第四十六話 子供の声はよく売れる 前編
午前一時十三分。
七緒の指は出品ボタンへ触れる寸前で止まっていた。
妹が助けを求めた相談ノート。
販売価格、十三円。
説明欄には一文字も入力されていない。
それでも毒島沙耶の顔と教室で愛理の手紙を読み上げる声を思い出せば、誰を裁いてほしいのかは七緒自身が最もよく分かっていた。
時計の秒針が十二の位置を通り過ぎる。
都市伝説どおりなら、今押せばElが商品を見るかもしれない。
愛理が悪くなかったことを明らかにして毒島が何をしたのか全国へ知らせ、妹と同じ恐怖を味わわせてくれるかもしれない。
その最後に毒島が死ぬことまで七緒は想像していた。
「……駄目」
小さく呟き、出品画面を閉じる。
保存された下書きも削除した。
「誰かを殺さないでって願った私が、自分の復讐だけは別だと思っていいわけないよね……」
相談ノートを缶へ戻し、蓋を閉じる。
壁を隔てた隣室では祈の黒いスマートフォンから灰色の商品輪郭が消えていた。
━━出品準備が取り消されました。
購入画面は一度も開かれず、執行期限だけが静かに減り続けている。
祈は端末を伏せた。
七緒が誰を憎み、何を出品しかけたのか知っていたが自分から部屋を訪ねることはしなかった。
神へ届かなかった祈りを拾い上げれば、それは救済ではなくただの盗み聞きになる。
数分後、祈は部屋を出た。
七緒の部屋の前を通り過ぎて階段へ向かう。
「祈くん?」
扉の向こうから七緒の声がした。
「起こしてしまいましたか」
「まだ寝てなかったの。どこへ行くの?」
「冷蔵庫です」
「夜食?」
「睡眠前の栄養補給です」
「一般家庭ではそれを夜食って言うの」
いつもの声を作ろうとしていたが、僅かに掠れている。
「七緒さんも召し上がりますか」
「いらない」
「温かい飲み物だけでも」
「……じゃあ、少しだけ」
祈は出品画面について何も尋ねず、七緒も自分が十三円を入力したことを話さなかった。
二人は一階の厨房で向かい合い祈は大盛りの焼きそばを、七緒は蜂蜜を入れた紅茶を口にした。
「眠れないのですか」
「ちょっと昔のことを思い出しただけ」
「そうですか」
「聞かないの?」
「七緒さんが話したいのであれば伺います」
「話したくないって言ったら?」
「焼きそばをドローします」
七緒は少しだけ笑った。
祈が自分の秘密を無理に聞かないことへ安堵しながら、自分も祈の秘密を問い詰めずにいる理由を考える。
祈が何者でもElとどのような関係があっても、今この厨房で食事をしている少年まで失う答えなら知りたくない。そう思っている自分が、ただ真実から逃げているだけなのかは分からなかった。
午前二時、七緒は空になったカップを流しへ置いた。
「おやすみ、祈くん」
「おやすみなさい、七緒さん」
祈は七緒が二階へ戻るまで見送ったあと、残っていた焼きそばをすべて食べた。
次の執行期限まで、九十四時間十二分。
七緒から祈りは届かなかった。
それでよいと考えたのが天羽祈だったのか、それともその身体へ宿る神だったのか本人にも区別はつかなかった。
* * *
その朝、一ノ瀬学園では捜査員による捜索が始まった。
一ノ瀬真の自宅、写真部の部室、生徒会室、理事長室。
捜索差押え令状に基づき事件に関係する端末と記録媒体、車両の運行記録や学校内の監視映像が順番に押収されていく。
一ノ瀬真は前日の午前十時から行われた任意聴取を終えたあと、自宅へは戻らず弁護士事務所に滞在していた。
火村たちは殺人未遂の疑いによる逮捕状を請求するため坂口の供述と二つの重り、祈の血液、粘着テープに残った指紋を一つずつ整理していた。
理事長は捜査員の前でも学校経営者としての冷静な顔を崩さなかった。
「息子が証拠へ触れた理由は、昨日すべて説明したはずです」
「助けようとした、という話ですか」
森川が尋ねる。
「真は……昔から他人を見捨てられない子でした」
「その割には一か月以上黙っていましたけど」
「恐怖による混乱でしょう。坂口という生徒から脅迫され、さらにElによる処刑映像を見れば十七、八歳の少年が正常な判断を失っても不思議ではない」
「一ノ瀬真さんは坂口さんの家族へ連絡した記録があります」
「友人を心配していたのでは?」
同じ事実へ別の名前をつけるだけで脅迫は心配へ、隠蔽は保護へ変わる。
森川は言い返そうとしたが火村が先に理事長室の予定表を手に取った。
数か月前から現在までの会合が細かな文字で書き込まれている。
その中に、同じ法人名が何度も現れていた。
一般社団法人〈こどもの声〉。
代表理事、毒島沙耶。
