第四十五話 家族は生放送の後で解散する 後編
生放送が終わった日の午前十時。
昨夜のうちに出頭の時刻を調整した一ノ瀬真は父親が依頼した弁護士とともに県警本部へ来庁し、取調室へ入った。
逮捕されたわけではない。
制服にも髪にも乱れはなく、任意の事情聴取へ協力する模範的な生徒の顔をしている。
真壁誠司が使っていた取調室は封鎖されているため、別の階にある録音録画設備の整った部屋が用意された。
火村が正面へ座り、森川が記録係として斜め後ろへ位置する。
「お時間を取っていただき、ありがとうございます」
一ノ瀬は先に頭を下げた。
「警察が僕を捜していると聞き、逃げたと思われたくなかったので来ました」
「誰から聞いた」
「父です。学校へ捜査員が向かっていると警備担当から連絡があったそうです」
「鑑定結果も聞いているか」
「ロープから、僕の指紋が見つかったと」
火村は弁護士を見る。
「ほう、随分詳しいな」
「捜査機関の内部情報を不正に得た事実はありません」
弁護士が代わりに答えた。
「本人は、自分の指紋が見つかる可能性を以前から認識していました」
「なぜだ」
一ノ瀬は膝の上で両手を組んだ。
「あの夜、祈のロープへ触ったからです」
森川のペンが一瞬止まる。
「……続けろ」
「去年十二月、坂口たちが祈を河川敷へ呼び出したと聞きました。祈へ盗撮のことを認めさせると言っていたので止めようと思って追いかけたんです」
「坂口たち、とは誰だ」
「坂口航平を含む三人です」
「ほう、自分を人数から外すんだな」
「僕が着いたとき、祈は既に動かなくなっていました」
一ノ瀬は火村の皮肉へ反応せず続けた。
「坂口たちは、祈を海へ捨てれば何も分からなくなると言ったので僕は反対しました。でも、止めようとすれば自分も同じ目に遭わせると脅されて……」
「それでどうした」
「海岸までついていきました」
「止めるために?」
「はい」
「警察にも救急にも連絡せず、暴行した人間が被害者を運ぶ車へ一緒に乗った」
一ノ瀬の指が、僅かに強く組まれる。
「怖かったんです」
「便利だな、恐怖ってのは」
火村は机へ速報の写しを置いた。
「鉄パイプから、天羽祈の血液が見つかった」
「それは僕も知りませんでした」
「お前は鉄パイプへ触ったか」
「触っていません」
「では、ロープはどうして触った」
一ノ瀬は一度だけ息を吸った。
「祈の身体へ重りを結びつけたあと、坂口たちが車へ戻った隙に僕がロープを解こうとしたからです」
「祈は生きていたのか」
「分かりません。ただ、僅かに息をしたように見えました」
「解けたか」
「結び目へ指を入れたところで坂口が戻ってきました」
「それで諦めた」
「殴られると思って……」
「なんだと? 天羽はそのあと海へ落とされたんだぞ」
火村の声が低くなる。
「自分が殴られるのが怖くて、重りを二つ結ばれた死にかけの人間を置いて帰ったと?」
「……はい」
一ノ瀬は俯いた。
「僕は、卑怯でした……」
反省しているように聞こえる言葉だった。
だが火村は、真壁の取調べで何度も見た偽りとは異なる種類の嘘を感じていた。
真壁は相手の言葉を自分の筋書きへ押し込んだ。
一ノ瀬は物証を否定せず、自分から罪の一部へ入り込み最も重い場所だけを他人へ差し出している。
「でした、じゃなくて今も卑怯だけどな。どうして今まで黙っていた」
「祈が学校へ戻ってきたとき、混乱しました。死んだと思っていた人間が生きていた。自分が見たものまで分からなくなったんです」
「坂口が出頭したあとも?」
「父に相談しました。証拠のない状態で話せば僕まで坂口の共犯にされると言われました」
父親の名前を出しながら、責任は直接負わせない。
