第四十八話 救いと掬い 前編
午前七時十二分。
祈は《ミモザ》の厨房で、炊き上がったばかりの白米を丼へ移しながら黒いスマートフォンを見ていた。
画面には、昨夜確認した〈国際特別交流候補〉の情報が表示されている。
氏名━━宮原千紗。
年齢━━十六歳。
選定理由━━容姿評価A、成績優秀、父親死亡。
母親は介護施設の夜間勤務により不在時間が長く、国外滞在中に異議を申し立てる危険度は低い。
予定━━東亜青少年交流基金の奨学生として出国後、現地の提携校へ入学。
三日後、本人の同意による研修先変更を装い梁国華が指定する団体へ移管。
昨夜まで四十二時間と表示されていた出国予定が、十一時間後へ変更されている。
警察による捜索と久我の離反を知った一ノ瀬理事長が計画を前倒しにしたのだろう。
画面の下には、灰色の購入ボタンとは異なる白い表示が現れていた。
━━現在、対象者本人または関係者による出品は確認されていません。
━━審理および致死的執行は実行できません。
その下にはさらに一行が続く。
━━緊急保護は、購入手続きの対象外です。
「随分と重要な注意書きを今まで隠していましたね……」
祈は自分で作ったはずのシステムへ文句を言い、丼へ生卵を三個落とした。
祈りがなければ罪を量って人間を殺すことはできない。
だが崩れかけた建物から子供を助けることや、走っている車を止めることまで神が祈られるのを待つ必要はないようだ━━。
祈の両親へ返したあの時間も処刑ではない。
二人の身体には致命傷を与えず時間の感覚と環境を再現しただけの〈非致死性の返品〉であり、購入履歴にも執行記録にも残っていない。
それによって次の執行期限が延びなかったことこそ、神の規則が両者を区別している証拠だった。
「救うだけなら無料ですか……」
祈は卵かけご飯を一口食べる。
「人間の生命保険より多少は良心的ですね」
「朝から誰と話してるの?」
七緒が厨房へ入ってきた。
「神へ利用規約の改善を求めておりました」
「寝起きから罰当たりね」
「回答がございませんので、顧客対応にも問題がございます」
七緒は祈の前へ味噌汁と焼き魚を置いたあと、丼の大きさを見て溜息をついた。
「ご飯、それで何杯目?」
「これは最初の丼です」
「茶碗何杯分かを聞いてるの」
「器の単位まで遡って尋ねられるとは、今日は取り調べが細かいです」
「さっきまで満タンだった炊飯器が、V8のアメ車並の速さで空なんだけど?」
「炊き上がりを確認した後、適切に保存されました」
「祈くんのお腹へ保存することを、家事では炊飯って言わないの」
七緒はもう一度米を研ぐため、棚から計量カップを取り出した。
昨夜ほとんど眠れなかったのか、目元には薄い隈がある。それでも相談ノートを出品しかけたことには触れず、祈も黒い端末を伏せた。
「本日は、買い出しへ出かけてもよろしいでしょうか」
「学校は?」
「午前中は自宅待機です」
「じゃあお昼から行きなさい。何を買うの?」
「飛行機へ持ち込めないものを少々」
「液体とか?」
「良心です」
「空港の保安検査でも見つからないでしょうね」
「では、現地調達を諦めていただきます」
七緒は冗談だと思って笑った。
祈は笑わなかった。
* * *
同じ頃、宮原千紗は市内から四十キロ離れた研修施設の個室で窓の外を見ていた。
東亜青少年交流基金が所有する二階建ての建物は元は企業の保養所だったらしく、周囲を高い木立と金網に囲まれている。
門には〈国際交流事前研修中〉という札が掛けられ、職員からは出国前の安全管理のため外へ出ないよう説明されていた。
千紗が短期留学へ応募したのは通っている高校の担任から奨学金制度を紹介されたことがきっかけだった。
渡航費も授業料も基金が負担し、現地では日本語を話せる家庭が受け入れる。
母親には金銭的な負担をかけずに海外で学べる機会だと聞き、面談で会った毒島からは家庭の事情を理由に夢を諦める必要はないと励まされた。
だが、施設へ到着した昨日の夕方から説明は少しずつ変わっている。
同じ研修へ参加すると聞いていた生徒は一人もいない。
スマートフォンは海外用の設定を行うという理由で預けさせられ、旅券も基金が一括管理すると言われた。
母親へ到着を知らせたいと頼んでも研修中の私的な連絡は禁止されていると断られた。
そして午前六時には、出国が明後日から今日へ変更されたと告げられた。
「どうして急に今日なんですか」
朝食を運んできた女性職員へ尋ねても現地の学校の都合としか答えない。
「母に電話をさせてください。今日出ることは知らないから」