「児童支援団体と随分頻繁に会っているんですね」
「本校の生徒相談事業を一部委託しています」
「相談記録も渡している?」
「適切な契約と本人の同意に基づいて共有しています」
「天羽祈の記録も?」
理事長は一拍置いて答えた。
「個別の生徒情報については、ここでお答えできません」
火村は予定表の一ページをめくる。
今月だけで毒島との会合が四回あり、そのうち一度には〈東亜青少年交流基金・梁理事同席〉と書かれていた。
「この梁理事という人は?」
「中国で青少年交流を支援する民間基金の役員です。本校と海外研修事業について協議しました」
「生徒相談の委託先と海外研修の基金が同じ会議へ出るんですか」
「子供の健全な成長を支援するという目的は同じです」
「随分と広い健全ですね。まさか海の向こうまで届くとは━━」
理事長は答えなかった。
予定表だけでは犯罪の証拠にならない。
火村は写しを取るよう森川へ指示し、本来の捜索対象である事件関係資料の確認へ戻った。
理事長の机から押収されたノートパソコンは初期化が行われていたが復元できる可能性はある。
「一昨日の夜、端末を初期化しましたね」
「生放送中に不正アクセスを受けたためです」
「なるほど、警察が息子さんの指紋を確認した夜に?」
「偶然です」
「この学校は"偶然"を教育方針に入れているのか」
火村はノートパソコンを証拠袋へ入れた。
「通信記録を消そうとしたときも、同じ説明を聞いた気がするがな━━」
* * *
午前十一時三十分。
《ミモザ》の自動ドアが開き、白いスーツを着た毒島沙耶が入ってきた。
テレビで見たときと同じ穏やかな微笑みを浮かべ、その後ろには若い女性職員が書類の入った鞄を抱えている。
「いらっしゃいませ」
七緒は反射的に接客の言葉を口にしたあと、相手の顔を見て動きを止めた。
「お久しぶりね、七緒さん」
「どうして……ここに」
「一昨日の生放送と昨日の報道を拝見しました。あなたが天羽祈さんを預かっていると知って驚いたわ」
毒島は店内を見回した。
祈は窓際の席で遅い朝食を食べている。
児童相談所との取り決めにより学校は二日間休むことになり、七緒の用意したフレンチトーストを七枚重ねた皿にナイフを入れていた。
「愛理さんのことも思い出しました」
毒島は悲しそうに目を伏せた。
「あなたにとって、今も大きな傷でしょう……」
「名前を呼ばないで」
七緒の声が低くなる。
「あら……」
「あなたの口から妹の名前を呼ばないでください。名前が穢れる」
若い職員が一歩前へ出ようとしたが、毒島が片手で制した。
「私を恨んでいるのね」
「当たり前でしょう。理解できないならただのうつけです」
「私は、教師としてできる限りのことをしたつもりです」
「愛理の手紙を皆の前で読んだことが?」
「クラス全体で問題を共有し、解決する必要がありました」
「愛理に無理やり謝らせたことも?」
「一方的に誰かを加害者と決めつければ新しいいじめが起こります。本人の認識と周囲の認識をすり合わせるための指導でした」
「その一週間後、愛理は死んだんですよ」
「ええ。だからこそ私は今の活動を始めたの」
毒島は胸元へ手を当てる。
「あの経験が、子供の声を聞く仕組みの必要性を私へ教えてくれました。愛理さんの死を無駄にしないため、これまで何千人もの子供を支援してきたわ」
七緒の拳が震えた。
「妹の死を、自分の功績みたいに言わないで……」
「功績ではありません。使命です」
「なるほど、その使命のおかげで蓮◯みたいに白シャツに襟を立て、テレビにも出られるようになったんですね。次は二重国籍にしたらどうですか?」
祈が席から口を挟むと毒島の視線がそっちへ向く。
「天羽祈さんね」
「ご存じでしたか」
「今、日本であなたを知らない人の方が少ないでしょう」
「七緒さんの妹さんについても、同じ程度には覚えておいででしたか?」
「もちろんです」
「亡くなった子供の名前を暗記するだけで専門家になれるとは……卒業証書を19.2秒ジャストで見せるより簡易的ですね」
「祈くん」
七緒が止めようとしたが、祈は毒島から目を逸らさなかった。
「あなたは当時の事情を知らないでしょう」
「存じません」
「なら、口を挟まない方がよろしいかと」
「事情を知らない人間に黙るよう求める。相談事業の理念を見事に実演してくださっているのですね」
毒島の笑みが僅かに固まる。
「言葉が鋭いのね」
「教室の前で晒し首のように手紙を読み上げる方に、言葉の鋭さを諭されるとは思いませんでした。人の言動ばかり揚げ足を取って自分の言動は忘れる……まさにあの方ソックリですね」