「解こうとしたのは、どちらの重りのロープだ」
火村が尋ねる。
「二つ目の、祈の身体から少し離れた方です」
「どこへ指を入れた」
一ノ瀬の視線が僅かに右へ動いた。
「結び目の、端の方へ。暗くて、細かいところまでは覚えていません」
「ロープの端を引いたか。それとも結び目を広げたのか」
「指で広げようとしました」
「ほどけかけたのか」
「いえ。固くて、ほとんど動きませんでした」
森川が、その答えを記録した。
火村は一ノ瀬の顔から視線を外さない。
「粘着テープはどうした」
「テープ……?」
「切ったのか。剥がしたのか」
「知りません。僕はロープにしか触っていません」
「指紋が残っていたのは、結び目の内側へ折り込まれたテープの粘着面だ」
一ノ瀬の瞳が一瞬止まる。
「その部分は結んだロープの外から指を差し込んだだけでは触れにくい場所にある。結び目をほどかず、テープにも気づかなかったというお前の説明と指紋の位置を照らし合わせる必要がある」
「そこまでは覚えていません」
「ロープを結ぶ前に、テープを扱ったことはないんだな」
弁護士が机の上へ手を置く。
「推測に基づく追及であれば、これ以上本人へ回答させません」
「構わん。今日の説明は記録した」
火村は資料を閉じた。
指紋だけでロープを結んだ人間だと断定するつもりはなかった。
だが救助しようと触ったという説明をそのまま事実として受け取るつもりもない。
結び目の構造やテープが折り込まれた位置、坂口たちの供述。
一ノ瀬が今選んだ言葉をそれぞれと照合する。
「今日は任意で話を聞いた。それで疑いがなくなったとは思うな」
一ノ瀬は顔を上げた。
「僕は逃げません」
「助けようとした人間が、助かった相手へ一か月以上何も言わないのか」
「信じてもらえないと思ったんです」
「天羽も、同じことをきっと言いたかっただろうな……」
一ノ瀬の表情からほんの一瞬だけ反省の色が消えた。
火村は、その一瞬を見逃さなかった━━。
* * *
同日の午後。
祈は児童相談所の職員とともに《ミモザ》へ戻った。
親権停止の審判が確定したわけではないが両親宅へ戻すことが本人の利益にならないという判断により、当面は児童相談所の監督下で七緒宅へ一時保護委託される。
店の裏口へ到着すると、七緒が朝から何度も確認した鍵を開けて待っていた。
「おかえり、祈くん」
「ただいま戻りました」
「荷物、それだけ?」
「施設で歯ブラシを頂きました」
「そうじゃなくて」
「着替えもございます」
祈が小さな紙袋を持ち上げる。
七緒は何か言いかけたが代わりに祈の背後へある扉を閉めた。鍵はかけず、いつでも内側から開けられる状態のままにする。
「お腹、空いてる?」
「大変遺憾ながら」
「遺憾なの?」
「帰宅時に空腹であると、最速で催促しているように聞こえますので」
「何言ってるの? 祈くんはいつでも最速で催促してるでしょう」
七緒は厨房へ入って保温していた鍋の蓋を開けた。
豚汁、炊き込みご飯、鶏肉の照り焼き、卵焼き。
さらに冷蔵庫にはプリンが二つ並んでいる。
「今日は好きなだけ食べていいよ」
「何のお祝いでしょうか」
「おうちに帰ってきたお祝い」
「昨夜も帰宅祝いを頂いたような……」
「昨夜は途中で警察の話になったから、やり直し」
「やり直す、と仰る方はリスポーン地点をお選びになれて羨ましいです」
祈は両親へ向けたのと同じ言葉を口にしたが、声に棘はなかった。
「ふふっ……不満かな?」
「いえ。今回は玄関の内側から始まりますのでありがたいです」
七緒は笑い、祈の前へ大きな茶碗を置いた。
祈が三杯目を食べ終えた頃、店内のテレビでは昨夜の生放送を扱う報道番組が始まった。