「こちらから連絡します」
「自分で話したいです」
「宮原さん。お母様は、あなたの留学に同意されています」
「明後日に出ることへ同意したんです」
「二日程度の変更で、恵まれた機会を捨てるつもり━━?」
職員の口調から昨日まであった親しさが消えた。
「あなた一人のために多くの大人とお金が動いています。ここで我が儘を言えば学校にもお母様にも迷惑がかかるのよ」
千紗はそれ以上言えなかった。
母親は一人で自分を育て、夜勤の回数を増やしてまで塾へ通わせてくれた。
自分の不安だけで留学をやめればその努力を無駄にしてしまうと思った。
女性職員は千紗が俯いたことを同意と受け取って部屋を出た。
外側から鍵がかかる音がする。
その瞬間、千紗の中で曖昧だった不安が明確な恐怖へ変わった。
机の引き出しにもクローゼットにも電話はなく、窓は数センチしか開かないよう金具で固定されている。
助けを呼ぼうとしても施設の周囲には民家一つ見えない。
千紗は何か使えるものがないかベッドの下へ手を入れた。
指先に、薄いプラスチックの板が触れる。
引き出すと、古い学生証だった。
写真の少女は自分と同じくらいの年齢で、氏名欄には〈高城玲奈〉と書かれている。裏側にはボールペンで何度もなぞった短い文章が残されていた。
〈学校はない〉
〈旅券を渡さないで〉
〈梁国華を信じないで〉
千紗は学生証を握り、扉から離れた━━。
* * *
午前八時四十七分。
一ノ瀬理事長は、押収を免れた予備端末から毒島へ電話をかけていた。
『宮原千紗の出国を、本日午後六時へ変更した』
「あまりに急です。本人が不審に思っています」
『思わせておけ。飛行機へ乗せれば梁先生の管轄だ』
「通常便では母親から連絡が入った場合に止められる可能性があります」
『母親には通信設備のない山間部で三日間の研修を行うと伝えてある。学校からも同じ説明をさせた』
一ノ瀬の机には宮原千紗の母親が署名した同意書とその署名を別の書類へ転写した渡航承諾書が並んでいた。
「梁理事は?」
『施設へ向かわせている。空港までは基金の車両を使用しろ。学校法人の名前は出すな』
「私も同行するのですか」
『当然だ。宮原が騒いだ場合、相談担当者として落ち着かせろ。それがあなたの仕事だ』
毒島が黙る。
『和泉愛理のときと同じ失敗をするな』
「……承知しました」
『それから、和泉七緒の意見書は予定どおり提出しろ。天羽祈を施設へ戻したあと、宮原の記録と同じサーバーへ行動評価を作成する』
「候補として扱うおつもりですか」
『いや、アレを商品にできると思うほど私は楽観的ではない』
一ノ瀬理事長は昨夜復元された事故現場の断片映像を見た。
大型配送車の前に少年の姿は映っていない。
しかし車体が衝突直前で潰れ、何十トンもの質量が横へ置かれる現象を人間の技術だけで説明することもできなかった。
『身体と能力を調べ、制御できるか判断する。できないなら帰る場所を奪い続けろ』
通話が切れたあと、毒島は一ノ瀬から送られた旅程表を印刷した。
背後に立つ梁国華が紙を覗き込む。
「理事長は、相変わらず慎重ですね」
「慎重だから、ここまで続いたのです」
「宮原という少女が騒いだら?」
「母親へ迷惑をかけたくない子です。自分さえ我慢すればよいと思わせれば従います」
「それでも従わなければ」
梁は微笑み、千紗の旅券を胸ポケットへ入れた。
「現地では、声の大きさに価値はありません」
* * *
午前九時十三分。
県警本部では、火村と森川が久我から受け取った会談音声を三度目まで聞き終えていた。
「これ、子供を売ってた……ってことですよね」
森川はヘッドホンを外してもすぐに机へ置くことができなかった。
「留学、研修、受入先変更。書類の上では全部本人と保護者の同意がある」
「でも、その同意を取る前に家庭の弱みを調べている」
「弱みだけじゃない。容姿に等級をつけて金額を決め、騒ぐ家族がいるかまで選別してる。教育事業の皮を被せた人身取引だ」
火村は令状請求のための資料をまとめたが、久我が違法に設置した集音器の音声だけで直ちに奴らの本部と関連施設のすべてを捜索できるとは限らない。
音声の中で過去の取引を認めていても、現在誰がどこから送られようとしているのかまでは分からなかった。
「火村さん」
森川のパソコンに、送信者不明のメールが届いた。
件名は〈交換留学における旅程変更のお知らせ〉。
本文には宮原千紗の氏名、研修施設の住所、基金が使用する車両の番号、本日午後六時に出国予定であることが記され、渡航承諾書と母親が実際に署名した同意書の画像が添付されている。