若い職員が祈を睨む。
「代表は、和泉さんへお話があって来たんです」
「奇遇です。こちらはご注文を伺う店ですので、話より先に何か召し上がっていただければ利益になります」
「結構です」
「では、今のところ損失しかございません。襟を正してからお引き取りを」
毒島は祈を無視して七緒の方へ身体を向けた。
「愛理さんの相談ノートをまだ持っているそうね」
七緒の顔が強張る。
「どうして知っているんですか」
「当時、あなたが教育委員会へ提出した写しを覚えていたの。原本は返却されたはずでしょう」
「それが何ですか」
「あなたが祈さんの保護を引き受けたことで、過去の件まで取材されるかもしれません。古い記録が断片的に広がれば、当時の生徒たちが根拠のない中傷を受ける可能性がある」
「根拠なら、ノートに書いてあります」
「愛理さんの主観よ」
「助けを求めた子供の言葉を否定せず、最後まで聞くべきじゃなかったんですか」
七緒は前日のテレビで毒島が口にした言葉を返した。
「テレビでお話しする原則と、個別事案の処理は別です」
「随分便利な原則ですね」
祈がフレンチトーストを一口食べる。
「放送中だけネオンを掲げ、死者には適用されない。何処かの両親の家族愛と似た経営形態です」
「あなたには関係のない話です」
「七緒さんのご家族の話ですので━━」
祈はナイフを置いた。
「僕には関係がございます」
声は穏やかだったが、毒島は一瞬だけ足元が底知れない闇へ沈んだような錯覚を覚えた。
少年の背後に店内の天井では収まらないナニカが立っている。
目を凝らせば消える程度の影なのに、本能だけがこれ以上近づくなと警告していた。
毒島は視線を七緒へ戻す。
「……ノートを私たちの法人で保管させてください。愛理さんの尊厳と、関係した子供たちの現在を守るためです」
「嫌です」
「感情だけで判断しないで」
「妹の声を皆の前へ晒した人には二度と渡しません」
毒島の笑みが消えた。
「七緒さん。あなたは今、未成年の少年を一時的に預かる立場でしょう」
「それが何ですか」
「過去の喪失に強く囚われ、Elの事件へ関係する少年と生活している。第三者から見れば養育環境について慎重な確認が必要になるかもしれない」
七緒の指がカウンターへ食い込む。
「祈くんを使って脅すつもりですか」
「脅してはいません。子供の安全を心配しているだけ」
「子供を守る方は随分と子供の手懐け方にお詳しい」
祈が言った。
「人質支援も事業内容に含まれておりますか?」
「っ……」
「おや、図星でしたか」
「天羽さん」
毒島は少年へ向き直る。
「自分が置かれている立場を理解した方がいいわ。あなたの周囲ではElによる事件が起き、人間には説明できない事故まで続いている。和泉さんを本当に大切に思うならこれ以上負担をかけるべきではないでしょう」
「ご助言ありがとうございます」
祈は丁寧に頭を下げた。
「では、七緒さんへ負担をかける方から順に店外へ出ていただけますか」
「あなた自身のことを言っているのよ」
「おや、相談者本人ではなく相談員が答えを決める形式でしたか。いのちの電話に相談すべきでした」
祈は毒島の背後にある自動ドアへ視線を向ける。
「しかし妹さんの件から進歩どころか、退化していて安心しました」
自動ドアが開く。
すると風もないのに店内の紙ナプキンが毒島の側だけ一斉に床へ落ちた。
「おや、この方にも人感センサーの自動ドアがちゃんと機能しましたか」
「……なんですって!?」
「おめでとうございます、僕にはそうは見えませんが機械的にはまだギリギリ人間のようです」
「っ……!」
「お引き取りください」
七緒が言った。
「ノートは渡しません。祈くんも手放しません」
「後悔することになるわ」
「後悔はもう何年もしています」
七緒は毒島から目を逸らさなかった。
「今度は、あなたの番です」
毒島は若い職員を連れて店を出ていった。
自動ドアが閉まったあとも祈は毒島の乗った車が角を曲がるまで視線を向けていた。
「祈くん」
「何でしょう」
「今、何かした?」
「自動ドアの開閉の話でしょうか」
「それは人が近づいたら開くの」
「動作原理の方が人間より公平なようですね」
「そういうことじゃなくて……」
「七緒さん」
祈は空になった皿を持ち上げる。
「八枚目をお願いしてもよろしいでしょうか」
「絶対に誤魔化してるよね」
「空腹は、あらゆる疑問より先に処理すべき問題かと」
七緒は追及しなかった。
ただ、祈へ新しいフレンチトーストを焼く間二階にある相談ノートのことを考えていた━━。