父親の勤務先が自宅待機を命じたこと、児童相談所が親権停止を申し立てる準備に入ったこと、警察が保護責任者遺棄の疑いについて捜査していることが報じられる。
続いて、両親がそれぞれ代理人へ離婚の相談を始めたと伝えられた。
家族の再会を掲げた番組への出演者が放送翌日に別居を望んでいるという。
「早いですね」
祈は豚汁を飲みながら呟く。
「ご両親は家族でやり直したいと仰っていましたが、解散の方が先に決まったようですね。中道革◯連合よりも早いです」
「祈くん」
「何でしょう」
「悲しくない?」
「何がですか」
「お父さんとお母さんが離婚すること」
祈は少し考えた。
「壊れた空き家が二軒に増えるだけですので、僕の帰宅先には影響ございません」
七緒はもう両親のもとへ戻るよう勧めなかった。
「それより七緒さん」
「何?」
「僕を何か月も捜せなかった方々が、離婚届だけは一日で見つける。行政手続きにも得手不得手があるのでしょうか」
「その皮肉、本人たちの前では絶対言わないでね」
「直接の接触を控えるよう求められておりますので、行政が僕の良心を保護してくださいました」
「うわぁ……言う気だったんだ……」
七緒が呆れながら祈の茶碗へ炊き込みご飯をよそう。
テレビでは番組の司会者が、有識者を交えた検証へ話題を移していた。
『今回の事案では学校で疑いをかけられた少年が家族からも話を聞いてもらえず生活の場を失いました。子供が発するSOSを大人はどう受け止めるべきなのでしょうか』
画面が切り替わる。
白いジャケットを着た四十代の女性が、穏やかな微笑みを浮かべて座っていた。
肩書は、一般社団法人〈こどもの声〉代表理事。
氏名━━毒島沙耶。
『大切なのは子供の言葉を否定せず、最後まで耳を傾けることです』
毒島はカメラへまっすぐ視線を向けた。
『子供は自分の苦しみを上手に説明できません。大人が先に答えを決めつければ、その小さな声は簡単に消えてしまいます』
七緒の手から茶碗が落ちた。
床へ当たった陶器が割れ、炊き込みご飯が散らばる。
「七緒さん」
祈が立ち上がる。
七緒はテレビを見たまま動かなかった。
顔から血の気が引き、包帯の巻かれた左手首が小さく震えている。
『支援は一人の教師だけで抱え込まず、学校全体で取り組む必要があります。必要に応じて外部の相談先へ繋げることも大切です』
毒島の声が続く。
司会者が頷いて画面には相談窓口を紹介する文字が流れた。
七緒の横で割れた茶碗の音など聞こえなかったように、番組は穏やかに進んでいた。
「七緒さん。お怪我は?」
祈は割れた陶器へ触れようとする七緒の手を止めた。
「僕が片づけます」
「……その人」
「ご存じですか」
七緒の唇が震える。
「妹の担任だった人」
テレビの中では毒島が子供の小さな変化に気づく重要性を語っている。
「愛理がクラスで無視されてるって相談した。靴を捨てられて机に死ねって書かれたことも、全部手紙にして渡したの」
七緒は息を整えようとしたが、うまく吸えなかった。
「聞かなかったのですか」
祈の問いに、七緒は首を横へ振る。
「違う……聞かなかったんじゃない……!」
画面の毒島が、悲しそうな表情を作る。
『子供の秘密を守り、安全な場所で話を聞くことが何より大切です』
「あの人は愛理の手紙を、クラス全員の前で読んだ━━」
七緒の目から涙が落ちる。
「誰がそんなことをしたのか自分で名乗り出なさいって。誰も名乗らなかったら愛理の思い込みだって言って、クラスの空気を悪くしたことを皆の前で無理やり謝らせた」
祈の表情から、普段の僅かな柔らかさが消える。
「そのあと、妹さんは」
