。
呼び鈴を押しても誰も出ず、母へ電話をかけると目の前の家の中から着信音だけが聞こえた。
やがてそれも切られ、二度目からは電源が入っていないという音声に変わった。
リビングのカーテンがわずかに動いた。
母がこちらを見ている。
しかし目が合うとすぐに閉じられた。
祈は旅行鞄を抱え家の前で夜が明けるまで待った。
だが朝になっても、扉は開かなかった━━。
◇
最初の二日は財布に残っていた金で安いビジネスホテルに泊まった。
三日目の朝、残金は千円を下回った。
停学中の高校生を事情も聞かず長く泊める宿はなく、両親に止められた口座から金を下ろすこともできない。
その夜から祈は駅のベンチで眠った。
冷房の利いた構内は夏の夜でも肌寒かったが、屋根と照明があるだけで安心できた。ところが終電が出ると警備員に肩を揺すられた。
「ここは宿泊施設じゃない。早く家へ帰りなさい」
「帰れないんです。お願いです、朝までここにいさせてもらえませんか……」
「事情があるなら警察へ行きなさい。さあほら、立って」
何度頼んでも聞いてもらえず、祈は旅行鞄を引いて駅を出た。
外では激しい雨が降っていた。
でも傘を買う金が惜しくて閉店した店の軒下へ身を寄せたが、風に吹かれた雨は足元から制服を濡らしていった。
翌朝、祈は熱を出した。
濡れたシャツが肌へ張りつき、身体の震えが止まらない。
それでも眠れば荷物を盗まれる気がして鞄の持ち手へ腕を通し、公園のベンチで朝を待った。
しかし一瞬だけ眠ってしまった間に旅行鞄は服の大半と一緒に消えていた。
残されたのは身体に着ていた制服と、電池の減ったスマートフォンだけだった。
祈はもう一度だけ家へ戻った。
雨に濡れ、熱で立っていることも難しいまま呼び鈴を押すとインターホン越しに父の声がした。
『お前は誰だ。次に来たら不法侵入で警察を呼ぶぞ』
「そんな……着替えだけでいいんです。少し休んだらすぐに出ていくから」
しばらく返事はなかった。
やがて母の声が、小さく混じった。
『近所に見られる前に、早くどこかへ消えて』
通話は切れた。
二階の自分の部屋を見るとカーテンも机もなくなっていた。
祈がこの家で暮らしていた痕跡は、わずか数日で片づけられていた。
それ以降、祈は二度と家へ戻らなかった━━。
スマートフォンの契約も間もなく切られた。充電できる場所を探し、駅や図書館の無料通信へつないで助けを求めた。
葵へ送った長いメッセージには、既読がついた。
『僕じゃない。信じてほしい』
返事を待っているうちに葵のアイコンが表示されなくなった。
ブロックされたのだと気づくまで、祈にはしばらく時間がかかった。
学校の友人にも連絡したが、返ってきたのは『盗撮犯が連絡してくるな』という一文だけだった。
今警察へ行けば家に帰るよう説得される。家へ電話をかけても両親は一度警察と話した時と同様に「息子が暴れて手に負えない。自分から家出した」と答えるだろう。
誰に話しても、祈の言葉は他人の都合のよい形へ変換された。
九月の終わりには河川敷が寝床になっていた。
昼間の熱を残したコンクリートに、スーパーの裏でもらった段ボールを敷く。夜露を吸った段ボールは明け方には柔らかく潰れ、背中も髪も湿っていた。蚊に刺された腕は赤く腫れ、履き続けた靴の中では潰れた水ぶくれが膿んでいる。
一日に口へ入れられるのは自動販売機の釣銭口で見つけた硬貨で買ったパンか、閉店間際の店でもらえた廃棄寸前のおにぎりだけだった。何も手に入らない日は公園の水を飲んで胃を満たし、飲食店の裏に積まれたごみ袋から漂う匂いを嗅がないよう鼻を袖で覆った。
三日間何も食べられなかった夜、コンビニのごみ箱に包装されたままのサンドイッチが見えた。手を伸ばしかけたところを同じ学校のバイトに見つかり、「盗撮じゃ飽き足らず泥棒もするのか」と怒鳴られた。
祈は何度も謝り、結局それを口にすることなく店を離れた。
空腹で眠れない夜は家の食卓を思い出した。母の味噌汁、父が好きだった生姜焼き、葵がくれた卵焼き。思い出すたびに唾液だけが溢れ、空っぽの胃が内側から縮んだ。
そんな祈を、制服姿しか知らなかった同級生が見つけた。彼らは助けを呼ぶ代わりにスマートフォンを向け、痩せた祈を笑いながら撮影した。
『盗撮魔、ホームレスになってて草』
その動画は一晩で何万回も再生された。コメント欄には因果応報、自業自得、被害者ぶるなという言葉が並んだ。
通行人は画面の中の祈を知っていても、目の前で空腹に震える本人には目すら合わせなかった。
空腹が限界を超えると食べ物のことしか考えられなくなる。