二枚の書類は、署名部分だけが完全に一致していた。
「差出人は追えそうか」
「経路が存在しません。メールサーバーにも受信した記録がなくて、最初から受信箱にあったように表示されています」
「なるほど……アイツの得意分野だな」
火村はそう呟いたが、立ち止まっている余裕はなかった。
「宮原千紗の母親へ連絡しろ。本人から旅程変更を聞いているか確認する。所轄には施設の外から状況を見させろ、令状が出る前に踏み込むな」
「メールを信用するんですか」
「すべて信用はしない。だから人間の足で確かめるんだ」
十分後、千紗の母親と連絡がついた。
娘は明後日に出国すると聞いており、昨夜から一度も本人の声を聞いていない。
三日間の研修中は連絡できないと学校から説明されたが、スマートフォンまで回収されるとは知らなかった。
火村が今日の出国予定を伝えると母親は電話の向こうで息を呑んだ。
『そんなこと同意していません。娘を帰してください!』
「宮原さん。娘さんが危険な状態にある可能性があります。正式に保護を求めますか」
『お願いします! あの子をどこにも連れていかないで……!』
本人の保護を求める家族の意思と偽造された可能性のある渡航承諾書、そして現在地が判明した。
火村は上着をつかむ。
「森川、行くぞ」
「令状は?」
「出るまで施設の前で待つ。もし車が動けば、旅券法と未成年者誘拐の疑いで止める」
「間に合いますかね」
「時刻表まで送られて乗り遅れたら、もう刑事を辞めるしかないだろ━━」
* * *
午後三時二十六分。
基金の研修施設から予定より二時間半も早く黒いワゴン車が出た。
運転席には基金の男性職員、助手席には梁国華が座り、後部座席の中央へ千紗、その左右を毒島と女性職員が挟んでいる。
毒島は千紗の手へ自分の手を重ね、優しい相談員の声を作っていた。
「急な変更で不安なのは分かるわ。でも、現地へ着けばきっと来てよかったと思える」
「……学生証を見つけました」
千紗の言葉に、毒島の指が止まる。
「ベッドの下に、高城玲奈という人の学生証がありました。学校はない、梁国華を信じるなって書いてあった」
梁が運転席へ目を向ける。
「空港へ行く前に、別の場所へ寄りなさい」
「どこへ連れていくんですか」
千紗が立ち上がろうとすると、左右の大人が同時に腕をつかんだ。
「放して!」
「落ち着きなさい、宮原さん」
「お母さんに電話させて下さい! 留学は行かない!」
「ここまで準備してくださった方々に失礼だと思わないの?」
「そんなの知らない! 家に帰りたいっ!」
毒島の顔から、最後の笑みが消えた。
「あなたは、自分のことしか考えられないのね」
千紗の肩が震える。
「お母様がどれほど苦労してあなたを育てたと思っているの。奨学金を辞退すれば学校にも費用が請求されるし、お母様の勤務先へ事情を説明しなければならなくなる。あなた一人が我慢すれば誰にも迷惑はかからないのよ」
六年前、愛理へ使ったものと同じ言葉だった。
車内の誰も気づかないまま、千紗が握っていた高城玲奈の学生証から黒い文字が一つずつ浮かび上がる。
〈高城玲奈は悪くない〉
〈我慢する必要もない〉
千紗は目を見開いた。
幻覚のような文字はすぐに消えたが、自分の恐怖を初めて誰かが肯定してくれた。
「嫌です」
「何ですって━━?」
「私一人が我慢すればいいなんてもう言わないで」
毒島が千紗の頬へ手を伸ばした瞬間、ワゴン車のカーナビが一斉に黒く染まった。
画面へ白い文字がバグのように表示される。
〈経路を再検索します〉
〈経路を再検索します〉
〈経路を再検索します〉
〈経路を再検索します〉
〈経路を再検索します〉
〈経路を再検索します〉
〈経rヲ……〉
運転手が電源を切っても表示は消えず、ハンドルが人間の手を拒むように右へ回った。
「止めろ!」
梁が叫ぶ。
「操作していません!」
ワゴン車は一般道から建設途中で閉鎖されている検査用道路へ入り、後方の遮断機が下りた。
出口にはコンクリート製の壁があるはずだったが、ヘッドライトの先には空港の入国審査場に似た無人の通路が続いている。
両側に並ぶ窓口はすべて閉まり、頭上の案内板には〈帰国者専用〉とだけ表示されていた。
「ここは、どこだ……?」
ワゴン車が停止する。
後部座席の扉が、内側から操作していないのに開いた。
黒い煙が通路の中央へ集まり、顔も年齢も分からない細い人影となって立っている。
「El……」
毒島が、掠れた声で名前を呼んだ。
『お迎えに上がりました━━』