「一週間後に、学校の屋上から飛び降りた……」
七緒はエプロンの裾を強く握った。
「学校はいじめを確認できなかったって発表した。毒島先生は愛理が家庭のことで不安定だったと話して……私が夜まで働いてたことまで原因にされた」
テレビの中の毒島が最後に視聴者へ呼びかける。
『どうか子供の声を聞いてあげてください。大人が耳を塞いだ瞬間、その子は世界に独りになります』
七緒はリモコンをつかみ、テレビを消した。
「あの人が……愛理を独りにしたのに……!」
店内へ静寂が落ちる。
祈は七緒の隣へ立ち、泣き止むよう求めることも毒島をどうしたいのか尋ねることもしなかった。
ただ割れた茶碗を一片ずつ拾い、七緒の指が傷つかないよう自分の掌へ載せていった━━。
* * *
その日の深夜。
七緒は《ミモザ》の閉店後、二階の自室で古い缶の箱を開いていた。
中には妹の生徒手帳、欠けた髪留め、学校から返却された携帯電話、そして青い表紙の相談ノートが入っている。
最後のページには愛理の文字で短い文章が残されていた。
『毒島先生なら、話を聞いてくれると思った』
その下には、何度も消して書き直した跡がある。
『私が悪いって、みんなの前で言われた』
七緒は相談ノートを胸へ抱いた。
机の上のスマートフォンには、昨夜から検索していた都市伝説のページが開かれている。
午前一時十三分。
十三円。
亡くなった人間の遺品。
説明欄に奪われたものと裁いてほしい相手を書く。
七緒はフリーマーケットアプリを起動し、出品画面へ相談ノートの写真を追加した。
商品名━━妹が助けを求めたノート。
販売価格の欄へ、十三円と入力する。
説明欄へ指を置いたところで七緒の手が止まった。
『人を殺さないで━━』
事故の日、祈へ言った自分の言葉を思い出す。
毒島沙耶を許したわけではない。
法で裁かれるなら今すぐ警察へ行きたい。
だが学校も教育委員会も当時既に問題はなかったと結論づけている。
相談記録は書き換えられ、クラスの生徒たちも教師の前では何も見なかったと答えた。
火村にこのノートを見せることもできる。何も変わらないとまだ決まったわけではない。
それでも、もう一度話して記録を渡して返事を待つ間に毒島は明日も子供の声を聞く大切さを語るのだと思った。
愛理の手紙を読み上げた口で優しい大人として拍手を受ける。
その姿を、七緒はこれ以上見たくなかった。
七緒は出品ボタンを見つめた。
隣の部屋では祈が眠っている。
七緒に殺すなと言われ、その言葉を守るため自分を狙った運転手さえ不思議な力で生かした少年がいる。
その七緒自身が、妹を殺した人間を十三円で差し出そうとしていた。
祈には、殺さずに帰ってきてほしかった。
それなのに自分は妹のためなら誰かが死んでもよいと思いかけている。
その違いを、七緒はうまく説明できなかった。
相手が悪いからだと考えかけて指を止める。
祈を狙った運転手も悪くなかったわけではない。それでも七緒は生かしてほしいと願った。
でも自分の妹のことになった途端その願いを別の人間へ向けられなくなる。
相談ノートの端が握り締めた指の中で歪んだ。
七緒は慌てて力を緩めたが、画面へ置いた指までは離せなかった。
日付が変わり、時計は午前一時十二分を示す。
祈の部屋では枕元の黒いスマートフォンがひとりでに点灯した。
━━次回の執行期限まで、九十五時間。
その下へ、まだ出品されていない商品の輪郭が灰色に浮かんでいる。
祈は目を開けた。
壁一枚を隔てた向こうで七緒の指が出品ボタンへ触れようとしている。
午前一時十三分まで、残り一分。
人を殺さないでと願った女性が、今度は自分の祈りを十三円で送ろうとしていた━━。