正しさも、名誉も、将来も、温かい弁当ひとつより遠いものになった。
そして十二月に入ると夜の河川敷は空腹に耐えるだけの場所ではなく、朝まで凍えずに生き延びられるかを試される場所になった。
だから一ノ瀬が現れた夜、祈は本当に救われたと思った。
「探したよ、祈……」
河川敷へ下りてきた一ノ瀬は、コンビニの袋を差し出した。中には大盛りの唐揚げ弁当と温かいお茶が入っている。
「学校で君のことを調べ直してる。証拠がおかしいって先生に話したんだ」
「本当……ですか」
「ああ、葵も言いすぎたって後悔してる。まずは食べなよ」
蓋を開けた瞬間、甘辛い匂いが鼻を満たした。祈は箸を持つ手が震えるのも構わず、唐揚げを口へ運んだ。米をかき込み、喉に詰まらせながらお茶で流し込む。
久しぶりの食事は、舌が痛くなるほど美味しかった。
「よかった」
一ノ瀬は、祈が半分以上食べたところで笑った。
「ちゃーんと、腹が減ってたんだな」
箸が祈の指から落ちた。
最初は寒さのせいだと思った。だが指先の痺れは腕を這い上がり、呼吸をする筋肉まで奪っていく。立ち上がろうとしても足に力が入らず、祈は食べかけの弁当と一緒に地面へ倒れた。
「どう、して……」
「君が戻ってきたら困るからだよ」
一ノ瀬の声から、心配する先輩の温度が消えていた。
暗がりから三人の少年が現れた。学校で一ノ瀬を慕っている不良たちだった。ひとりが祈の腹を蹴り、別のひとりが髪をつかんで顔を上げさせる。
「盗撮の、犯人……先輩……ですよね」
痺れた舌で、祈はようやく言葉を作った。
一ノ瀬はしゃがみ込み、汚れた祈の頬へ優しく触れた。
「最初から君が邪魔だったんだ。葵の隣には、いつも君がいたから」
「そん……な、葵は……」
「もう俺を選んだよ、君が何を言っても二度と信じない。まぁ二度と、弁解もさせないけどね」
鉄パイプが振り下ろされた。
骨が砕ける音が他人の身体から聞こえたように遠かった。祈は腕で頭を守ろうとしたが、毒の回った身体は動かない。何度も蹴られ、吐いたものの中に、さきほどの米粒と血が混じった。
誰かが動画を撮り、誰かが笑っている。
祈は助けを求めようとしたが声になったのは細い呼気だけだった。
祈の中で最後に思い浮かんだのは、復讐ではなかった。
両親でも、警察でも、教師でも、葵でもいい。
たったひとりでいいから自分の話を聞いてほしかった。
ただ、それだけを願いながら天羽祈は意識を失った。
* * *
祈の身体は車のトランクに押し込まれ、深夜の海へ運ばれた。
重りを巻かれた身体が防波堤から落ちると暗い水は一度だけ白い飛沫を上げ、すぐ何事もなかったように閉じた。
一ノ瀬たちの車が立ち去ったあと、祈が最後に聞いたのは海岸へ打ち寄せる波の音だけだった。
死者は寒さを感じない。苦しくもない。心臓は止まり、脳から電気信号が消え、天羽祈という人間を満たしていたものは流れ出していた。
これでやっと楽になれるかも知れない……。
するとそこへ、世界の外から何かが落ちてきた。
雲ひとつなかった夜空を雷光が引き裂く。
海面へ落ちるはずだった稲妻は途中で黒く染まり、影を伴った光となって水底の祈を正確に貫いた。
瞬間、海が割れた━━。
巨大な刃で水面を断たれたように左右へ押し退けられた海水が壁となってそびえ立つ。露出した海底の中心で、死んだ少年の身体だけが赤黒い雷に包まれていた。
声ではない声が空になった祈の器へ流れ込む。
それは名ではなく、概念だった。
原因には結果を。
罪には罰を。
逃れた悪には、逃れられない制裁を。
あまりにも正しく、あまりにも冷酷且つ最恐であったため神々からすら畏怖され、それらが数多の犠牲を払って次元の外へ追放した因果律。
古代の人々や神々は、その概念をかつて━━Elと呼んだ。
Elは死んだ少年を蘇らせたのではない。
天羽祈の記憶と空になった身体、そして赤黒い雷となって堕ちた神が溶け合い、そのどちらでもありどちらでもない新しい存在を作り上げた。
止まっていた心臓が、一度だけ脈打つ。
祈が目を開いたとき、左右に割れた海はまるで新しい主人を迎える臣下のように静止し、周囲の生き物たちは祈に向けて頭を垂れていた。
彼は裸足で海底に立ち、自分を取り囲む水の壁を見上げる。人間だった頃なら恐怖したはずの光景を前にしても心は小石ひとつ落ちない水面のように穏やかだった。
「お腹が、空きました」
神は祈りを喰らい、祈は食べ物を喰らう。
神となった少年が最初に口にしたのは復讐の誓いではなかった。
それを聞いた世界が震え、海が再び閉じた━━。




